ポンパッ!チリパッハ 諏訪哲史「アサッテの人」(文藝春秋9月号)
2007年 08月 15日
吃音に悩まされていたときは自分を除外している世界があって、それは澱みなく流れている完璧なものと思って憧れていた。
突然吃音から解放されてみたらどうも様子が違う。
少年のころ偉大な統一と見えたもの、それは世界の本質を構成し、機能させるところの、ある種の文法に他ならなかった。僕が死にもの狂いで手に入れようとした言葉のリズム、ある一定の波長は、そこへのチューニングが可能となった今、逆に僕をその律の内に緊縛し閉じ込めようとするものだった。吃音を失った叔父は、もう一度「吃音的なもの」を求めはじめる。
それが「アサッテ」なのだ。
「チューリップ男」が登場する。
人が見ているときには普通のサラリーマンだがエレベーターの箱にひとりになると逆立ちをし、コサックダンスをし、チューリップのポーズをとり、ズボンのフアスナーを降ろして露出する。
「チューリップ男」を知った叔父は自分の姿を彼に重ねる(叔父はエレベーターの監視をしていたのだ)。
おそらく彼の日常には、僕と同じようなありきたりな出来事、習慣、一般常識、といった諸々の凡庸が満ちあふれている。彼はのべつまくなしにその流れに従わされているだろう。彼自身、社会それ自体に刃を向けることは望んではいまい。しかし彼は、あわよくばそこから離反し、どこか無重力の場所に憩うことを、常に虎視眈々と狙っている。叔父さんの「アサッテ」が「ポンパッ」なのだ。
程度の差こそあれ叔父さんと似たような感覚を持ったことがある人は多いのでは?
日常社会での言葉や行動には通念的な常識という枠があってそれを逸脱すると変人・奇人になってしまう。
当たり前の会話は、しゃべる前から答えが予想できるような定式的な言葉から成り立っている。
そういうのってウンザリすることがありはしないか?
突然わざと”違う”言葉を吐き出したくなることはないか?
俺は結構あるんだなあ。実際にしゃべってしまうこともある。
別にウソとか間違ったことを言うんじゃなくて、その”場”にふさわしくない言葉をしゃべってしまう。
聞こえない振りをされることもある。
僕はテレビの中で行われる、体裁にとらわれたすべての猿芝居の我慢がならない。それは生理的な嫌悪感ともいうべきものだ。こういうところも叔父さんと俺は似ている。
流行歌のありきたりの歌詞が嫌いなところも。
”社会それ自体に刃を向けることは望まない”けれど、なんか「このまんまでいいのか?」「そうは行くかよ、流されていたくはないよ」みたいな気持ちがあって、時には”誰も見ていないときに”ワケのわからない言葉を叫んだり飛び上がったりして、又普通のオジサンとして歩き続ける。
最初、めんどくさい書き方だから読むのを止めようかと思ったが直ぐに面白くなった。
叔父さんのアサッテぶりに吹き出してしまう。
叔父さんに愛は感じているものの突き放して書いているからカラッと後口がいい。
芥川賞でユーモア小説って珍しいんじゃないか?
(作者はこれをユーモア小説として書いたかどうかは分からないのだが)。
人間やこの世界を活写するにはユーモア感覚が必要なのかもしれない。
自ずからペーソスも漂ってくるんだね。
哀愁のポンパッてか。
温泉、読書又温泉何処へも行かずに、充分満足して帰って来ました。 ただ、「アサッテの人」の部分のみを残して、家でゆっくり読もうと!無理かな!!
佐平次さんが、いきなり”違う”言葉をおっしゃったとしても、私はそんなに驚かないような気がします。
だから、いつでもどうぞ!^^
私も昔変なことを叫んだのですがそれがどういう言葉だったか忘れてしまいました^^。
いまどき、「異常な事する位が普通」なんでしょうか。