梟通信~ホンの戯言:落語・寄席
2023-11-21T15:51:09+09:00
saheizi-inokori
ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・
Excite Blog
人間国宝がずっこけた人形町
http://pinhukuro.exblog.jp/30495641/
2023-11-21T11:37:00+09:00
2023-11-21T15:51:09+09:00
2023-11-21T11:37:12+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
街にあいさつするために、一時間ほど早くいった。
変っているようなそうでもないような、いぜんはほとんど必ず入った銭湯の姿はみつからず、角のおでん屋や「笹新」は頑張っている。
落語の前に腹ごしらえをしたソバ屋はもうなくなった。
その代わり、いぜんは見るだけだった「まつむら」で、「チキンカツバーガー」100円玉ふたつで買って、閉店間際の店のなかで食った。
まだぬくもりの残っているようなふわっとしたパンとチキンカツ、うまし!
日本橋劇場の落語会は「雲助一門 師弟四景」、なつかしい居残り会6人で鑑賞。
高校くらいまで、夏休み明けに登校して、級友に顔を合わせる瞬間がどきどきして、ちょっと恥ずかしいような気がした。
他の子もしばらくは教室の壁を背にして並んで、あとからくる子を待っていた。
居残り会も夏休みよりは長い久闊だったが、傘寿・僕はさすがにそういう感傷は沸いてこなかった。
前座が「真田小僧」、題名がでてこなくてIさんに尋ねて笑われた。
白酒「お見立て」
ホストクラブのホストが、あんなに若い女性にもてる、その秘密を盗みたいくらいと、時事ネタで客席をつかむと、遊郭の一室、杢兵衛大尽が女がこないと、すごい訛りで叫んでいる。
花魁喜瀬川は、あんな男のところに出たくない、「病気になったと言っとくれ」と、喜助にいう。
そりゃいかん、見舞いに行く、喜助慌てて喜瀬川に伝えると「入院したことに」、「病院はどこだ、見舞いに行く」「死んじゃったことにしとくれ」、あお~ほ~ほ~!オオカミの遠吠えより凄まじい杢兵衛の嘆きの咆哮、病因は杢兵衛の無沙汰を恨んでというのが、ひどすぎる。
「墓参りに行く」、喜助は、適当な墓に連れて行くが、男の墓だったり、幼子のだったり、怒る杢兵衛に「適当なのをお見立てください」。
爆笑白酒は健在だった。
雲助「ずっこけ」
人間国宝になった雲助を初めて見る、べつに変わっちゃいないって。
風呂にいくつもりで家を出た熊さん、「いらっしゃ~い」の声につられてふらふらと居酒屋へ。
知っている人が通ったら払ってもらおうと思っているうちに、とうとう閉店の時間まで飲みつづけて、ヘベノレケ、帰ってほしいと頼む小僧を宥めたり脅したりして、もう一本だけ、冷でいいから。
かみさんに頼まれて兄いがつれ帰りにやってくる。
管をまく熊をやさしくなだめて、金を払い、小僧には多額の釣銭をくれてやる。
小便のめんどうまでみて、「親兄弟でもやってくれない」親切な兄い、雲助の兄いはとてもよかった。
逃げ噺ともいうべき、軽い噺を臨場感たっぷりに、さすがは人間国宝。
中入り後
馬石と龍玉リレーで「真景累が淵 お久殺し」
円朝作の怪談。
馬石は声が聴きとりにくい、老人たちが二階席にいるってことを弁えよ。
それに、リアルな演技芝居に力が入り過ぎて、かえって怖くない。
龍玉は大きな分かりやすい声で、リアルを追及しない話ぶりで、こちらの想像力で怖さを感じさせる。
終って、近くのちゃんこやで居残り会。
あいかわらず、箸がころばなくても女学生のように笑って、あっという間に閉店時間。
熊さんにならないように(さいきんは直ぐに殺されちゃうもんね)、再会を約してバイチャ。
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古今亭志ん生「風呂敷」
http://pinhukuro.exblog.jp/30443238/
2023-09-18T12:30:00+09:00
2023-09-18T12:30:04+09:00
2023-09-18T12:30:04+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
亭主が今日は帰らないと云うんで、若い男といっぱいやっていたら、とつぜん亭主がへべれけになって帰って来る。
やきもち焼の亭主に男と二人でいたことを知られたら大変だから、男を押し入れに隠しておいて亭主を寝かそうと思ったが、亭主は押し入れの前にでんと座って動かない。
カミさん、困って兄さんのところに助けを求めにやって来る。
兄さんは、大きな風呂敷を持って、その家に行き、素知らぬ顔で亭主の愚痴を聞いてやる。
「用事が済んだから早く帰ったら、人の顔を見るなり、親の仇に出っくわしたような顔をして、もうかえったのかあい!とこうだ。そして、あんまり早いから、もうお寝よって、お前の顔は人を寝かせるような顔じゃねえ、寝てるものが飛び起きて駈けだすような顔だ、、、油虫の背中みてえな色をしやがって、寝ようよとは、なにごとだ、、なぜそう亭主をおびやかすんだ」とご機嫌が悪いが、ふと、「それで、おめえは?」と兄貴の用件を尋ねる。
「俺かい?俺やあなんでもねえんだ」と気乗りのしないようすで、「よそで少しごたごたがあって、、口利きでな」というと「どんなごたごただ?え?」と亭主が乗って来る。
「泊って帰るといった亭主が早く帰ったために、いっしょにいた若い衆を押し入れに隠したんだが、酔っぱらった亭主が押し入れの前に座って動かねえんだ」「ううん、始末に悪い野郎だなあ、それでどうやって片っつけた?」「(そっけなく)いいよ、どうしても」「おいおい、聞かしてくれやい」、てんで、こっからは仕方噺で、風呂敷を取りだして、「こうやって、その野郎の頭にさあ、すっぽりかぶせちゃって、めえるか?めえねえだろう、そうやって、こっちい少し押して,そこの押し入れをな、すういとあけたんだ、なあ?ひょいとみるとその野郎いやがんのよ」、そこで「早くでろ、忘れもんはねえな」どうやらねえようだ、下駄あ間違えるんじゃねえぞ、そしたらな下駄も間違えねえように行っちゃったからな、その風呂敷を取ったって、、話だ。
酔っぱらった亭主、「そうかあ、あ、そいつはうまく逃がしやがったなあ」
とまあ、そんな噺、兄貴と女房、兄貴とカミさんの間のギャグの連続と後半の亭主と兄貴の会話と仕方噺が見所だ。
この噺、僕はテープをいくつか持っているから、しょっちゅう聴いている。
なんど聴いても飽きずに、一人でクスクス笑っている。
口げんかで、出てけと言われた女房が「ああ、出ていくよ、出て行くから返せ、私(しと)のシャツ着てやがって」「その代わりてめえ、俺の猿股はいてやがるじゃねえか」とか、女房をこともあろうに「シャツの四つ目のボタンみてえなもん、あってもなくてもいい」とか、「百万年前のトカゲみてえな面(つら)ァしやがって」とか、間男していることを薄々勘づいている兄貴が、「女は三階に家なし」とか「貞女びょうぶにまみえず」とか「じかに冠を被らず」「おでんに靴を履かず」などの頓珍漢な教えを垂れたりもする。
今の日本じゃ、セクハラ・パワハラの誹りもあるだろうが、可笑しいものは可笑しいのだ、書いたものではあの間の面白さは半分も伝わらないけれど。
テープでは想像してみるしかなかった後半の仕方噺のセリフと手さばき・目配り、見事なもんだった。
これで、テープで聴く時の想像の翼がより大きく羽ばたくだろう。
番組の司会を文菊がしていたが、志ん生の芸を前にすると、いかにも不自然さが際立ってしまうのだった。
落語を見たあとは本を読むつもりだったが、ついヤクルト対巨人の中継を見てしまった。
ヤクルトは敗け続けて、もうB級確定なのに、急に調子をあげて今頃になってDeNAに勝ったりする。
クライマックスシリーズに巨人を出場させないためには、DeNAが勝ち残らなければならないのだ。
ヤクルトの勝利よりも巨人の敗北を願うなんざ、スポーツを愛する資格がないようなものだが、あの監督の笑い顔を見るなら野球をみたくないのだ。
