能は庶民の芸能だ 木村利行「増補 能の繪本」(飛鳥書房)

昨日は落語をちょっと変わった切り口で紹介した本

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今日は能の入門書、著者は普通の入門書は堅苦しくて理解しにくい仕組みになっていると云い
能を観たことのない人、能を知りたい人にとっては、だからもう一つ手前の入り口が必要なのだと思う。
と「序に代えて」で書いている。
16編のエッセイを読むうちに能のあらまし、能面の起源、種類、翁から始まって脇能だとか切り能などの能の種類、代表的な演目の概略とテーマ、装束、、など、随分能について知った気になる。
知識を並べて説明するやり方ではなくて筆者の人生観や懐旧談などの随想それ自体が面白い。
まあ、落語入門と言うか落語随筆などでも良く見られる手法ではあるけれど、これは成功している。
寡聞にして著者の略歴などを知らないのだが絵も良くされて能面や装束などのスケッチが理解を助けるし楽しい。

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(蓮の実、井戸尻考古館で、ひとつ皮をむいて食べさせてくれた。落花生?いけるよ。遺跡の復元住居で作っているお粥に入っている由、こっちは食べずに来た。)

著者の能に対する考え方をいくつか引こう。
中世における庶民の生活感情が、一かけらの希望も与えないような、きわめて根深いところから発せられ、暗黒の相貌を滲ませながら歴史に反映されている事実は、誰しもの肯定するところだろうと思う。能の創造は、ひとつにはそういう時代の流れを、本質的な面で捉えようとし、危機に曝された人間性を容赦なく再編成し、舞台上に新しい生命観を昂めることであった。
能が現代になお感動を呼ぶのは、内奥から迸る、非情という普遍的真実性だ、という。
「井筒」や「松風」には決して満たされない追慕の思いが描かれる。

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能は武士が愛し、特権階級の専有物であったかのようだが
もともとは庶民の中から生まれ、社寺や大道で演じられ、庶民とともに育った芸能だった。そうした庶民性は、わが子を訪ねて歩く母親や、苦しみを耐えながら旅先の夫を待ち続ける人妻の姿に、いまもなお色濃く投影されている。
シテが「深井」とか「曲見(しゃくみ)」という中年女性の面(おもて)をつけて登場する「隅田川」とか「百万」、「芦刈」「砧」、、。
物狂いをしている女をあらわす笹を持って登場する隅田川の母親について著者は、単にわが子恋しさに狂っているのではなく、芸能をしながら旅をしていた姿であろうと書く。
俺もそのほうが自然だし、そう考えると一層母親が哀しく見えてくる。
東京大空襲のときに著者は深川に住んでいた友の安否を気遣って隅田川の畔まで行って対岸に渡ることもできず子を背負った母親や老婆の屍が浮いている惨状を眼にする。
能の「隅田川」だけがかくれんぼではなかったのである。無数の人々の傷ましい思い出がこの川にあるのであり、一夜にして十万もの人々が死んで行ったあの悲惨な大空襲を体験したものにとっては、かくれんぼとでもいわなければいいようのない悲しい追憶が、いまもなお続いているのである。「鬼籍に入る」という言葉があるが、死んだ人が鬼なのか、生きている者が鬼なのか、それは知らない。
この「かくれんぼ」というのは前の方で、「隅田川」の母親が探していたわが子が死んで埋葬されている塚で泣いていると亡き子の亡霊が現れるのを現とみて追いかける様を著者は
これはやはり永遠にわが子を捉えることのできない鬼ごっこなのだと思う。
と書いたのを受けたものだ。
この子ども(梅若丸)を実際に子方(子どもの役者)を使って演じるかどうかを巡って世阿弥と世阿弥の長男元雅(「隅田川」の作者)の意見が分かれたことを「申楽談儀」を引いて紹介したくだりだ。

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能の音楽について
能の音楽には、「祈り」という一つの原点しかないのだと思う。奏するということは、祈りの手段だった。その一つの原点から発せられた音の組み立てなるが故に、いまなおその奏者の触発された心をしか構成し得ない音楽、それが囃子と呼ばれる能の音楽なのだ。能の音楽は、つつしみと恐れの彼方に、秩序や自在をまさぐる日本音楽の伝統を示している。
能の謡を五線紙に採譜することや能の音楽を洋楽を通して理解することは無理だという。
このあたりは一噌幸弘が洋楽との合奏をしたり先日の「邯鄲」の「楽」をマイルス・デイビィスの“モーダルな感じ”やオーネット・コールマンのフリージャズとの類似を語っていることを思い出してしまう。
まあ、ジャズも元はといえば”祈り”、音楽は全て”祈り”に始まっているのかも知れないね。

能役者は「直面(ひためん)」といって素顔で登場することもあるが、そのときに一切の感情を表さない。
狂言では喜怒哀楽の表情を見せるけれど。
これを見ても分かるように
能は極楽を語れない芸能だと思っている。もっとはっきりいえば、能の語る地獄を見たときに、観客はおのおの心の中に極楽とは何かをみずから問いかけてみる以外にないのだと思う。(略)つまり能は地獄を語り、地獄を現じて見せることによってしか、極楽を語れない芸能なのである。最も日本的な芸能といわれるゆえんは、案外こんなところからきているのかも知れない。
いい本だと思うけれど惜しむらくはもう売ってない。
1978年刊の本を古本屋で見つけた。

