裁判は共同幻想のつっかい棒か? 山口宏・副島隆彦「新版 裁判の秘密」(宝島社) |
私は、もう弁護士をやめたい。日本の裁判の実際を歯に衣着せず活写し告発する。
弁護士稼業がいかに間尺に合わないかを縷々説明する、嘆き節。
といっても東京生まれ、しかもあの早稲田の在野精神が脈々として(のせいか)あたかも切れ味の良い江戸っ子の啖呵を聞くような風格がある。

意味なくだらだら長引く裁判の裏事情、(1年に10回くらいしか開かれない法廷、時間の火あぶりに焦りまくる仮処分請求があっても3時になるとカセットラジオを持ち出してラジオ体操をする裁判所の事務官のことなど)、2年も3年もかけてやっと勝訴しても求めた債権が回収できることはほとんどと言っていいほど期待できない。
債務者は強い!
強制執行などやっても回収すべき金がなかったり隠されたらどうにもならない。
むしろ勝訴した方が経費の負担損になる。
実力で借金を取り返してくれるヤクザの存在価値を再認識する次第だ。
日本社会が法律や契約を守っている社会のように見えるのは遵法精神をもった人が多いからに過ぎない。
裁判所には法律・契約の守護者としての機能は実質的に失われている。
債務者は王様、貸した方が乞食、それなのになぜ政府は住専では貸し手を救ったか?
それは農協を救ったに過ぎない(税金で)。
離婚や相続を巡る骨肉の争いにおいても裁判所は無力だ。
それは明治時代の秀才碩学の学者が日本古来の家父長制などを無視してドイツ民法典を引き写した民法が実情にそぐわないからだ。
日本社会の実質的な価値基準・規範は塩月の「冠婚葬祭入門」のようなものにあるはずなのだ。
民事裁判とその周辺の法的手続き、仮処分、競売、担保、尋問、陳述、破産、、、いろいろな事が手際よくその実態も含めて紹介されるから結構裁判に詳しくなったような気がする。
藤田朋子のヌード写真集出版差し止め事件の例をひいて名誉毀損が裁判で守られるのは難しいこともわかった。
まして行政訴訟なんて全く無意味、骨折り損のクタビレモウケになるということも(これは想像していたが)再認識した。
刑事事件についても”卓見”を開陳する。
オウム裁判の本質は、麻原が犯人であると報道され、国民もそう信じている以上、「犯人を処罰せよ」と言うマスコミによって醸成された全国民の意識を、裁判所という国家機関が認知してあげるところにある。
古い言葉で言えば、共同幻想を支えるという機能を裁判所が果たしている(山口の言葉ですよ。念を押しとかないとヤバイからね)。
裁判所は、権力機関だといっても、行政権力のように警察官を使って実力行使するなどということはできない。裁判所を三権のうちの一翼ならしめているのは、ひとつのイメージである。物理的な力ではなくて「権威」である。それは「世間」と合致していること。
人民にあった復讐権を国家が取り上げて裁判制度を作ったのだから、いい裁判かどうかということはみんなが決めればいい。
その結果冤罪が発生してもしょうがないじゃないか。
裁判は所詮、過去に起きた事実をあとからああだこうだと再現することだが、ある意味ではフイクションであることを免れない。
であるならば現実とのズレ、冤罪は発生する。
著者の考察は哲学的だ。
それはオウム・麻原について
真実なるものはじつにアヤフヤなものである。そのときは、ほぼ全員が明らかにそうだと信じていたことでも、長い時間がたつと、それらはすべて嘘でした、ということがたくさんある。だから、麻原に限って冤罪はありえない、と考えるとすれば、やはり、それは法や正義の奥深さを知らないということになる。と書いてあるので推し量れる。