むかし、巨人がホテルかなんかでやった納会に古今亭志ん生を呼んだのはいいけれど、師匠が高座をつとめているのに、みんなワイワイガヤガヤ、落語を聴いている人なんかいなかった。
そのときに、志ん生は倒れて、三途の川の手前まで行って「もう少し、しゃべってろ」と言われて戻ってきたのだ。
だから巨人は志ん生の仇でもあるのだ。
僕が末広亭で聴いた志ん生は、その生還後の高座で、いったん幕がおりて若い連中に抱えられて高座に坐ったのちに幕が開いた。
もうあの歯切れのよい喋りはなくなったが、みんな志ん生の生きて話すのを見て満足したのだ。
野球は、さいごに巨人に逆転されてしまった。
御嶽海も負けるし、これで志ん生を聴かなかったら、無しにしたいような一日だった。
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生の落語はいいな 龍志・志ん輔・遊雀三人会
http://pinhukuro.exblog.jp/30353166/
2023-06-20T12:25:00+09:00
2023-06-20T12:32:10+09:00
2023-06-20T12:25:56+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
歌の文句じゃないけれど、あれは三年前、新宿紀伊国屋ホールで一之輔を聞いて文句をつけたのが、生落語の最後だった。→一之輔の精進を期待する 春風亭一之輔独演会@紀伊国屋ホール
三茶の歯医者で治療用義歯の型を取って、Yモバイルショップでスマホの不具合について訊ねて、カフエで子母澤寛の「幕末奇談」を読んでいたら、おもしろくて夢中になって、ちゃんとした晩飯を食う時間がなくなる。
永田町駅も久しぶりだから、あんなになんども通った出口が分からなくなって駅員に尋ねたが、ぶっきらぼうな答え方は、ひでえもんだった。
コンビニで握り飯を買って、ベンチに座ると、すぐに雀が一羽寄って来る。
遊雀がお出迎えの使者を送ったのだ。
よしよし、米粒を少しづつやって、いっしょに食べた。
前座のいっ休が「牛ほめ」。
国鉄の同期のN君にちょっと似た坊主頭の一休さん。
懐かしい寄席の噺を基本に忠実にきかせてくれた。
遊雀 「悋気の独楽」
あがるやいなや、「いやんなっちゃう」、楽屋で志ん輔と龍志とが「年寄りが病気の話ばっかり!」、なに遊雀・58歳もなんたらの手術の話をしていたのだ。
三味線のえりさんの酒癖の悪さもネタに、伝法なため口で会場の温度をあげる。
本題は単純な噺、それだからか、「旦那の独楽がお妾さんの独楽の方に行くと、(今夜は)御泊り」のところを「お帰り」と間違えて、そのあと続けてごちゃごちゃになる。
「動揺しています、さいごまでたどり着けるのか」と笑いに変えてはいたが。
志ん輔 「甲府い」
国立演芸場、劇場が建て替えになるので、ここの会もあと二回というのでびっくりする。
二つ目のときに、初めてお座敷によばれて噺をした思い出噺。
途中から芸者が大勢入ってきて、「あら、こちらもうおひとついかがですか」などのうるささに落語を聴く雰囲気にならず、途中で帰された、その話で、大師匠の志ん生が読売巨人軍の納会に呼ばれて、選手たちのうるささに落語にならず、それがもとで倒れた話を思いだした(僕のアンチジャイアンツのひとつの理由)。
噺家たちが楽屋で病気のことばかり話したように、客席の年寄りもなにかといえば、病気のことを想うのだ。
浅草演芸ホールで、本題に入るのを待っていたかのように、席を立って、大きな声で「ごめんなさい」「おやいい服だね」などと他の客に喋りながら外にでていったかと思うと、客席に残っている友達と「しいちゃん!どこ行った?」「しっこ!」「売店で何買う?」「なにがあるの?」と大声でやりとりするお婆さんの噺、こういうのこそ、噺家の表情や臨場感があって生で聞くと面白さが際立つ。
本題は、甲府から志を立てて上京した若者が掏摸にあって難儀しているのを、善き豆腐や夫婦が救って、あげくに婿にするという、ほのぼの明るい僕の好きな噺だ。
どういうのだろう?志ん輔は相変わらず、考え過ぎているのではないか。
豆腐やの大将がなんだか大店の大旦那のようだ。
もっと気さくで軽い親方になれないのか。
あちこちに工夫をこらしたセリフが用意されているのだが、それが全体のリズムに乗っていないから、悪目立ちしてしまうような気がした。
というより、ぜんたいとしてリズム感がない。
それでも、かつての志ん輔の重さからすれば、ずいぶんよくなってはいるのだが。
龍志 『五人廻し」
遊雀58歳、志ん輔69歳、そして龍志は74歳、その龍志の噺がいちばんよかった。
立川流で寄席に出られなくて途方に暮れているときに志ん輔から声をかけてもらって、二人会をずっと続けてきたことなど、志ん輔に感謝の言葉からはじめて、むかしの遊郭のこと、自分が玉ノ井の近くで育ち、遊郭の女性たちに着物を作っていた祖母の使いで、着物を届けては、お姉さんたちに可愛がられた、その可愛い坊やがこんな爺になって女郎買いの噺をするのだ。
一人の女郎が一晩に何人もの客を取る「廻し」、関西にはない風習、まあ、金のない客が相手だ。
一晩待っても、お相手が登場しないで、もんもんとして朝を迎えることもざらだったらしい。
そういうところに「遊び」の面白さがあるのだから、怒ったりしては無粋というもの、といっても、誰だってそりゃ、いらいらするはずだ。
4人のもてない男の、いらいらぶりを、吉原に行ったことのない噺家が面白おかしく話して、吉原のこと自体を知らない客が大笑いする。
喜助という若い衆に当たるのだが、その当たり方が四人四様、「三歳のときから、吉原に出入りして、吉原の歴史から、店の数、女郎や芸者の出身地や経歴、どこのおでん屋の汁が甘いか、犬の糞をみてどの犬のものか、、分からないことはない、だから払った一円を返せ」と、聞き取りにくいくらいの早口で啖呵を切る男、「四隣沈沈閨中寂寞、人跡途絶え、寂として声なきはちと心細ォい!」と漢語調で高飛車に出る軍人、「この閨中でげすな、ええ、まあ、お床いりのときに、ま、そばに姫なるものが侍っていたほうが、、よろしいか?あ、それともいま、拙のように、ねえ?幅広くゆったりと寝床に一人でいられる方が仕合せか、う、尊君にちとその辺のところを、ちと承りたい」とねちねちと絡む酢豆腐の若旦那みたいな男、「いやあ、ちょっくらここで、紛失もの(おいらん)があるで探してるだい」と畳をあげてみせる田舎者。
描かれる世界、言葉のひとつひとつ、そのくすぐり、もう現代っ子には理解困難かもしれない。
文楽や狂言のようになってしまうかもしれない。
でも僕はこういうのがいいのだ。
解りやすく、誰でも爆笑するように変えてしまわないほうが。
こういう噺を喜ぶ客のために、龍志よ、がんばって長生きしてくれ。
仲入りのときに、ロビーにでたら志ん輔の奥さんが娘さんに付き添われて人々と話しをしている風だった。
さいごは、遊雀 「くしゃみ講釈」
志ん輔が客の生態を話したのを受けて、彼のじっさいにみたという話。
客席で椅子の下を覗いている女性に「なにかお探しですか」と高座から尋ねると「はい!おじいさんがいないのです」、そのあともしばらく落語にならなかったという。
現役時代に、労働組合の幹部が課長を探して僕のところに血相を変えて「どこに行った?」と聞きに来たので(難しい局面で、課長が逃げていると踏んで)、まじめな顔をして机の引き出しを開けたりデスクマットを上げて探している風で「いないなあ」とやったら、彼らが噴出してそのまま引き上げたことを思いだした。
150センチ台の背の低い課長だった。
憎い講釈師に恥をかかせよう、そのために客席で火鉢で胡椒をいぶして、くしゃみで話ができないようにしよう。
悪い相談をした、その講釈師に恨みのある男が、そうとうな健忘症で、乾物屋で胡椒を買うのに、なにを買うのか忘れてしまう。
覗きからくりの「八百屋お七」をうたって「小姓吉三」のことを、思い出そうとする。
そのトンチンカンで笑わせた。
やはり生の落語はいい。
会場の笑いが僕にも作用して笑いの相乗効果がある。