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(小淵沢・井筒屋「天然鰻」、うまいけれど俺は養殖で充分満足できるな)
Commented by たま at 2008-08-12 22:39 x
お盆の法事の情景にいかにもに似つかわしいハスの花(蓮華)と蓮の実、ナツカジー!
「如雨露」(蓮口)の如き形の果実に「蜂の巣」状に埋もれた実をおもむろに取り出し、青い皮をむいて白い実をかじったときの、あの青臭くも、少しほろ苦い味覚。
そういえば、今の季節、水面に広げた蓮の大きな葉の上に鎮座する「牛ガエル」(食用ガエル?)の目前に赤い布切れの「疑似餌」を垂らして、ガマガエルのタラーリ・タラリならぬ、ユラーリ・ユラリ・・・
パクリときたときのあの重さといったら堪りません。
憐れにも、しっかり夏のタンパク源として胃袋へ・・・。合掌
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-12 23:15
たまさん、大きなトノサマガエルがいましたよ。
捕まえるのは止めました^^。生類憐みの季節ですから、とかいってウナギはないですね。
Commented by ginsuisen at 2008-08-12 23:27 x
能は極楽を語れない芸能だと思っている。もっとはっきりいえば、能の語る地獄を見たときに、観客はおのおの心の中に極楽とは何かをみずから問いかけてみる以外にないのだと思う。

↑これ、感じ入りました~。なかなか明察ですね。

蓮の実を炊き込んだご飯を蓮の葉で包んで蒸したものをいただいたことがあります。ありがたいような優しい味でした。
ガマガエル・・食べたことないですー。
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-12 23:33
ginsuisenさん、木村さんはなかなかの方です。
能面打ちの先生についたようです(スケッチなど)。
ガマガエルは食べないのではないでしょうか。
いくらたまさんでも。
Commented by henry66 at 2008-08-13 05:45
能の音楽のCDがひとつ家にありますが、能が何であるかを少しも知らないのに私の息子は小さい頃これを聞くと「悲しい、悲しい」と言って泣きました。
Commented by 74mimi at 2008-08-13 06:20
蓮の実 食べられるのですねぇ!知りませんでした。
紫のお花の綺麗なこと・・・
この天然鰻は白焼きなのでしょうか。
鰻といえば「たれ」のかかったのしか経験がありませんが。
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-13 06:54
henry66さん、それは何の曲ですか?
確かに笛の音は哀調を帯びていますね。打楽器も決して明るいとは言えないかも知れないなあ。それなのに何かの弾みでふっと陽が射す時があるような気がします。
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-13 06:59
74mimiさん、カリフオルニアの花とちょっと違うでしょう?
「ナントカショーマ」?名前は怪しいです。
ウナギは白焼きとタレと両方食べます。
白焼きはワサビ醤油か塩で酒のつまみ。
タレはご飯と一緒に。
天然は高いので白だけ、タレは養殖(宮崎産)でした。
Commented by gakis-room at 2008-08-13 07:37
レンゲショウマ(蓮華升麻 )ですね。花を下から見ると蓮の花のようだそうです。
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-13 07:53
gakis-roomさん、ありがとう。栽培している人も「さて~なんとかショウマっていったよな~」みたいな感じでした。確かに下から見たら蓮に見えるかもしれない、小さいからそういう連想がなかったけれど。
期せずして昨日から蓮の華のつながり写真になっていたのですね。
これはいよいよ私も蓮の台に座るのかな^^。
Commented by tona at 2008-08-13 21:35 x
レンゲショウマが美しく撮れていますね。
どこに咲いていたのでしょうか。
レンゲショウマと言えば、暑い夏というイメージです。
そして鰻も。この頃全然食べていないのですよ。
蓮の実おいしかったでしょう!
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-13 23:29
tona さん、暑い夏、まさに。
小淵沢の知人の庭でした。
鰻、絶品でしたよ、蓮の実はまた違ったおいしかったです。
Commented by takoome at 2008-08-14 08:58
サワディ〜カ〜
2年に一度、こちらでは狂言を見ることが出来ます。ワークショップも催されます。
こんな時には何を置いても飛んで行きますよ。能はまだないですがね、

蓮のみはたまに食べますよ、でも、うなぎは・・・本当にうなぎなのか?が売られています。
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-14 09:50
takoomeさん、どんな人が演じるのですか?日本人でなくても面白いと思うのでしょうね。だいたいあの装束が素晴らしいもの。
でも、野村万作などは狂言の魅力は言葉にあるから日本でもいづれ分からない人が増えると危機感を強く持っています。
鰻は世界中で食べるようですが江戸前の蒲焼はフランス人の名シエフも作れません。
日本でも江戸前がいいと思います。
Commented by takoome at 2008-08-14 18:59
昨年の3月、観世流能公演。日タイ修好120周年ということで色んな催し物がありました。

参考まで、http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/thailand/jpth120/event/
そんなこと言わずにどんどんやってほしいものです。

鰻、蒸して醤油とわさびで頂くのが好きですが、その味を息子達は知らないと思います。 
Commented by saheizi-inokori at 2008-08-14 19:51
takoomeさん、ずいぶんいろいろあったんですね。かえって日本にいるよりもいろんなものをみたりするかもしれません。
外国に旅行すると一生懸命美術館などを見て回るのに東京ではたまにしか行かないのです。
いつでも見られると思うからもありますが日常に埋没してしまうこともあります。

鰻の白焼き、自分では作るのは大変ですかね、亡くなった祖母は半日がかりで蒸して焼いてましたが。
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by saheizi-inokori | 2008-08-12 21:17 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(16)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


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