お茶漬けサラサラ、よかちょろパッパッ 第516回「落語研究会」 |
毎月一度の落語研究会、あっという間にひと月が過ぎる。
光陰矢の如し、その意味は?
、、コーインてのはなあ、矢のようだてんだ志ん朝が何かのマクラで言ってた。
現代人は光=時の流れという感覚が身についていて、光速ってことも知っているから、それを矢の速さに喩えるってのが変な気もする。

馬治「真田小僧」
刑務所の近くの子供が懲役ごっこをする小噺で今まで聴いたのは、みんな「終身懲役」と言う。
そんな刑はないのになあ、と思っていたら馬治「無期懲役」と言った。
金坊が真田六連銭をだまし取って芋を買うところまでやった。
ここまで聴かないと「真田小僧」と言うネタ名の意味が分からない。
兼好「百川」
マキ舌の相談もある祭り前河岸の若いモンたちと田舎弁丸出しの百兵衛の珍無類のやりとり、お約束の「ひえっ!」はいつ聴いても愉快だ。
軽妙な話し振りで受けていた。
惜しむらくは“マキ舌”がない。
普通の今の標準語の若い衆になっていた。
平治「源平盛衰記」
来年十一代文治を襲名するそうだ。
その文治の十八番、軍記の語りの間にいろんなクスグリや小ネタを挟みこんで聴かせるのが噺家の腕の見せ所。
と言っても俺は談志のしか聴いたことがない(前の三平のはCDで)。
驕る平氏ならぬ奢る平治の失敗談などもあって明朗闊達な源平盛衰記だった。

雲助「よかちょろ」
始めのうち、ちょっとのらなかったが、道楽息子が親父の小言に恐れ入るどころか憎々しく開き直って「浪費=女遊びのどこがいけない」みたいな態度がまことに面白くていつの間にか雲助ワールドに浸ってしまった。
掛け取りにいって回収した二十両をきれいさっぱり遊びに遣いこんでしまった息子がその使い道を説明する。
謹厳な親父は筆とソロバンを持って一銭も書きもらすまいと構える。
まず、髭そりに五両と願います。ナニい?五両だと!
(吉原の)大店、三階の角部屋、窓を開け放つととても見晴らしがいい、花魁の部屋着を引っかけて、床几にこう斜にかまえたあたしの横顔を花魁が見つめ、その顔に髪結いの職人が、こう、ぬるま湯に浸した手拭いをあて(言いながら目の前の親爺の顔を撫でる)、ここに鏡があって、こっちには新造が座って、ここには猫がいたりいなかったり、、そんな髭そりだったら五両も安い。
ついでは
よかちょろ、十五両と願います。安くていずれ値がでる。おお、さすが我が子、アキンドの道に目覚めたかと喜んで、その「よかちょろ」なるものについて尋ねると、朗々と歌い出す
は~~、女なりとも、まさかのときは、ハッハッ、よかちょろ。主にかわりて玉ダスキ、よかちょろスイのスイの、してみてしっちょる、味よ見ちゃよかちょろ。しげちょろパッパッ。これで十五両。
なんとなく艶笑譚的な味わいがある。
じゃんけんをして酒を飲ませたり着物を脱がせて遊ぶ“拳“の歌、「よか」「しっちょる」などは長州人や薩摩っぽをからかう遊び人の底意があるとは平岡正明の指摘。
「山崎屋」の頭、続きは来月の落語研究会でやるという、楽しみが一つ増えた。

志ん輔「刀屋」
ブログに、この噺の稽古をしたと言う記事が何度も出ていたから楽しみにしていた。
徳三郎、契ったはずのおせつが婿取りをすると聞いて逆上、殺してやる、と刀屋で”ふたり殺せる”刀を買いに来る。
不審におもった刀屋の親爺が徳三郎を宥めたり諭したり。
世の中スイスイお茶漬けサラサラ一緒にお茶漬けでも食おうと誘う。
落語ってのは油断できないネ、こういう言葉がすらっと出てくる。
世の中スイスイお茶漬けサラサラ、いいね。
稽古の甲斐あって、難なく出来上がった。
難なく、そこが難か。
面倒なことを言う客だ、我ながら。