噺家の会場の空気に反応した芸の変化が面白い。
なんといっても、噺家の表情や仕草は音で聴く落語では想像するしかないのだ。
ここに引っ張り出していただいたことをしみじみと感謝しつつ家路についた。
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小三治がいる
http://pinhukuro.exblog.jp/30230727/
2023-01-24T12:22:00+09:00
2023-01-24T13:23:18+09:00
2023-01-24T12:22:33+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
なんで自分はマクラをながながやるようになったか、とかを、いろんなマクラに即して、そのマクラを知らない人にもわかるように中身を話しながら、それを作ったときの気持なども語る。
アッチ飛びこっちトビ、融通無碍な話題の転換、爆笑させながら、あるある、そういうことだよな、と、恐らく客たちは頷いているのだろう。
藍川由美という歌手に小三治の『自分の歌』を集めて歌ってもらって、CDにした。
そのなかの歌いろいろ、「白い花の咲く頃」、「桜貝の唄」中田喜直のこと、「夏の思い出」、いろいろ歌いながら、「山のけむり」だけは特別だったという。
中学の時の初恋の女性とお堀端を歩きながら歌って聞かせたが、失恋に終わり、敷布団をまるめたようなものでガンとやられた感じがして、その後30過ぎるまで「山のけむり」は封印していたが、新宿ゴールデン街のバーで流しに歌われて号泣してから、ふたたび歌うようになったと言って、歌って見せる。
小三治はいっとき歌を本格的に習って、あるときなどは手に入りがてのチケットを買って集まった客を前に最初から最後まで、歌を歌うだけだったという、高座にグランドピアノをおいて。
小三治が落語協会会長のときに市馬を副会長に抜擢したのは、高座で歌を歌うという共通項があったからか。
とつぜん、話は変わるけれど、とワールドサッカーを見ていて思ったけれど、なんでみんな、あんな色の髪にしているのでしょう。
俺は体制じゃないというつもりだろうけど、揃いも揃ってあれじゃ個性なんかない、こういうフアッションでなければ弾くんでしょ、皆体制だ!個性を認めない、しかも11人も集まって、一時間も二時間もやってやがって一点か二点しか入れられないってどういうこったい!もっとうまいヤツ呼んで来いよ!本気で怒って見せる。
前の林家正蔵が、オリンピックのバスケット中継を見ていて、そばの弟子に「おい、あの籠、穴があいているって誰かおせえてやらねえのか」といった話を思い出す。
私の歌、それぞれ皆さん「私の歌、自分の時代の歌」があっていいですね。
東海林太郎、ビートルズ、北島三郎、、それぞれいいでしょう、ただ松田聖子、あれが私の歌という人はちょっとかわいそうな気もします、好みでしょうけど、私にとってはなんか気の毒な気がします。
合間に「森の水車」を歌う。
僕もよく歌った歌だ、四つ違いの兄さんだけど、好きな歌はほぼ重なる、「公園の手品師」とかもね。
「花の街」、これはいいですね、と朗々と歌いながら、「壮大ですねえ、七色の谷を越える、なんか風になったような気がします」その歌詞の良さを解説する。
これはすごいなあ、團伊玖磨です。
藍川由美、いいですね、私は毎日毎日このCDを聴きました。
でも、いくらいい歌でもあんまり毎日聴いていると嫌になるんですね、どんな美人でも一緒に暮らせば飽きるように。
いい歌から嫌になる、といって「七色の谷を越えて」、これです、なんと大げさな歌でしょう、「七色の谷をこえる?」やり過ぎだよこりゃ、あの歌は良くない。
最後まで残った歌が「あの人とっても困るのよ」。
歌いながら「くだらねえ、歌があるもんだなあ、こんな歌おまえらほんとにこさえたのか」「だから何なんだよ」と思いながら、「七色の谷」よりも飽きない、単純でいい、すべての人の本心が現れている。
てな調子で、こんどはママという呼称について、魚屋のお母さんにはどうかと脱線する。
「山のけむり」の人と一度しか手を握らなかった自分、なんだこの歌の三番は、「この人こっそりやってきて髪や耳たぼ引っ張ったりする」とは、女のひともそうして欲しいのか、それならそうで早く言ってくれよ、そうすりゃ俺はいっくらでも髪の毛でも耳たぼでも引っぱってやったのに、そうしてりゃ、あの人はお嫁に行っちゃたりしなかったのに」
やや今の時代ではジェンダー的に問題もあるけれど、ときどき背中や肩をかきながら聴いた。
スマホの画面は静止画面なのに、横になって斜めにみていると、ときどき小三治が動くような気がした。
おや、動画だったかと見直したりすると、やっぱり静止画なのだ、そんなことがニ三度あった。
生きている小三治を見ているときは、(小満んなどの渋さにくらべて)ときに飽きたけれど、ひさしぶりに聴くととても懐かしい。
毒があって、それを笑いに包んでみせるのがいいのだ。
カミさんの挑戦、レジンアートの処女作。
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よっ!職人佐平次
http://pinhukuro.exblog.jp/30203826/
2022-12-23T12:24:00+09:00
2022-12-23T12:24:43+09:00
2022-12-23T12:24:43+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
「きよしこの夜」、いろんな人の「アベマリア」、心にしみる。
美しい歌は、すなおに歌うことが、歌のもつ力を発揮してくれる。
讃美歌はマンネリだからいい。
気温は低くても、日差しがあって乾いた風が吹くから、きっと洗濯物は乾くだろう。
それが嬉しい、隠居の幸せだ。
朝飯のあとは、ラジオのユーミンを避けて、バッハもちょっとよけて、けさはパテイペイジを取り出す。
こういうマンネリはいい、マンネリだからいい。
いろいろあったけれど、今は気に入ったマンネリに浸るのだ。
ゆうべ晩酌をしながら、NHKテレビ「サラメシ」を見た。
年末特集らしくて、いろんな新入社員の働いているところと昼飯を見せる。
ANAの整備士(女性)、タクシー運転士(女性)、youtubeの編集者(男性)、果樹園の発送係(男性)、化粧品会社の営業(女性)、落語家・桂米團治の内弟子(女性)、六花亭の野球部(男性)、日通の発送指示担当(女性)、植木屋(女性)、、これだけだったかな、みんなやる気満々、周囲の先輩たちにも恵まれて、楽し気に新人生活を送っていた。
こういうのを見ていると、僕はどうしてあんまり悩まずに国鉄に入社したのかと思う。
新聞記者、学校の先生もいちおう選択肢のうちにあったけれど、自分にはそういう能力・資質に欠けていると思った。
トンネルや道路をつくる都市計画に関わりたいと思って建設省も訪ねたが、事務屋は必ずしもそういう仕事につけないと言われてあっさり引き下がった。
汽車が好きということが決め手だったかな。
きのう見た中で、僕がもう一度やり直しをするなら、国鉄はもうないから就職先の候補になるのは植木職人かな。
番組に出てきた七海ちゃんとそれを歓迎する社長と会長の親子の様子がよかったからかもしれない。
でも手に職をもつ、やったことが目の前ではっきりわかる、、。
今日のことは今日でおしまい、落語に出てくる江戸の職人に憧れているのかもしれない。
夜、目が覚めてすぐに寝付けなかったので、志ん生の「名人長二」を聴いた。
はためにどんなに立派にできても、自分が気に入らなければ壊してしまう指物師長二。
火事の多い江戸、まっさきに運び出すときにあちこちぶつかっても壊れない仏壇、しかも見栄えのいいのを作ってくれといわれて、ずいぶん日にちをかけて出来上がった仏壇。
いくらかと訊かれ、百両、いくらなんでも高すぎる、こりゃ足元をみたな、とむかっ腹をたてた注文主が「板をこちらが持ち込んだのに高すぎる」というと長二が、この才槌で叩いて一本でも釘がゆるんだらただでくれてやらあ、壊れなかったらどうする?千両やる!
