阿片を売って中国進出・日本軍 牧久「特務機関長 許斐氏利 風淅瀝として流水寒し」 |
憲法改正などは単なるスローガン、現実行動で日米軍事同盟の実をあげようとし、国内は秘密保護法、放送法、政府人事、予算コントロール、、有形無形の圧力を行使して有無を言わさず、見ざる・聞かざる・知らざる体制を作り上げつつある。
そんなときに日本人は先の大戦に突入していった国内の政治・軍部・思想家たちの具体的言動をもう一度勉強し直す必要があると思う。

許斐(このみ)氏利、博多出身の暴れん坊が、やがて沖縄戦のさいごに割腹自殺をして果てたという長勇(最後は中将)と義兄弟の契りを結び、戦時中は長の求めるところ、満州馬賊として、上海・ハノイの特務機関長として、謀略・スパイ・金策・テロ、阿片や物資の調達、、縦横無尽に軍を助けた。
南京大虐殺にもかかわっているようだ。
5・15事件、2・26事件は有名だが不発に終わった3月事件、10月事件もその後の日本のあり方を決めるのには重要な事件だった。
最後の殿様こと徳川義親、北一輝、橋本欣五郎中佐を中心とする桜会、大川周明らが革命を起こそうとする。
稚拙、しかし深刻ではあった。

東京にある日本政府・興亜院、中国各地の傀儡政府が、国ぐるみ・組織ぐるみで阿片(蒙疆、ペルシャなど産)の獲得とその販売に取り組んだ。
特務機関の活動資金も阿片がその多くを賄った。
三井物産・三菱商事・大倉商事および彼らの出資で設立した「昭和通商」がその仲立ちをする。
後に国鉄総裁として「粗にして野だが卑ではない」と国会で大見得を切った石田礼助は三井物産代表取締役として「昭和通商」の非常勤役員になっている。
筆者が後に日経の「私の履歴書」の執筆を乞うたが頑なに断りつづけ、しんみりと
君ねえ、人間の一生というものはねえ、胸を張って威張れることだけではないんだよ。『私の履歴書』に登場する人たちは、本当に自分の人生のすべてを書いているのかねえ。書きたくないことだって、あるんではないかねえ。と語った由。
勲一等の叙勲の話も断ったという。
1921年のハーグ阿片条約には日本も批准していたから、国家ぐるみの国際条約違反だった。

昭和17年2月15日、シンガポールが陥落。
長勇(南方軍参謀副長)少将は予てからの持論である重慶政府(蒋介石)との和平工作に動く。
汪の南京政府は当てにならない(本書では汪の重慶脱出は偽装かもしれないという)、日本がピークにあるうちに中国と和平して南方経営、対米戦争に専念すべきだ、と。
そのときに手足になって動いたのが許斐機関だった。
5回に及ぶ重慶側の交渉を終え、長は中華民国からの全面撤退も覚悟して上京、東条首相兼陸相と面談するが、東条は東京の了解も得ず勝手なことをしたと激怒する。
長はその後もなんども東条を説得する。
先輩や同僚のなかに共感を示す者もいるが敢えて東条の面を冒そうというまでには至らない。
東条は長を満州の歩兵団長に左遷、その後サイパン奪回作戦(無謀に過ぎるので中止)、沖縄防衛の参謀長に任命、そこが長の死に場所となる。
海軍は東条の怒りを恐れてミッドウエーの敗戦を伝えていなかったという説も(震源地は東条自身)あるという。

あったとしても民間人・許斐に乗るスペースがあらばこそ。
許斐は大本営に働きかけ陸軍大臣特使として沖縄軍に感状を届けることになるが飛行機が飛び立たない。
そうするうちに長から、「来るな、七代まで生きて小生の衣鉢を継いで欲しい」と手紙がくる。
此れは一人の不覚なる統領のために、万人をあやまたしめたる罪を拭い下さるべく、斯くは最後の願、長がひとえに願上げ候ものに候也筆者は、これをもって、大川周明や長勇たちの「和平工作」をことごとく無視し、「祖国の大局」を誤り、多くの日本人を死に追いやった東条英機に対する「暗殺指令」だったのではないか、と書く。
長の自決を知った許斐は自分の小指を切り落とす。
大川周明が東京裁判で東条の頭をピシャリとやったのは正気の沙汰だった。
東京裁判では許斐は完全黙秘を貫き、41日間断食、詐病により精神病棟に入り、別件で執行猶予つきの判決を受け釈放。
銀座に東京温泉を作る。
長と言い許斐と言い東条と言い、戦争は異常な人間の活躍する機会を創る。
ウエッジ