裁判というものは皆のためのものだ。それは、皆の利益というよりも、皆が共有している幻想のためのものだ。人間を人間たらしめ秩序を形成させている基本的な思考、それがなくなると今まで人類が「これが世界だ」と感じてきたような感覚自体がなくなってしまう、そのような根幹部分を守るための装置なのである。「人間を人間たらしめている基本的な思考」とは、たとえば善悪の二項対立でありそれを担保するのが裁判だというようだ。

「裁判官とはこんな人種だ」という章に書いてある裁判官像は愉快であり物悲しい。
オタク、トッチャン坊や、昼飯は同室の裁判官と揃って地下の食堂に行く(東京の場合)、ジイさん、中年、お兄さんの順に並んでいくので書記官に「アヒルの行列」と陰口をいわれる、酒を飲むのは裁判所関係の人とだけ、赤提灯には行かない(裁判官だとわかって絡まれるから)、謙虚さとは無縁、異常現象ばかり見ているから正常な世間を知らない、最大の目標は昇進と引退後の勲章、清貧、唯一の”天下り先”は公証人になること。
せっかくだから筆者の司法制度改革提言を紹介しておこう。
①一日も早くインターネット法廷を導入せよ。
裁判所(全国どこへでも)まで出頭して書類や証拠をやりとりするだけで殆どの時間が費やされているそうだ。
②法廷という部屋にこだわるな。
病院でもオフイスでもどこでも裁判はできるはず。
③強制執行システムを強化せよ。
判決が現実には執行されないのは近代国家とはいえない。
資産がない場合に労働を科することも?
④公権力が握る情報を公開せよ。
敗訴しそうになると資産の名義を他人に移す。
税務署には「資産隠しのためで本当の譲渡ではない」と説明すれば課税は免れるそうだ。
⑤社会の規範にそった判決をめざせ。
若いうちから裁判官にはもっと現実の社会規範なるものを吸収して欲しい。
なかなか面白い本だった。
果たして日本は本当に法治国家といえるのだろうか。
そういう前提、幻想を持った人たちが多数派でいるからなんとかなっているのかも知れない。
既にそんな幻想からはみ出した人が増えているような気もする。
格差の拡大、セーフネットの崩壊、憲法で保障された最低の文化的生活を維持できない人の増大、、幻想がマボロシであったことに気がつく人が増えている。
裁判員制度については特に意見らしき記述はなかった。
現状批判の立場や刑事事件の哲学的考察を読むと裁判員制度には積極派かとも思えるが。
ただ、今現在推進中の制度についてはどうだろう。

幼い頃に父から教えられた「左ヒラメに、右カレイ」。
最初のうちは、単に「左側」に目玉が2つならんでいるのがヒラメ、その反対がカレイ・・・と一応は(言葉の上で)理解。
では、その「左側」は何を基準に左側・・・?
最近やっと理解できたのは、魚本来の背びれを上にして唇を下に上方から眺めたときに「左側」に目玉が並んでいるのがヒラメ、その反対がカレイと納得した次第。
その意味で、台風の「左巻き」を理解できたのも最近のこと(※だって渦の下側は右向き/ホントの定義は、風を背にして渦の中心が左側にあるのが左巻き・・・。同様に、川の「左岸」も流れを背にして左側が「左岸」だと・・・。)
きっと、ウナギを左右に裁くときに関東(背開き)と関西(腹開き)では左右が異なるのかしら・・・?
かように、「左」か「右」かの裁き方が判らずに、ましていわんや「裁判」をや・・・。
では、家父長制に戻れるか?となると、首をかしげますが。
そして、日本が世界で一番の長寿国だということを納得・・・
ジャンクフードがありませんからねぇ!