根負けするまでぶったたくがびくともしない。
すまなかった、千両出す、謝ると「ケチをつけられたものは持って帰る」。
人を疑うことはよくないということがよく分かった、それを書いて貼って毎日拝むから、どうか千両で売ってくれ。
そうまでいうなら、、でも百両でいいと長二。
円朝作の長い話の第一話、あとはおぼろ、夢うつつで聴いていた。
職人がいいと言ったものの、こんな名人にはなれやしないし、なるつもりもないな。
熊さん八つあんと気楽に笑っているのがいいね。
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小はん師匠の冥福を祈って
http://pinhukuro.exblog.jp/29940272/
2022-05-07T12:30:00+09:00
2022-05-07T12:30:05+09:00
2022-05-07T12:30:05+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
といいながら、さいごに聴いたのはもう7年前、まだ聴けると思っていた迂闊・油断だった。
「小春日和に聴くような」とはいえ、ときに辛辣な権力批判も交えた洒脱な芸だった。
僕のブログにのこしたのは、つぎの記事だ。
2015年11月26日ヤクルトホール
2013年11月28日ヤクルトホール
2011年11月24日紀伊国屋ホール
2011年1月20日人形町らくだ亭
それにしても、我ながらずいぶん落語だ能だって遊び歩いていたもんだ。
こういう記事を読み直していると誰か自分じゃない人のことのような気がする。
電話で独演会に申し込むと、封書に達筆な毛筆でお礼状とともに入場券が送られてきた。
独演会のお客はほかの寄席やホールとは違う、小はんを囲む同窓会のような雰囲気だった。
病気の後遺症のせいか、ちょっと滑舌がゆっくりしすぎるところがあったが、それが又独特の魅力ともなっていた。
「ちくわ一時の恥」「蒲鉾バカ、馬鹿が板についている」「アルチューハイマー」、、古臭くても、古臭いから、いい味を出していたくすぐり・地口。
ああいう笑いはもう絶滅しつつあるなあ。
独演会の最後には、師匠が音頭をとって三本締めをするのが恒例だった。
さいごに聴いたときは、まず「戦争を知らない子供たち」を歌って見せて、一本目は「戦争を知る子供ができないことを祈って」、二本目は「宝くじに百万円でもいいから当たるように」、三本目は「今日ここに来なかった人の不幸を祈って」。
せ~の!シャンシャンッ シャシャシャン、、。
といった調子だ。
僕はきょう「小はん師匠の冥福を祈って」一本締めとする。よお!パン!]]>
長さんの幸せ
http://pinhukuro.exblog.jp/29804514/
2022-01-09T11:21:00+09:00
2022-01-09T12:06:24+09:00
2022-01-09T11:21:14+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
若いなあ、小三治。
この『長短』、気の短いのと長いのと、対照的な二人なのに幼馴染で、今までケンカのひとつもしたことがない仲良し。
長さんが饅頭をゆっくり食うのを短七は見ていられない。
けさ、伊勢の「お福包み餅」の黄な粉のを食べていて、この落語を思い出した。
僕も短七型で、なんでもむしゃむしゃ食べてしまう。
食事つき家庭教師をしていて、勉強の前にキッチンで出された、ワンプレートの晩飯をあまりに早く平らげて、生徒から呆れられてちょっと傷ついたものだ。
でも、誤嚥や義歯のことを心配して、なんでもゆっくり小さく嚙み切って食べるようにしてから、長さんの幸せが少しわかって来た。
餅を包む黄な粉の味わい、柔らかな餅の食感を楽しんで、ぐっと噛みこむと現れるさらし餡、そのほんのりした、しかししっかりした甘さ、それらが合わさって口中に広がる、何とも言えない甘美。
(きのう食べた汁粉)
健やかな自前の歯と、生き生きとした味覚をもっていた若い頃に、こういう風に味あわなかったのが惜しまれる。
それを言えば、読書もそうだ。
もっと想像力を働かせて細部を味読すべきだった。
でも、あの頃はその想像力が貧しかったのだ。
けさもお雑煮を作ってもらった。
どっさり三つ葉と芹を乗せた。
うまいうまい、きょうはお代わりもできた。]]>
豆腐と落語
http://pinhukuro.exblog.jp/29663998/
2021-09-17T12:20:00+09:00
2021-09-17T13:03:00+09:00
2021-09-17T12:20:23+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
家事は、一つ一つの仕事はなんでもないが、その単純作業を一時間も二時間も、来る日も来る日もやり続けなければならないということが、嫌でしょうがない、嫌だなあと思うと、いっそう嫌で嫌でたまらなくなる。
ときどき手伝うならなんてことがない、むしろ「手伝ってやる」という気持ちがストレス解消につながることも(現役時代には)あった。
(きのうは駒沢公園に)
ミニ家出をしたいけれど、コロナ禍のことをさておいても、朝昼晩の何種類かの薬(煎じた漢方も含む)、スマホの充電器、服装(もうTシャツだけは無理)、パジャマ、、身軽にひょいと旅立つことはできなくなっている。
もちろん、先立つものが先立たないという懐事情も有之。
山頭火にはなれない。
酔うてこほろぎと寝ていたよ酔いどれであっても山頭火には志ってものがあったのじゃないか。
楽をしたい、なんて頭の片隅にもなかっただろう。
きのうのブログで駒沢通りの豆腐やの写真をアップしたら、思いのほかコメントがあって嬉しかった。
下北沢の皮膚科の帰り、バスを乗り換えるところで、見かけて豆腐を買って帰ろうと思ったらバスが来てしまったから、食べてない豆腐屋だ。
(ほんとに久しぶり!いつもの木)
コメントに返信しながら、豆腐がでてくる落語のことを想った。
豆腐ほど日本人の暮らしに溶け込んでいる食べ物も少ないのではないか。
「甲府い」は、山梨から出てきた青年がスリに盗られて空腹のあまり、店先のおからに手を出してしまい、それが縁でその豆腐屋の養子になるという、とても温かで僕の好きな噺、「千早ふる」は、尾羽打ち枯らした花魁が豆腐屋におからを恵んでくれと頼むと、その豆腐屋がかつて全盛期に肘鉄を食らわした大関の第二の人生の姿だったという噺、同じく豆腐屋の店先でおからを食おうとして、犬と間違えられて殺されてしまうのが奈良の鹿、鹿殺しは石子詰めになるというのを救う「鹿政談」、知ったかぶりの気障な若旦那が腐った豆腐を食わされる「酢豆腐」、雌伏時代に長屋で勉学に勤しむ貧しい荻生徂徠に毎日ツケで豆腐を売ってやった豆腐屋の噺「徂徠豆腐」、ドケチの主の留守中に、番頭公認で鬼のいぬまのどんちゃん騒ぎ、奉公人が好き好きにあつらえたご馳走の味噌田楽の匂いで、いけない、味噌蔵に火が入ったと慌てる早帰りした主の「味噌蔵」、吉原で遊んだ朝、浅草で食う湯豆腐がうまそうな「付き馬」、酔っぱらって帰って飲み足りなくて女房におでんを買いにやるのに、「焼き」たア「焼き豆腐」のことだとエラそうな「替わり目」、酒飲みは、やっこ豆腐に、さも似たり、初め四角で、あとはぐずぐずとは、「居酒屋」や「一人酒盛り」などの枕に出てくる常套句だ。
はじめから終わりまでグズグズなのが、僕のブログだ。
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志ん生vs米朝、深夜の噺くらべ
http://pinhukuro.exblog.jp/29184134/
2020-09-18T11:42:00+09:00
2020-09-19T11:53:11+09:00
2020-09-18T11:42:03+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
ゆうべは2時前に目が覚めて、米朝(「こぶ弁慶」「子ほめ」)、志ん生(NHK名人寄席「たいこ腹」「甲府い」)を聴いても朝までほとんど眠れなかった。
米朝の上方弁は聞き取りやすいほうだが、就眠用に音を低くしていると、分からないことがある。
ふだんは、それが曖昧境地に誘い込んで眠らせてくれるのだが、眠れないときは聞き取ろうとして目がさえてしまう。
「こぶ弁慶」の清八喜六の珍道中のギャグの半分くらいは聞き逃す。
いま、米朝全集の速記録を見て補完してみると、あゝ、この辺はうつらうつらしていたんだ、とわかることもあり、少しは寝ていたようだ。
百姓家のおかみさんが、旅館の手伝いに来るのだが、そのありようは平生は野良へ出て働いてるさかい、顔の色は陽に焼けてまっくろけ。それでも宿屋へくるときだけは、それへさして三文がんほどこの白粉を塗りまんねんけどな。あれもこの襟筋からきれいに塗り上げるとよろしいが、これだけが顔でございと、この縁取ったりするさかい、なんや面かぶったような。鼻のあたまばっかりポンポンポンポン叩くさかいに、石灰蔵から出てきたイタチみたいな顔して。このへんだけはむやみにこう白なって、でその口へちょっと紅をさしますがな、あの紅というやつも下唇へうすうにちょっとこうさすと可愛らしいもんですが、上下大きな丹前の袖口みたいな分の厚いやつへ、ごってりと塗りつけるもんやさかい、人喰うて来た狼みたいな、涎をくると紅がダラダラ流れて、ざんないことこの上なしですな。鼻は奥へ遠慮してるかわりに、でぼちんはズーッとせり出してます。こんな調子で、手足やお尻などの描写となったら、ここに写すのが憚られるほどだ。
あまりの誇張というか、奇想天外な喩えがききとれないのかもしれない。
丹前の袖口みたいな口、石灰蔵からでてきたイタチ、まあ、よういうわ。
「ざんない」、わかりまっか。
宿で団体客と一緒になって盛り上がり、余興に嫌いな物のいいっこ(饅頭怖い?)から好きな物を言いっこしたら、「壁土が好き」と言ってみんなの前でむしゃむしゃ食ってみせた男がいた。
その男の右の肩からコブが盛り上がり、やがて武蔵坊弁慶になる。
男が喰った壁に塗りこめられていた弁慶なのだ。
その弁慶と旅をする男の身にもなってみろ、いくらこっちは東京だとてゆっくり寝てるわけにもまいるまい。
落ちは『夜のコブは見逃せん』、僕はこの言葉よう知らなんだ。
「名人寄席」は、玉置宏が志ん生さいごの弟子・志ん駒に聴く師匠の思い出噺もついている。
豆腐が好き、納豆が好き、僕と一緒だ。
豆腐をごはんとかき混ぜて醤油をかけて食べる、僕はおでんの残りでやるけど普段はやらない。
納豆もごはんと混ぜて食べて、食べ終わった茶碗のぬるぬるにかまわず酒をついで飲んだという。
文楽(8代目)も納豆が好きだったが、食べ終わると、その茶碗を弟子が熱湯できれいにしてお茶をついで飲んだ由。
「たいこ腹」、若旦那がイヤらしくてあまり好きな噺ではないが、志ん生のは笑いが主でイヤミがない。
「甲府い」、豆腐屋夫婦と善吉のほのぼのした造型があたたかな湯豆腐の湯気を思わせる。河野行革担当大臣は、自分のホームページに「縦割り110番」を設置した。
彼はかねてから、少しでも気に入らないツイートをすぐにブロックすることで知られている。
だから、木村氏が言う通り、ある種河野に批判的な人たちには「110番」の設置は伝わらないだろう。
しかも、110番に投稿する人は、氏名住所にメールアドレスを記入することを求められる。
そもそも、SNSに疎い人たちも行政の縦割りに泣かされていることだって考えられるだろうに。
せっかくやるなら、ちゃんと役所のHPを使うべきだし(このままだと公私混同)、郵送の道も閉ざすべきではない。
もちろん匿名も認めなければ。
●河野氏はツイッターに「無駄な規制、仕事を妨げている規制、役所の縦割りで困っていることなど情報をお送りください」と投稿
これはブロックされてる人には届かない。自分の気に入らない国民は行政サービスから排除。国務大臣としてあまりに不適切、いや不適格だ#河野太郎https://t.co/ItwRQeOiCm— 木村知 (@kimuratomo) September 17, 2020
なんて書いても無駄かもしれない。
菅が継承したアベ内閣の規制改革担当大臣のこの体たらくを見れば、河野もまたホラをふいているだけかもしれない。
このホラ発言の北村大臣は、菅総理が内閣の最重要分野と唱える規制改革の最高責任者だった。
意味分かりますか?
