俺が食べ残しをしなくなった訳 アーサー・ビナード「空からきた魚」(集英社文庫)
2008年 05月 09日
著者は小学校三年生の時、朝登校前にピアノを習いに通った。
両親にむりやり通わせられて、「ゼッタイ覚えないでやろうと決め込んでいたピアノも、いつの間にか少し弾けるように」なったのは、アイバン先生が早朝レッスンを"お茶のひととき"に替えてくれたおかげだと言う。
著者が風邪を引いて休むと翌週ピアノにつくやいなやポオの病気快癒を謳った詩を朗々と唱えて笑うような先生だった。
著者が詩に興味をもつようになったのもアイバン先生に関係があるかもしれない。
著者はその後アメリカ各地に移り住んだけれど先生に会いに行く。来日後はクリスマスの手紙を欠かさなかったがある年に途絶える。
アメリカに帰って友人に会ったら先生が死の直前に著者に出した手紙を見せられる。
宛先に池袋と書かなかったために宛先不明で戻って来たので友人に預けたのだった。
初めて読む人だが、詩的、俳味のある文章。観察が細かくユニーク、ユーモアに富んでいて著者の人柄が好もしい。
エッセイ集を読んでいて「死者からのクリスマス便り」と言う一編にアイバン先生が登場した。
猪瀬先生と小林先生のことを思い出した。
小学校二年のこと、当時は弁当を持って学校に行った。
ある日、母は鯖の味噌煮をオカズにした。
コールドチェーンなんてない昔の山国長野、新鮮な魚なんてある訳もないしあっても買える我が家じゃない。
まして鯖!
今でこそ大好物だけれど子どもにはどうなんだろう。
食べ残してしまった。昼食が終わると空になった弁当箱を先生に見せることになっていた。
猪瀬先生は放課後当直室に俺を連れて行き、先生の見ている前で全部食べろと命じた。
ただでさえ嫌いなものを自分のものとはいえ食べ残し。
口に入れると鯖の独特の味が広がりウーッとなる。
猪瀬先生はまっすぐに俺の顔を見ている。
涙ポロポロ、吐き気と戦い全部食べ終わる時は永遠に来ないかと思った。
でも先生は、励まし続けてもう良いとは言わない。
結局全部食べた。
先生はその年、癌で早世した。
6歳から7歳までの短い間しかお世話にならなかったのに今でも猪瀬先生の笑顔を思い出せる。
叱られた時の顔は覚えていないのに。
小林先生の笑顔のことは又いつか書く。
アーサー君のおかげで懐かしい先生のことを、あの先生たちのおかげで今の自分があることを思い出した。
ちなみに猪瀬先生は猪瀬直樹さんの父上だ。
人生を根底から
変えることがある
よき 出逢いを ” みつを
猪瀬先生との出逢いがあって
本当に良かったですね。良いお話を伺いました。
孫は好き嫌いがあります。でも孫には無理に食べさせられないで、、 もう~どうでもいいわ、、
なんて思ってしまいますのよ。
今猪瀬先生がいたら親たちの猛烈な反発でクビになるかもしれません。
弁当で言うなら子どもの嫌いなものを入れる親もいないかなあ。
その前に毎日弁当を作る親も少ないかもしれません。
しかし夕飯は丸いちゃぶ台に父と子供達だけで監視をされながら食べていて残す事は出来ませんでした。母は店番をしていて後で一人で食べていました。
現在は魚の方が胃に負担が無いですが商人は毎日買い物に行くわけに行きません。
家庭の教育も有りましたね。
今の給食がうらやましいです。
彼が食べられないでいた給食のコロッケをもらってあげました。
なぜかビチャビチャにふやけていて、私もどうしても食べられなくて、
担任の先生に叱られちゃいました。
でもそれ以来、その男の子とはとっても仲良くなれましたよ。
すぐに転校して行っちゃったけれど。
あの時の男の子、佐平次さんだったのかしら。^^
一、二年の頃の友達って男の子しか覚えてない。不思議だな。
でも私は猪瀬先生がなんとかして好き嫌いをなくし母の作った弁当を残さないことを全身全霊で教えて下さったことを忘れられない、とても有難い経験をしたと思います。
私は父はたいてい遅く酔って帰ってきたし早く亡くなったので一緒に食事をした思い出が余りないんです。
残業帰りの母と一汁一菜の質素な食事、しかしとても楽しい食事をした思い出が一番懐かしいです。
心に残る先生が多い方が人生が豊かになると思いませんか…
褒められたことも、叱られたことも…み~んな子どもの心の栄養になると思うのですが…
最近の教師は中途半端…(^^;師とも呼べない人が多いようで…(;-_-) =3
我が身可愛いだけの人は教職につかないで欲しいなぁ…
でも自分は我が侭で辛抱がきかないから向かないと思って諦めました。
教師=聖職論が当たり前の前提になっていた時代に子どもでおれたことを感謝します。
今度この本を人に頂いて読んでみて気に入りましたよ。
銭湯好きらしいし。
もっとも風呂のない下宿に住んだのですね、最初は。