「無い袖は振れない」という理屈が実際まかり通るんだそうです。
何よりもショックだったのは、裁判制度が信じられなくなってしまったその人がまるで別人のように変わってしまった事。
お金って怖いです。
くだらない質問で、ごめんなさい。ほんとに何も知らないのです。
「戸籍」というしくみにも共同幻想があるのではないかと感じることがしばしばなのです。
タクシーで道の分からない時に指令に聞いたら「右に曲がって」などというのですがどっちからくるかで反対にいってしまいますね。
社会主義国の右派って日本では左派?わかんなくなっちゃう^^。
だから今は親を一人にしちゃうのかな。
もっと広くて安い店に行くとジャンクまがいの定食も出てきます。
それでも定食屋に行く人はいい方でジャンクで済ましたり公園でマックをほうばっている人がとても多い。そしてそれすらできない人が公園で寝転がっています。
厳重な手続きで守られているようですがこれにも浦道はあるようなことも書いてありました。
又、離婚係争中に別の人と子供を作ったときに前の夫の子かをめぐって戸籍が偉い騒動を起こす原因にもなるという例が紹介されていました。
この共同社会を成り立たせている制度は基本的には共同幻想の上に成立しているのでしょう。
「住所不定」になれば戸籍はトレースできず、したがって個人のIDはなくなりますよ。
>親が亡くなったとき同居の長男に家屋敷は兄弟で平等に分けるのだから買い取るか出ていけ、というのが今の民法ですが、それは実際問題難しいですね。
難しくありませんよ。私はバンバン支援してます。簡単な手続きじゃないですか。
ご用の方はご一報ください(^^;)。
必要条件はただ一つ。「兄弟姉妹は他人の始まり」という心構え。
逆に長男にその心構えがあれば何も問題は起きないでしょう。
>離婚係争中に別の人と子供を作ったときに前の夫の子かをめぐって
この係争は年間数千件!
先に上げる原稿がありますのでまた後程。
江戸時代までは武家諸法度のような庶民とは別の高い倫理規定を持ち、明治時代は貴族と云う倫理を重んじるものが国の中心にいました。
日本はそれだけ高い文化を有していたのですから、国民が貴族意識を持ち、法律以上の規範を持つ心掛けが必要のようです。そうなった時には裁判員制度が有効に活用出来る事でしょう。
庶民も立派だったと思いますよ。
それこそ
>実力で借金を取り返してくれるヤクザの存在価値を再認識する次第だ。
なんですよ。
私は、民事訴訟については数え切れないほどの事件を経験してきていますが、民事においては原告および告が主張する事実、証拠の真偽は警察や検察の科学的あるいは客観的な検証を経ていません。だから裁判官次第になります。裁判官の「好みのタイプ」が勝ち!というケースを何度も見ています。しかし、そこで引っ込んでいては債権は回収できません。
裁判員制度は、陪審員の国であるアメリカでは「司法取引」でほとんどのが決着する「刑事裁判」にしか導入されません。
裁判当日になるとなぜか被告あるいは債務者かその家族が急病になる民事裁判の虚しさはまだまだ続くことになりますが、これは「ヤクザ」業界保護育成のためなんでしょうね。
逆に本来法律の構成要件などに厳格なるべき刑事が案外裁判官の主観、というか結論ありきの裁判になってしまうようです。
ヤクザのような法律をどうかいくぐるかを商売にしている集団を民法や強制執行法は想定しているのでしょうかねえ。
知りませんでした・・・
マックのない国ってあるのかな?みたいなもの。
日本の若い子はアメリカに行って「あ、アメリカにもマックがある!」と叫ぶかも。
スタバも今やない街が(東京では)少ないです。
セブンイレブンが立派な住宅地にもあるのですよ。

27歳男性東北地方住み、法律家見習いです。
俺も山口宏弁護士と発狂前?の副島隆彦の共著、「裁判の秘密」読みました。
今北産業でまとめると、
著者は電脳リバタリアン弁護士で頭がよく批判的かつ現実主義者
日本の裁判所は時代遅れアナクロ裁判官という人種は身内の贔屓程度
日本の大陸法的実定法は法曹界でさえもよくわからない
ですかな。
あとは債務者は強い、ヤクザ893警視総監ちまなこの暴力団は意味のある必要悪だ的な指摘はすぐれてる、とても私には真似できないと思いました。
今は別の意味で法治国家か否かが問われてるようです。