北村大臣は安倍内閣の「規制改革 特命担当大臣」でもあったのです!
今さら、「縦割り110番」とかやっていることが如何に国民を馬鹿にしたことであるか気付いて頂きたい。 https://t.co/E308Mhf0MM— 小西ひろゆき (参議院議員) (@konishihiroyuki) September 17, 2020
北村という人は正直なほら吹きだ。
きのうも書いた「アベ院政」を名実ともに進行させようという動きが顕著だ。
アベ神話でも作ろうというのか!?
https://t.co/RsLr7SLQOg— 佐平次 (@saheiziinokori) September 18, 2020
モーニングショーでは「外交において菅を助けるためにアベの出番はある」がごとき田崎らの発言も。
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オンライン寄席を見た
http://pinhukuro.exblog.jp/29053614/
2020-06-15T12:35:00+09:00
2020-06-15T12:51:03+09:00
2020-06-15T12:35:17+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
こう見えても僕は家にいるとけっこう忙しいので家でまで寄席を聴く時間がないのだが、考えて見たらYOUTUBEだから、ぜんぶ続けて見る必要もない。
鈴本の、はじめは五月上席、ちょっと退屈したのでこんげつ13日分に切り換えて、アイパッドで再生してみた。
僕は集中力が不足しているのだろう。
小さな画面に集中することができないのだ。
秋刀魚は目黒に、落語は生に限る。
さもなくばいっそ目を瞑ってラジオやテープで聴く方が想像力が働いて面白い。
小さんが弟子たちに、「その了見になれ」と教えたそうだが、噺家が旦那になったり焼餅焼きの女将さんになったりする、それが脳内に彷彿とするのが落語の面白さだ(しないこともあるけれど)。
テレビ寄席は、想像の翼の羽ばたく範囲が小さな画面のコビトたちに限られてしまう、コビトは何時まで経ってもコビトでいろんな人物に変化しない。
さらに日用の家具や本などに囲まれていると、そっちの方面からも注意が殺がれてしまう。
そろそろ洗濯物を取り入れなきゃ、とか、サンチはどうしているか、とか。
ふと書棚に目がいって、そういう時に急に読みたくなる本があったりする。
だからテレビドラマや映画も苦手である(古い映画やドラマを資料・情報として見ることはあるけれど)。
テレビドラマが苦手なのは、わかっていることをグズグズ説明するのがかったるいと云うこともある。というわけで、飛ばし飛ばし、4・5人を見て、夕方の散歩に出てしまった。
噺家も、無観客に馴れている人と戸惑いが感じられる人がいるようだ。
漫才は飛沫の飛ばしっこだな。
でも漫才とか奇術などの方が、落語に比べると動画でみるハンデイが少ないようだ。
それ自体を見て聞いて楽しめるという意味では、落語も漫談ならユルセル。
話しの間とか省略などで客の想像力に訴えるような(達人)の古典落語の方が、動画だと物足りなさが際立つ。
無観客のスタジオで録画することに馴れている噺家は、過不足なく演じることはできるのだろうが、やはり客席との間に出来る寄席独特の空気がないのは、つまらないだろう。
古い噺家が、自分たちが若い頃は「ツバナレ」、10人未満の客しか入らず、誰もいない客席に向かって話したことも多い、と言っていた。
ぼくも学生時代に入った人形町末廣では、僕一人壁にもたれて足をのばして聴いていたこともある。
ああいうのと、まったく無人でも電波の向うには大勢の客が見ていると思うのと、、どっちもどっちか。
つまらないクスグリを言って、「客のいないところで、こういう(まずい)ギャグをいうと、我ながら哀しくなる」というのには同情した。屁をひっておかしくもなし独り者でも一朝なら一朝だけと、限って見るというのもあるかな。
寄席とはまったく違うものではあるけれど。
こんなことを考えるのは、贅沢なことかもしれない。
五球スーパーラジオを買ってもらって大喜びした子供のころは、生の落語は当然のこととして、テレビのそれも見たことがなかった。
金馬、柳橋、金語楼、、ラジオを聞いた。
間とか余韻などでなく、話の面白さだけでよかった。
落語全集を近所の家から借りてきて読んだこともあった。
ハリーベラフォンテが来日して、そのリサイタルをテレビでやると聞いて、テレビのある家に見せてもらいにいった。
あの頃、テレビで寄席中継を見せてもらったら、かじりついていたかもしれない。
なまじ、東京で寄席だの独演会だのを(先達の手引きもあって)見歩いて、生の落語やその場の空気を知ったからこそ、それのミニチュアみたいな動画の、本物に引き比べての物足らなさを愚痴っているのだ。(いつもと違う道で見つけたアウトドアグッズの店)
『夜の町』と寄席が、どう違うのかは分からないけれど、政治家たちが、もう寄席に行っても大丈夫だとお墨付きを出しても、僕は行かないかもしれない。
政治家は年寄りの一人や二人が死ぬことは、むしろ喜びとするところ、クラスターとやらさえ生じなければ、自衛・自己責任でと、突っ放す。
ずっと今のような引きこもり暮しをしていると、さすがに退屈をして、落語が聞きたくて聞きたくてたまらなくなるかもしれない。
声だけでなく、落語家の顔を見たくなるのだ。
そういうときに、YOUTUBEは救いの神になるかもしれない。
そうなるころまで、お茶の間寄席ってやってるのかな。
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アベ時代からみると、江戸時代の狐狸は可愛かった 米朝落語「狸の化寺」
http://pinhukuro.exblog.jp/29030459/
2020-05-31T12:17:00+09:00
2020-05-31T12:17:47+09:00
2020-05-31T12:17:47+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
桂米朝上方落語大全集第4期所収の「狸の化寺」が、珍しい噺でおもしろかった。
江戸時代の小さな農村が舞台、大雨で狐川が氾濫して堤が切れたのを直してもらおうと、黒鍬組に依頼する。
黒鍬、語源は田の畔、畔鍬、元来は田畑の耕作に従事した者、戦国時代には、築城、開墾、道普請などを業とした土方でなんとか組の元祖、黒鍬組があった。(きのうは二月以来初めてサザエさん通りから桜新町を散歩した)
村の庄屋に番頭が黒鍬の連中が到着したことを報告するところから、ネタが始まる。(番頭)ほいで、多勢ですので、とりあえずまあ井戸端へ案内したら、足洗う人もありゃあ、体ふく奴もある、水飲んだりして皆一息いれてもろてまんのやけどな。その一行のカシラの竜五郎(りょうごろう)さんちゅう人が、そら立派な男でっせ。六尺もあろうかという大きな男で、パッと肌脱ぎになったところを見たら、体一杯、刺青(がまん)いれてまんねん。そら、みごとな彫物でなあ。そら上等のお仏壇が、だんじりみたいな体した人でんねん。その人がお庄屋はんに御挨拶したい言うてまんのや。
(庄屋)ああ、こっちィ通しなはれ。あァ、あんたか、どうぞこっちへ
(竜)へい、これはこれは、お庄屋はんでございますかいな。エー、わたし、黒鍬の連中のたばねをしております、火の玉の竜五郎という人間で、どうぞまあ、お見知りおかれまして、よろしゅうお願いいたします。この言葉だけで、屈強の土方連中が井戸端でごった返している様子とか、それを束ねる火の玉の竜五郎の器量が生き生きと伝わってくる。
ここへ来る途中、堤の様子をチエックしたら、まあ、田圃の砂のさらえも含めて12・3日もあれば十分だとカシラ。
一行31人、この村には宿がないから、分宿してくれと、庄屋。
朝、揃うのが難儀なのと、血の気の多い連中が村の人に迷惑をかけるのはいかんので、まとめて泊まるところはないか、とカシラ。
寺があるのだが、ずっと無住なので、荒れ放題なのと、魔物が出るといって化寺と噂がたっている、修行者や剣術使いが正体を見届けるといって、入って行くが出て来たのをみたことがない、と庄屋。
そういう話を聞いて後に寄ったということが人に知れたら、顏が立たないので、ぜひそこに泊めてくれとカシラ。村の衆が、必要品を運んで寺の麓までくるが、あとは怖くて近寄れない。
