貧しいことは悪いことではない |
たしかに飼い犬と飼い主(とくにオバサン)は似ていることが多いけれど、それを面と向かって言ったことはないなあ。

台風が来るからと家の周りに砂嚢を置いている家があって、入念な人だなあと思ったが今朝はそれが片付けられて、二つほど門の脇に残っている。
台風が来るぞ、さあ備えろ、過ぎ去った、片付けろ、また台風だ、、ぼくのようなズボラにはとてもできないな。


鴉や猫に食われないように子供を育てるのは大変だと。
この鴨たちも何羽かのうちやっと二羽だけが残っているが、油断はならないぞ。



貧しいということはその人の責任であり罪であり悪だから、彼らのやることは微罪でも厳罰にして牢屋にぶち込んでしまえ、(雇用ではなく)警察力を強化しろ、刑務所を(民営化して)増やせ。
福祉予算は切り捨てろ。
そうした方が国益であるばかりか貧しい人たち自身にとっても利益なのだ。

アホノミクス・安倍のミスの思想(とも言えないが)というのは、前世紀末にアメリカで始まって世界に広まった(今、肝心のアメリカでは反動も起きている、警察官の暴力に対する反発など)ネオリベが肩怒らすゼロ・トレランス=刑罰国家のすすめだ。

そういう人は少なくない、でもそういう人がほんとに○○でも××でもやるか
リッパな家のきれいな庭を見ながら散歩して、ついついこの家に住む人のうち、ほんとに自分(だけ)の業績で、この環境を手に入れた人はどのくらいいるんだろうと思い、そういう家の門構えより狭いスペースに住んで日の当たらない軒下に満艦飾の洗濯物を干している人がほんとうに努力の足らない怠け者なのかと思う。
道であえば上品な笑みを浮かべて犬の話などしているマダムたちもホームレスや知的障碍者たちが微罪で逮捕され刑務所に入れられるのを寧ろ歓迎しているのが、「世の中の真実」というやつ、アベノミスはこういう俗情に根を下ろし、煽り立てて支持者を増やす。
「悪い貧乏人」が人の嫌がる・不安定な労働力となってアホノミクスを下支えする。
人間教育が必要なのは、かえって富める者たちに対してなのではないだろうか。

やっぱり本は本屋で手に取って買えよってか。
パラパラめくっていたら、「老いは病ではない」という文章があった。
ところが、これは河合先生が「老いに関する書物を読み、そのなかに生物学的な本も読んだのだが、なかなか理解しがた」かった折、多田富雄の話を聴いて印象に残ったことを書いているのだ。
その話というのは端的にいうと「老いは病ではない」ということ、
先生のお考えでは、「老い」というのは生物学的に研究するとき、生物の発生や分化などのようにすっきりといかないらしい。端的に言えば、現代の科学をもってしてもわからないことが多いらしい。「よし、それほどわからぬものなら、自分の生き方で老いに挑戦してみよう」河合先生はそんな気持ちになった、というエッセイでありました。
それにもかかわらず、われわれは「老い」を一種の決まりきった「病」のように考えて、年をとれば「ぼけて死ぬ」と非常に単純な図式で考えすぎていないだろうか。