今ごろ読んだ ヘンリー・デイヴイッド・ソロー「一市民の反抗」
2008年 05月 17日
だいたい昔の偉人などについてはその業績に眩惑されるせいか彼らの年齢を見誤っていることが多い。
たいていの偉人は青年時代に何かやり遂げ俺の年には死んじまっている。
その著作を読むのはまずそんなことを認識する意味もある(辛いけれど)。
本書は『市民的不服従』との題名でも知られる。
「良心の声に従う自由と権利」が副題。
奴隷制を支持するマサチューセッツ州政府に対する不服従を表明するために人頭税を支払わなかったソローは刑務所に入れられた。
そうすることで町の人びとに奴隷制の問題を強く訴えることが出来ると考えたのだ。
その心を理解出来ずに、代わりに税金を払った者がいたために一日で解放されたソローは不機嫌だった。
しかも彼の行為は町民からは不興を買った。
ハーヴアード大学を出たエリートで鳥、植物、動物などに夢中になるソローは変人ではあったが貧しい人や子どもたち、先住民などと対等に付き合い彼らの気持ちを理解する人だったから、町民たちは不満に思いながらもソローの行動の本当の理由を知りたがった。
そういう気持ちに応えてソローが講演した原稿が本書だ。
「多数派が支配している政府は、どのような場合でも正義にもとづくことはありえません」
法律を尊重して政府に忠実になればその人は良き市民として評価される。
しかし、そうするときに人びとは、人間個人としてではなくて、軍隊、民兵、警防団などもっぱら組織として、からだを使って州に仕えるのだ。
「私たちはまず人間として生きなければなりません。統治されるのはその後です」
「奴隷を認める政府であるこの政治組織を、私の政府として認めることはどうしてもできないのです」
他にも奴隷制に反対の気持ちを持っている人はいる。
でも投票をしただけで結局多数派政府のもとで安逸な生活を送っている。
法律や行政が予定している悪弊を矯正するための手段、請願など、をソローは取らない。
「そうした方法はあまりにも時間がかかります」
「私がこの世に生まれたのは、ここを良くするためではなくて、良かろうが悪かろうが、ここで生きるためです。人はすべてのことをするのではなく、何かをするのです。すべてのことをすることはできないからといって、誤ったことをする必要はないのです」
「国家が個人を国家よりも高い自律した力として認め、国家自体の力と権威はその個人の力から生まれると考え、そして個人をそれにふさわしいかたちで扱うようになるまでは、ほんとうに自由で開かれた国家は決して実現しないでしょう」
ガンデイー、ナチス支配下のデンマークの人びと、マーテイン・ルーサー・キングたちが本書に勇気と知恵を与えられてどれほど偉大なことを成し遂げたかを知ると、この短いエッセイが今も生きて語りかけてくる、ソローの息づかいを感じる。
上に引いた自由で開かれた国家についての記述を受けて「そのような国家はまだどこにも見あたりません」という言葉が締めくくりの言葉となっている。
訳は山口晃。
彼の解説に助けられた。
ソローの告別式には、「町の子供たちの多くも参列した」ことも教えていただいた。
文遊社。
そんな鼓動がソローからは伝わってきます。
ソローはそうした人間に完璧を求めてはいないようです。
実際、そんな人は居やしない。
一歩前に踏み出す理性と勇気を持っている人。そういう存在があれば世の中は変わる。
ただ国家というものはそうした人間には依拠しないのを本質とする。
それは権力、強制を本質的に内在するから?
料理は美味く出来ましたか?
佐平次さんの眼力、見識に、改めて敬服します。
『一市民の反抗』は未読です。
連帯しての反抗も困難な状況で、たった一人での反抗はキツイですね。
谷中散歩の途中の店で見つけました。雑貨やといってもいいような店に置いてあった数冊の本の中に。
森の生活も読みたいです。言葉を吟味している人なので読み応えがありそうですね。