かつては立派な寺とおぼしき大きな山門をはいると、境内はギーッシリ、草が生えている。
それをみんなで見る間にきれいに刈ってしまう。
狐か狸か、ムジナか、コロコロ、コロコロ、獣の糞がたくさんでてきて、ほんにくさかった、おかしなところでシャレをいう男もいる。
きれいな水が出るまで井戸をかいだせ。大戸を外す、雨戸を外す、畳を上げる、阿弥陀はんを運びだす、お寺の道具という道具を、すっくり運び出す。
塵を払い、ほこりを、一杯たまってるやつを、こう掃き出します。あとはザーッと、雑巾がけをいたしまして、畳を入れる、道具を入れる、阿弥陀はんを運びいれる。荷物やなんかみな入れると、見違えるようにきれいになりました。(竜)さあ、あの食べ物はみな台所のほうへ、走り元のほうへ入れ、ああ。ほいで要るものはみな、そこへ夜具、布団はその辺に積んどけ、何、風呂がある、そら結構や。じきに水を運び込んで風呂をたけ。飯係は飯を炊くように、ええか。早いことやれよ。流れるような語りが心地よい。
行き届いた号令と統率の取れた無駄のない仕事、この連中なら工期を余してでも立派な仕事をするだろう。(「はじめ」も覗いてみた。火曜から営業しているそうだが、僕は挨拶だけ。あら、ずいぶん痩せたじゃないと言われたが、体重は減っていないのだ、老化したってことか)
そして、夜中に、待ってました!可愛らしい二八ぐらいの娘はんで、姉さん被りにした、しのぶ売りの風俗が、鳴り物入りで登場、竜五郎に近づいてかみつこうとする。
油断なき竜五郎が、かねて用意の腰の物を、抜き打ちに切りつけると、ぱっと姿が消えて、黒いものが奥の方に消えた。
竜五郎はみんなを起こして、化け物を捜索する、三体だった阿弥陀はんが四体になっている、一体どうした、なんて言いながら、一体づつ阿弥陀仏の鼻に松葉などをくすべる。
その騒ぎがクスグリもいれて、阿弥陀はんもくすぐったい、一体だけが、えらいクシャミをして、化け物の正体は大きな狸としれた。
狸は欄間の天人の一人に化けて潜りこむ。
よく見ているとひとりだけ横目を使う天人がいる。
此奴だな、長い棒を突き出すと、あら不思議、彫物の天人が一斉に抜け出て「流れるように、泳ぐように、滑るように」天人の舞を舞いだす。
この中のどれかが、ド狸に違いない、竜五郎がジーッとうかごうていると、舞を舞うてるその天人の一人が、ああ、キンがすれる、キンがすれる。
サゲはイマイチか。
がいして狐狸化生の出る噺は好きなのだが、これは、上に書いたような黒鍬組や荒れ寺の描写がウマく、化け物の出方にも古風な味わいがあって良かった。
(「はじめ」はがまんして我が家で初カツオ)
ほとんど滅びていた噺を三遊亭百生(二代目)から教えてもらって、いろいろ工夫してまとめたと米朝が書いている。
電通ってなにもの?
ブラックって働かせ方の問題だけでなかつたんだ。
税金を吸い込むブラックホール!
https://t.co/zKFiWvHnPD— 佐平次 (@saheiziinokori) May 29, 2020
一刻も早く、少しでも足りるほどに、と待ち望まれているコロナ被害者への給付金支給に狸が化けたような幽霊会社を挟み込んで、電通狸に落とした金の上前を20億とかハネている。
黒川処分は、大狸が決めたのに、とつぜん子狸のせいにするから、未熟な子狸では化かしおおせない。
山添拓議員のキレッキレの質問に森まさこ法務大臣タジタジの答弁(その1)
同じ弁護士でも頭脳の差は歴然 https://t.co/bx8STCpoK7— 俵 才記 (@nogutiya) May 29, 2020
キツネや狸の化かしたお札や饅頭は木の葉や○○にとなって正体を見せるが、コロナ専門家会議の記録は、さいしょから作りもしないから、化かす技はいらない。
木の葉を使ってお札を作るような面倒は省いて堂々と幽霊会社に中抜きさせる。
アベ一味の歴史修正主義は過去の歴史だけでなく、現在進行形で厚顔無恥、狐や狸が驚くような狡猾さで「嘘」をつき続け、化かし続ける。
魑魅魍魎が大手をふって歩く世界にいると、黒鍬組の火の玉の竜太郎が、化け寺の狸と相対した、あの世界がユートピアに感じられる。]]>
一之輔の精進を期待する 春風亭一之輔独演会@紀伊国屋ホール
http://pinhukuro.exblog.jp/28824923/
2020-01-31T13:43:00+09:00
2020-01-31T13:43:06+09:00
2020-01-31T13:43:06+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
早めに行って、軽くしのいで、それから多和田葉子の本でも探そうと思った。
そんなときにいつも入る紀伊国屋の地下の食堂街を歩くが、饂飩、鮨、イタリアン、カレー、どれもイマイチその気にならない。
「マツキヨは中国人が多いぞ」行きかう人のそんな会話が聞こえてくる新宿の街を歩いて伊勢丹会館のカフエに入った。
大きな声で韓国語の電話をしている女性とその隣でだらしなく太いナマ足を投げ出して座る女性を見るともなく見ながらミックスサンドを食いカフェラテを飲んだ。
見るともなしでも見ていたのだからイヤラシイじいさんと思われたかもしれない、ウイルスもバイ菌もうようよいる都会の雑踏はピリッとしてないと危険がいっぱいなのだ。
けっきょく本屋に行きながら本を探すこともできなくなって会場に入った。
前座・与いち「やかん」
なかなかいいリズムで、楽しみな若者だ。
「奥さん」のいわれは「奥でお産をするから」という隠居に、じゃあフランス人は「クロワッサン?」意味のないツッコミを面白く聴かせる技術を身につけている。
一之輔「百川」
小三治が落語協会の会長になって、それまでの順送り真打昇進を打ち破ったときに、何十人かの先輩をさしおいて破格の抜擢で真打になったのが2012年、あれからハヤ8年、師匠の一朝仕込みの本格落語を土台に臨機応変、縦横無尽、融通無碍、つねに新しいクスグリや展開をみせて爆笑をかちえている。
しばらく見ない間に、すっかり貫禄もついた。
ゲストの萬橘をいじり、落語は、そんなに躍起になってやるもんじゃないですね、けだるいマクラは計算されているものだが、それだけでなくなんとなくいつものような生気が感じられなかった。
昼の部で二席勤めている、その疲れというだけでなく。
四神剣の説明で、東の青龍・南の朱雀・西の白虎・北の玄武の動物の形態模写をして、お爺さんの亀・玄武の真似をしてみせる噺家はいないだろうとエバッてみせる。
珍妙な方言を語る百兵衛と早とちりの江戸っ子のやり取りは面白かった。
ただ、多くの噺家のやり方だけでは収まらないのが一之輔流、クワイの金団を飲みこまされた百兵衛が変容して、サザエを飲ませろとドスを利かせたり、常磐津の師匠を呼びにやらされるところでは、ヘンな外国人になってしまう。
一之輔ファンでいっぱいの会場は大うけだった。
萬橘「代書屋」
一之輔とは生まれも真打昇進も一年違いだが、ずっと若く感じられる、この人も目下人気急上昇。
一之輔に「ねずみ男」(ほんとに似ている)と言われたのを受けて抗議するふりをしながら、ひねりの利いたジョークをポンポン矢継ぎ早に飛ばす、才気を感じさせる。
代書屋は、「百川」を受けてか、「ごめんくらっしえ」と変な方言のお姉さんがラブレターの代書を頼みに現れたあとで、いつも出てくる変な男も登場する。
履歴書は「就職するのですね」と尋ねると「違う、働こうと思ってね」と答える。
アベの「募ったが募集はしていない」を思いだした。
一之輔「笠碁」
一応爆笑を誘ったのだから、文句はないというべきだが、ぼくはちょっとイチャモンをつけたい気持ちだった。
それは、「百川」についてもいえることで、「受けようと躍起になる必要はない」と枕で語ったのにも関わらず、じっさいは「受けようと躍起になって」一之輔流のヒネリ・クスグリを加えていたのが、聴いていて、ちょっと辛かった。
百兵衛の聴き取りにくい訛りを「アンチュウカモネッチ」などと聞きなして、頓珍漢なやり取りをするところは、元ネタの面白さの延長にあって、楽しく聴かれたが、三光新道に行ってからのへんな外国人になるところなどは、取って付けたようでシツコイと思った。
もう一人、ほんとの掛け合い人を登場させるサゲも、かえって百兵衛の存在を軽くしてよけいな工夫だと思う。
さらに、こっちの方が問題だと思うが、百川の主人の貫禄が感じられない、客が小商人であってもおかしくない、河岸の若い者の(主として喋り)感じがしなかった。
しかし、このあたりまでは、ぼくの好みの問題であって、多くのお客様が大うけだったから、大した問題じゃない。
