間に合ったか狂言との出会い 野村萬斎「萬斎でござる」(朝日文庫)
2007年 09月 26日
なるほど多くの人が夢中になって追っかけるはずだ。
彼がなぜああもカッコいいのかがこの本を読むと少し分かるような気がする。
型の追求、そのための身体の修練を幼い頃から徹底している。
17歳で披いた三番叟について
「三番叟」を披くということは、身体を完全にコントロールできるよになるまで訓練するということです。(略)押しつけられるものにすぎなかった型にも、やり方がいろいろあるということ、また、型というもの自体の深さ、奥がわからないくらいのブラックボックス的なところなどもわかってきました。受け継がれてきたものに、現代人である自分が交信していくような手応えを感じるようになったのです。24歳で「円」のメンバーなどと「ハムレット」をやったときに新劇の人たちから「感情の流れが見えない」といわれる。
そもそも狂言は、基本的には感情移入というほどの感情移入はしません。狂言では、感情というものは事柄としてあって、型といっしょにセットになっているものです。型の中に悲しいという型があって、その悲しみの型にエネルギーを注ぐのです。生い立ち、修行、公演活動の後を振り返りながら狂言、ひいては広く演劇一般の本質に迫っていく。
私は、能楽の「型」というのは、倍率のよいレンズのようなものだと思っています。演じるものはレンズに向かってエネルギーを放出します。レンズがよければ投影される影は、実像よりも大きく映る。その形に想像力で色をつけるのは、観客席にいるお客様の特権です。
父・万作のパイオニア精神をさらに上回るスケールで考え行動する。
たまたまテレビで万作が萬斎について「私は狂言の価値を広めるために多くのチャレンジをしたが息子は狂言だけではなく”野村萬斎という役者”の価値をあげ広めようとしている」みたいなニュアンスで語るのを聞いた。
そのことを萬斎は
私の根本はもちろん狂言ですし、正統な狂言師だという自負があります。けれども、ほかのジャンルから刺激を受けることはとても楽しいことですから、私は自分をバイリンガルとして位置づけたいと思っています。両方がキチンと出来るならば、他流試合は悪いことではないと思います。最後に「ようこそ、狂言の世界へ」という章を設けているが、そこで狂言について
基本的には、役者は笑わせようとして演じているわけではありません。人間がたくましく生きる姿を一生懸命に演じる。一生懸命にやればやるほどおかしくなってくる。素直に見てもらって、素直に発散できる笑いが、狂言の笑いの特徴であると思います。と書いている。
「おすすめ狂言選」もついてます。
この世界、俺は発見したばかり、せいぜいこれから楽しませてもらおう。
写真中は江戸川橋地蔵通りから見た満月、携帯だとこんな風にしか写らないけれど実はとても大きく素晴らしかった。
今日の店は「ソウル」、ママにわがまま言って生ビールを持って外で月を楽しんだ。
下は音羽「熱海湯」。風呂の中で満月を楽しむ。紫式部と。
上野でもう終わったかもしれないけれどインカの展覧会がありました。15・16世紀のインカと世阿弥のいた日本、私は日本て捨てたものじゃないと胸を張って会場を出ましたよ。