おっと失礼!書き忘れ権太楼 「落語研究会」の追加です
2007年 09月 29日
仲入り後の食いつきに出て「代書屋」。
司法書士のことだけど代書屋っていうと懐かしい気分、恋文横丁が連想されたりして。
文字を知らない男が履歴書を書いてもらいにきて代書屋と交わす一問一答がすべて抱腹という一人漫才みたいな愉快な噺。
権太楼は落語研究会の裏話から始める。
ここはネタ指定というのが嫌で半年も前から何をやれといわれるからそれがプレッシャーでね、もう本番になると力が入って前半飛ばしていいかと思うと後半に息切れして、歌武蔵みたいになる。と笑わせる。
「本籍は?籍は?」
「いい塩梅に収まってる」(咳だと思っている)
「違うよ、どこで生まれたか?」
「確か奥の4畳半」
「生年月日は?生まれた月日」
「覚えていないよ。何しろ夢中だったから」
「賞罰は?褒められて賞状を貰って新聞なんかにでたことは?」
「あるよ」
「ほんとに?」
「ウン、大食い競争に買って、賞状貰って新聞にも出た」
、、人によりやりとりの内容は違う。
権太楼のやり方、どうも見たことはないがテープで聴いた枝雀のような誇張がある。
代書屋が自分でウケて笑ってしまうような、一緒にクレージーな世界を盛り上げているような。
終わってから近くのカフエでやる落語仲間の”ひととき”に参加して聞いたらやはり枝雀の得意ネタだったという。
それはそれで面白かったけれど、これはむしろ代書屋は面白みのない真面目なオジサンが目を白黒するような感じでやる方がもっと可笑しさがコミアゲテ来るようにも思ったが。
志ん生版。
下谷の山崎町を出まして、あれから上野の山下ィ出て、三枚橋から上野広小路(しろこうじ)ィ出まして、御成街道から五軒町ィ出て、その頃堀様と鳥居様のお屋敷の前(まい)をまっすぐに、筋違(すじかい)御門から大通りィ出まして、神田の須田町ィ出まして、新石町から鍛治町ィ出まして、今川橋から本白銀町ィ出まして、石町から本町ィ出まして室町から日本橋を渡りまして、通り4丁目から中橋ィ出まして、南伝馬町から京橋を渡ってまっすぐに、新橋を右に切れまして、土橋から久保町ィ出まして、新し橋の通りをまっすぐに、愛宕下ィ出て天徳橋を抜けて、飯倉6丁目から坂ァあがって飯倉片町、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂をおりまして、十番ィ出まして、大黒坂をあがって、一本松から麻布絶口釜無村の木蓮寺に来たときには、ずいぶんみんなくたびれた・・・あたしもくたびれた。
(飯島友治編「古典落語志ん生集」ちくま文庫・参照)
書いた俺もくたびれた。
正朝は「あたしも、、」をやらなかった。
なお麻布絶口釜無村というのは架空の地名だ。
当時、下谷あたりに住んでいる人から見たら麻布なんて狐狸化生のいるところ、地の果てアルジエリアみたいなもんだった。
まあ、今も狐や狸が住んでいることには変わらないが。
”ひととき”のメンバーが「一度この道行きやりませんか」と提案したが結論は有耶無耶になっている。
10キロじゃきかないだろうね。
大したこたァね~ってか。
東京の町名がたくさん出てきて、楽しかったです。
昔の町名がずいぶん変わって、生まれた所もどこだかわからなく
なりました。これからは、生まれた所は、四畳半にします。
竹町のおじさんも黒門町のおばさんも町名ごと
みんなあの世へ引っ越して往きました。
生まれたところは布団の上って言うバージョンもあります。
加茂川白河打ち渡り。思ふ人には粟田口とよ。四之宮川原
十禅寺。関山三里を打ち過ぎて、人松本に着くとの~」とずっと、京都から琵琶湖、不破の関まで続きます。聞いていると一緒に旅をしているよう。道行・・・ゆかしい言葉ですわん。
saheiziさんの後輩たちですね~。
火事で焼けちゃったのが卒業したあくる年でした。
saheiziさんの聞いたことの記憶力に毎回驚いています。
好きというだけでなく、頭脳が違うのですね。
恋文横丁で食べたタンメンとか飲んだストレートのウイスキー、懐かしいです。
連日の出勤のストレス解消はやはり志ん生さんとばかり、ipodで「猫の皿」をダウンロード。
まくらの小噺が良いですねえ。
「えー、噺というものは、順序というものがあるもんですが、わたくしの方は、出たとこ勝負で・・・」なんていう冒頭から志ん生節に引き込まれてしまいますな。
落語でないですが、母を『吉本』へ連れて行こうと・・・!
せっかく大阪に住んでますから、
桂文珍のライブを母と一緒に見ようかと、頭に浮かびました。
笑いは、健康のために必要ですね~!
そういうシーンを思い出すのがせめてもの心の救いになってます。
是非是非!必ず!