現にこうして一日おいて、このブログを書いていると、なぜ昨日はあんなにつらく感じたのか、別に問題ないじゃないか、とも感じられる。「笠碁」の方が、問題が大きい。
「百川」に比べると、独自のクスグリは、8歳の頃、雨に濡れて待ちぼうけを食ったエピソードあたりで、ほとんどふつうに聴く演出だったと思う。
それだけに、二人の老人の描き方が粗雑なのが目立った。
同い年の幼馴染というのに、よっちゃんのカミさんが妙に若かったりして、二人の年齢が想像しにくい。
喧嘩して退屈しているはずなのに、なんとなく不機嫌なだけでアンニュイの気分が出てこない(あくびの道場に通ったらどうか)。
だから、降り続ける雨という、この噺に必須の情緒が伝わらない。
さいしょに二人が碁石をおくのも、ひょいひょいと、種撒きでもするような感じで、これでは、ピシっ、という音が感じられないのだ。
雨と碁石と碁盤、この噺の魅力を作る場面・状況設定と登場人物の個性、その基本を押さえないでセリフの面白さで受けようとしては「すべる」し「蹴られる」よ。
そうそう、よっちゃんが碁をやりたくて友だちの家の前を蟹歩きするところ、よっちゃんを碁石の音で釣る、傘がないので笠をかぶって悪戯っぽく笑うところ、いずれもこの噺の肝、省かないでほしかった。
老人がイラついて家人に当たるところや「待て待たぬ」で過去の恩義をいくつもくりだすところなどがシツコイくらいなのに、肝心の名場面を省いては本末転倒というものだ。
落語は初めてでも居残り会は二度目。
「犀門」で、酒は飲んでも飲酒はせず、語り笑っても談笑はせず、酔っても酩酊はせず、ああ、楽しかった!]]>
寅さんはリトマス試験紙だ 映画「男はつらいよ お帰り寅さん」
http://pinhukuro.exblog.jp/28787695/
2020-01-06T11:40:00+09:00
2020-01-07T11:46:03+09:00
2020-01-06T11:40:35+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
窓際に追いやられ出勤してもやることがない。
はじめは多くの新聞を丹念に読んで(不思議に本を読むのは憚られた)一日を過ごしたが、お茶を淹れてくれる女性が心なしか気の毒そうにするのや、忙しそうにしている社員たちを見ているのも辛く、外出して一日を暮らすことにした。
長野から出てきて学校と会社とその周辺しか知らなかったぼくの足が向かうのは浅草が多かった。
カフェに入るという慣習もないから、ひたすら歩いて行きつくのは三本1000円の映画館。
がらがらの暗がりで落花生を齧りながら擦り切れたような映像を眺めていると、突然、肩をつつかれた。
びっくりして振り返ると、ホームレスと思しき男が「なあ、あんちゃん、あんなにやさしい人間なんかいるわけないよな」と涙ながらに話しかける。
画面はフーテンの寅さんが妹のさくらだったか満男だったかのために、独り善がりの奮闘をして爆笑の場面だった。
のちに山田監督が新聞紙上で、「男はつらいよ」は見る人によって、笑いもすれば泣きもする、渋谷で笑う場面が浅草では客を泣かすと書いていて、うべなるかなと思った。
恒例にしていた小三治の落語会の切符を取るのをあきらめて映画を見た。
甥の満男が主人公、新進作家として照れながらサイン会をやったり、娘が寅さん一家らしい気立ての良い高校生になっている。
亡き妻の七回忌にくるまやに懐かしい顔が揃うところから始まる。
さくら夫妻もめっきり老人夫妻になった、いい歳を取った夫妻だ。
満男の初恋の相手・イズミ(ごくみ)が、ヨーロッパから来日して満男と再会、施設に居て明日をも知らない父(許せなかった)に、会おうかどうか逡巡しているのを、満男が説得して会いに行く。
はにかみ屋で真っ直ぐな、打算とは縁の遠い満男はおじさん・寅さんの申し子のようだ。
目の前に困った人がいて、自分しか手を差し伸べられる人がいないと思ったら、親身になって手を差し伸べる。
迷ったとき、困ったときにおじさんならどうするかと考える。
随所に、見覚えのある懐かしい寅さんの名場面が出てくる。
「早い話が、俺が芋食ったらお前が屁をするか」「ああ、生きててよかったと思うことが何度かある、そのために生きているんじゃないか」「あんたが一生懸命、俺に聞いてほしいという気持ちは分かる」名セリフを遺しやたらと美人にもてた男だったなあ。
笑うよりもジンと来ることの多くなったぼくはあのホームレスに近づいたのかもしれない。
この映画を見て泣くなり笑うなりできるかどうか、それがアベ的なものに汚染されていないことのリトマス試験紙になるのじゃないか。正月の日曜日、尾山台と等々力を歩いたがなかなか店が見つからず、8000歩も歩いた末に入った小料理屋。
下仁田ネギの焼いたのがウマかった。となりに近所の大地主の息子らしいのが来てワインで夕食を食いながら、なにか仕事をしなくては(家賃収入で食べている)なあ、と太平楽を並べているのがチト気になったが、考えて見ればぼくも仕事をしていないのだ。
店の冷蔵庫に入れておいてもらったヨーグルトを忘れてきてしまった。
勘定する直前まで、意識していたのにバスの時間に気を取られて忘れて飛び出したのだ。]]>
2010年代有終の美を飾る さん喬・権太楼二人会@末廣亭
http://pinhukuro.exblog.jp/28776164/
2019-12-30T13:33:00+09:00
2019-12-30T22:55:50+09:00
2019-12-30T13:33:53+09:00
saheizi-inokori
落語・寄席
子どもの頃は、一冬餅で暮らすのでかなりたくさんついてもらって切るのも一仕事だったが、母や弟とワイワイ言いながら切るのは楽しかった。
あの頃は大きな物差しをあてて真っ直ぐに切ったが、今は適当に大きいのもあれば小さいのも曲がったのもありだ。
カルタに切っていくと切れっぱしが出るのを細かく切ってアラレに揚げてもらうのも楽しみだった。
ナマコに搗いてもらって薄く切って、これはかき餅、干して炙って食うのがお菓子の代わり。
雪が融けはじめる前に餅はカビが生えてくる。
こそげたり、水につけてできるだけ赤や青のカビを落として食うのだが、そのころにはもう餅に飽きてくるのだった。
きのうは恒例の新宿末廣亭の特別興行、「さん喬・権太楼二人会」。
長蛇の列ができて二階まで超満員のところを最前列のど真ん中、指定席番号A5、牛肉じゃないけれど最上級の席を確保していただいたNさんに(毎度のことながら)感謝のほかない。
5時、開口一番、り助「子ほめ」のあと権太楼が上がって、これもやや定番になりかかっている前座へのお小言があって、「プログラムには6時から新真打口上とあるが、それまで一時間どうしようと考えて、さん喬さんと落語をすることにしました」。たしかに、ぼくたちもプログラムを見て、なにかの間違いじゃないかと思っていたのだ。
池袋の老人の暴走事故の話から、自分は運転は「自信をもって下手だといえる」から、今は運転しない、免許証を返納しようかと思っている、だけど若い頃はフエアレデイZのオープンカーをうならかせた、まいかい何もなしで更新することは出来なかった、などと笑い話をして、「代書屋」。
デレキショを借りに行くと、今朝まであったけど、おつけの実にしてしまった、とテンシキ。
(生年月日を大きな声で言ってくれといわれ)セイネンガッピ!も健在なり。(居残り会@犀門、焼き牡蠣、あん肝、赤ナマコ)
さん喬「締め込み」
はっつあんの機嫌が悪いのをカミさんが「また与太郎と喧嘩したのかい、あんな人と喧嘩してもしょうがないのに」という。
与太郎が喧嘩相手だったのか、いままで聴き逃していたのか。
二人ともあっさりと軽いジャブで場内を喜ばせて、新真打口上。
権之助(ほたる改め)と小志ん(喬の字改め)をまんなかに権太郎とさん喬がならび、こもごもに弟子たちを命名の由来も紹介して挨拶、権太楼が同時に昇進したなかでは、わさびが一歩抜きんでているけれど、二人は追いつくべく努力せよと訓戒を垂れる。
それと長生きすることが大事だ、長生きしていれば下手でもうまいように見えると現役噺家の名前をあげて権之助も含めてずっこけ。(下仁田葱の天ぷら、うまいのよ)
権之助「居酒屋」
アルフイーの坂崎幸之助の追っかけ、それで「之助」を貰ったという。
奇しくも前夜枕元で聴いていた金馬の「居酒屋」の現代バージョン。
次つぎに放つギャグが、まったくまったく面白くない、話しぶりにもあるが内容も面白くない。
