永遠の青年か? 柳家小三治「落語家論」(ちくま文庫)
2008年 02月 09日
25年ほど前、小三治が45・6の頃の文章だ。
「民族芸能を守る会」というマイナーな雑誌に「紅顔の噺家諸君!」と題して連載(無料で)したもの。
「とにもかくにも今すぐにもお客に受けたい」の一心からせっかく有望な若手が崩れていき、これはという人材が見当たらない落語界に対する叱咤激励、それも総論ばかりではなく周到な具体論でのオサトシだ。
志ん生が「お父ちゃん!噺てぇのァどうやったら面白くできるの?」と志ん朝に問われて答えた言葉
ツマリソレハ、面白くやろうと思わないことだよこの話を志ん朝から聞いて以来、この言葉は小三治の座右の教訓となる。
近頃お客さんに受けないなァとか、自分でも納得がいかないというときに。志ん生父子のやり取りを自分にぶつけて点検してみると、きっとそれだった。本来の噺の本意をそっちのけ、くすぐりに重点を置いて受けたがっていたり、ギャグや入れごとばかりにとらわれていたり等々にきっと思いあたった。先日俺が昇太の爆笑落語を聴いて感じたことを言ってる。
口じゃいろいろ言う人はいるけど、誰も助けてくれないのだよ。厳しい指摘が続く。
挨拶もできない若手だけじゃない。
それを叱ることもできないばかりか自ら落語界のよき伝統を壊している師匠連にも容赦しない。
名前を挙げてはいないけれど読む人が読めばすぐ誰のことかはわかるだろう。
「芸術祭受賞パーテイ」などのパーテイ大っ嫌い宣言のあとに
ア、またまた敵が増えちまった。と書く。
当然と言えば当然だが若さを感じるところもある。
ちょいと力が入っているところも。
だが、本人があとがきに書いているように
私の基本構造は二十年前と今とでちっとも違っていないつまり不動の人、心棒が一本貫かれている人なんだ。
若い頃から老成していたともいえる。
というより、むしろいつまでたっても若い、青年のような、いや、子供のように純な”ムキになる”心を持ち続けている人なんだ。
「春の小川」という歌について。
「さらさら行くよ」という歌詞は昔は「さらさら流る」だったことを知ってこの歌を聞いているうちに
(今までは、さらさら流れていく小川を岸辺で眺めている景色として聞いていたが)今、流れていく水に自分がなったようにこの歌を聞いていることに気がついた(略)泳ぐように流れていくのである。左右の岸辺は、手の届くほどの近さである。黒い土も春めいている。ところどころ、なにかが芽吹いている。それらに声を掛けながら、流れに混じって流れていく自分。厳しいかと思えばニコゲをそっとつまんで見せるような優しさもあり、下ネタもあります。
まるで、夢の中の自分になったようだ。(略)
自分はすみれやれんげと同じくらいの背丈のようで、水際の小石や草の芽が、とても大きく感じられる。(略)
一面からばかりでなく、別の面からもその素晴らしさを知ることができたら、もっと素敵じゃないか!(略)
もっと早くからそういう感覚を持つことができたら、世の中のもろもろが、もっと輝いてみえたことだろう。
今までなんとも思わなかったものでも、実に素晴らしいものだったかもしれない。
写真は下落合を散歩の途中で見つけた張り紙、特に深い意味はない。
patagoniaというブランドのバーゲンをしている店の地下の店の物。
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落語のことはよく分らないのですが、お笑い全般にいえることではないでしょうか。吉本系の芸人をみていると納得のことばです。もっとも自分で笑っているから、セワーないが。これって文章にも言えるのかもしれません。難しいですがね。
まあ、まったくそんなことを考えない連中も多いのですが。
最近足繁く落語を聴きに通っているので、ふつうで面白いっていうのを客席で身にしみて感じます。でもきっとこういう若手の方は小三治師匠の本を読んでないんだろうなあ。読んで欲しい人が読んでない。読んだところでまるで響かない人かもしれないですけどね(他業種のあたしにさえ響いたというのに〜!)
私が半日かかって読んだ本を読まずして本質を読み取ってくださった。まったくその通りですね。
そうでなければ単なる「わ~、きれいだ~」だけの発見に終わっている。
発見できた修行、心の持ち方の修練が問題なんだ。
それを彼はさらっと書いていて、しかしわが心にメッセージを送ってくれたというわけか。
もう一度読んだ気がします。