妙に上から目線というか、うまい人なんだみたいなしゃべくりも気になる。
小志ん「お化け長屋」
枕でわさびの悪口を言って、あれで笑いを取るつもりだとしたら、もうそれだけで落語家失格。
噺も聴いているのが苦痛。
弟子をかわいがるのはいいとしても、この企画はよくなかった。
ふたりとも落語家としてやっていけるのか、とても気になった。(ぶり大根)
ニックス・漫才
最前列で拝む豊満な肉体、圧巻でした。
そうだったんですか!まじにやられたら腹立つな。
小池百合子の築地騒動をからかっていたが、どうせなら桜を見る会でもやればいいのに。
(お腹を心配して車麩を頼んでくださる、優しいね)
二人あがって、リレー落語「文七元結」をやると権太楼、プログラムを見た時に予想した候補の一番手だ。
どっちが先にやるか、ジャンケン、いやお客様に決めてもらおう、和服姿の奥様が権ちゃんを先鋒に指名する。
登場人物の名前や年齢を打ち合わせして、吾妻橋をバトンタッチ地点とする。
権太楼の前半、すっからかんになって帰宅する大工の長兵衛、佐野槌の女将の毅然としてしかも温情溢れる対応、クライマックスの文七とのやり取り、鼈甲屋の主と番頭たちが佐野槌を割り出すところ、どこをとっても、必要にして欠くべからざる会話だけにそぎ落とし、しかも長兵衛の江戸っ子らしい人間の苦悩がまざまざと描かれる。
今まで接した多くの「文七元結」のなかでも飛びぬけてよかった。
バトンを受けたさん喬は、権太楼の残した余韻を壊さずに、カミさんのドタバタもあっさりとしめる。
弟子たちは駄目だが師匠はふたりとも大したもんだよ。
きょう二回目の三本締め。
我等4人、余韻を楽しみつつ犀門へ。
ぼくは10日ぶりの酒、石川の「宗玄」の熱燗をおそるおそる口に含めば、馥郁たる香りがひろがり、喉を過ぎると甘やかな味わいがひろがる。
おおそれみよ!酒はウマいぞよ。
ぜんぶ一皿を四人で仲良くわけあう。
酒ヨシ、人ヨシ、話ヨシ、2010年代有終の美を飾るのでありました。]]>
池袋演芸場から「はじめ」で忘年会
http://pinhukuro.exblog.jp/28722507/
2019-11-28T12:55:00+09:00
2019-11-28T12:55:52+09:00
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saheizi-inokori
落語・寄席
じゃあ、と池袋時代に昼飯で世話になった「美松」でゆっくり昼飯、厨房を覗いてマスターに挨拶する。
久しぶりなので奮発して牡蠣フライ定食に麦とろをつけて、五穀米で。
値段は少し上がって1720円だが、内容からしてまったく文句なし。
この店や大塚の蕎麦屋など、池袋時代は昼飯天国だった。ありがたいことに、雨が止んだので、立教大学周辺と構内を散歩した。
すぐ近くで働いていたのに、立教大学の門をくぐったことはなかった。ちょうど昼休み、学生たちが屈託のない顔をして歩いていた。
大学には生協で下着を買う時くらいしか行かなかった僕は、いつももったいないことをしたと胸が痛むのだ。大学から駅のほうにむかう道で、女子学生の二人連れと歩く格好になった。
私は彼氏ができないから結婚も出来ないと、明るい声で話す子に、どうして?こんなに可愛いのに、となんどもいう友人、いえいえ、と否定し続ける子、振りかえってみたくなったけれど、我慢した。開口一番はあられ「二人旅」についで白浪「牛ほめ」
ぎん志「町内の若い衆」
会話のひとつひとつに力が入りすぎている。
「感心バカ」、なんでも感心する人のことをいうらしい。
菊生「権助魚」
「腹にねえ、嘘をつくのは得意中の得意」という権助に浮気のアリバイ工作を金でやらせるが間抜けだから、目刺や蒲鉾を隅田川で獲った魚だなどと言って全部ばれてしまう。
ばれても平気な権力者とは違うから、後が怖い。
間がよくて笑えた。ニックス・漫才
21年も姉妹で漫才をしているそうだが、僕は久しぶりに見て、急に面白くなったと感じた。
なにかのきっかけをつかむと化けるってことがあるのだろう。
意味のない「そーでしたか」を相槌のように挟むのが、自分がやられたら、馬鹿にしやがってと思うが、漫才で聴くと妙に面白い。
歌武蔵・漫談
二千円の入場料で笑わせてもらおうという了見が甘い、笑うべく努力せよとか、何万円も払っている歌舞伎座の「なんちゃってセレブ・勘違いババア」などと毒舌は、相変わらず、又の名を松井秀喜というが、だいぶ膨れた顔になった元力士。
相撲界の、とくにモンゴル出身の横綱の悪口をヘイトまがいに喋って笑わせる。
レスリングまがいの「エルボー」や土俵入りのみっともなさ、など僕もそう思っているのに、相撲協会や(舞の海をのぞく)メデイアが問題にしないいから、会場は喜んで湧くのだ。
毒のある笑いがなければ寄席に来る甲斐がないというものだ。
伯楽「親子酒」
昭和14年生まれ、どこか悪いのかと心配するほど、暗い表情でよろよろ登場したが、「いだてん」の志ん生のカバン持ちをした思い出や師匠の先代馬生の話が、知っていることだが、リアリテイがあってぞくぞくするほど面白い。
馬生の酒の話から、「え~、せがれ、お前の酒は、人の嫌がることォ突っついては面白がっている悪い酒、俺も付き合うから禁酒!」とネタに入り、ひと呼吸「禁酒!、、禁酒といって守った人、、いませんね」と受けて、婆さんに酒をねだる会話に入って行く。
婆さんが(寒いなら)塩湯でもどうかととぼけると「金魚が目ェ回したんじゃないよ」。
この前池袋演芸場に来た時も小さんが「親子酒」をやって、それなりにウマイと思った(酒がウマそうではなかったが)けれど、伯楽はダンチに面白くて味がある。
枕も含めて、こういう高座を心から楽しめる自分が嬉しくなる。
お仲入りのあと、龍玉「鹿政談」
江戸名物、大阪名物を言い立てて、奈良の名物・鹿を誤って殺しても死刑になった由来から、実直な豆腐屋が、犬と間違えて鹿を殺してしまった噺。
人情家の奉行がなんとかして罪を減じてやろうと、奈良の生れではないのだろうなどと、誘導尋問をするが、正直者だから、三代奈良で育ったなどと本当のことを答える。
困った奉行は、鹿の遺骸を持って来させて、「これは犬だ」といい、居並ぶ部下や町役人たちにも(強引に)同意を求める。
皆が(喜んで)忖度するのに、鹿の守役(代官)だけが、肯んじない。
奉行は代官の鹿の餌代を横領した疑惑について触れて、それを徹底的に追及するぞと脅すと、代官たまらず、「イヌ」ですと謝る。
黒を白と言い、部下たちに忖度させるのが、奉行の保身ではなく弱い立場の男の命を救うためだったから、名裁きなのだよ、アベさん(寄席でもアベのことが頭を離れない僕は重症のアベノセイダーズだ)。
今松「はなむけ」
浪費家の弟がにっちもさっちもいかなくなって吝嗇な兄に無心に行く。
カミさんの入れ知恵で、かつて兄が北海道に行ったときに5円の『はなむけ」をあげたことを思い出させて、自分も旅に出るから、はなむけをくれというが、にべもなく断られる。
弟は腹立ちまぎれに兄の鼻先にブッと屁をして「たびだちにおならひとつか置き土産」と詠むと、兄は「あまりの臭さにはなむけもなし」と応じる。
それだけの短い噺、今松節を楽しむのだ。
仙三郎社中・太神楽
傘、撥、五階茶碗、土瓶、盆、、いつもの曲芸をいつものように楽しむ。
白酒「百川」
マクラは、いつものように、あまり面白くないが、ネタに入ると断然面白くなる。
「ヒャクベチデガス(百兵衛です)」が、もう、おかしいのだ。
百兵衛を隣町からの「掛け合い人」と勘違いする河岸の若い者三様、訳知り顔の兄貴分、それに追随する男、素直に疑問を呈す男のテンポのいいやり取りが、楽しい。
笑わせるためにこれでもかこれでもかとギャグを連発する噺家もいるが、白酒は則を越えない。
それで爆笑させる、そこが好きなのだ。寄席が跳ねて、居残り会のひと月早い忘年会。
会場はご存知「はじめ」、落語を聴いた3人に会場直行の4人を交え、いつもの通り、しこたま飲んで食べて話して笑った。
10時頃に解散と思いきや、歌を歌おうと言い出す人がいて、それに乗る人がいて、明日健康診断があるという一人を除いて6人で(「はじめ」の上にある)カラオケ酒場で大いに盛り上がるのであった。
無事帰れるのかと心配の遠方の人もいたが、今朝になって、無事帰宅できたというメールがあって一安心。
現役の方もいらして、皆さん、元気だなあ。
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