自然体の名人 柳家小三治「野ざらし」 新宿・末廣亭
2007年 06月 26日
日曜日には朝8時から並んで席取りをして能をみた。
11時45分から途中休憩もあるけれど仕舞が「雲雀山」「船橋」「経政」の三つ、狂言「磁石」、能が「満仲(まんぢう)」「夕顔」「大会(おおえ)」の三つを観終わったのが夕方の5時近い。
感想を忘れないうちに書こうと思うが、チョイと疲れているのでもう少し後で。
疲れたといいながら昨夜は新宿末廣亭に行った。
柳家小三治が夜主任、めったに観ることが出来ないから万障繰り合わせて。
末廣亭の二階が一杯になるのもめったにないことだ。
桂才賀、川柳川柳など出演者が皆いつもより熱演だ。
会場の熱気とレベルに熱くなっている。
川柳は小三治より年も芸暦も先輩だが「皆さん、小三治師匠がお目当てでしょう。私は新作だからいいけれど古典やる人はやりずらいだろうなあ」と語る口調はいつもの毒舌ではなく小三治への敬意が溢れていた。
はん治が新作で90歳のヤクザの親分の出入りを語り場内爆笑。
扇橋が中入り前に「道具屋」を例の調子でやって俺は大満足だったが、今日は枕なし、直ぐに噺に入ったのは仲良しの小三治への配慮(きっちり話すけれど、今日は小三治さん、あんたが大将!)のようにも感じられた。
扇橋の枕を楽しみにしている俺は複雑な気持ち。
円丈の「ランゴランゴ」も良かったけれど、ナンシロこの辺になってくると客席は湧いても、多くの人は内心「後三人、あと二人」と気もそぞろで新作の雄もやりにくいかもしれない。
浅草演芸ホールの最近などとは比べ物にならないレベルの高い客層だからちゃんと反応すべきところではウケテいたが。
さあ、いよいよ。少し出に間を置いてスラーっと登場。
一呼吸、「え~これといった噺はないんですが~」、ちょっとウケて再び水を打ったように静まる。うるさい冷房も切ったようだ。
小三治の一言、わずかな仕草、表情、全て見逃すものか。
キム・ジョンイルが18ホール中11ホールでホールインワンを取ったという話など大して面白くもないのだが、ゆっくり話して小さな笑いを積み重ねているうちに、趣味の話から釣りなんてそんなに面白いものじゃない、と自分の経験談で笑わせて小三治ワールドが出来ると直ぐに「野ざらし」に入る。
職人・八五郎の長屋の隣に住む隠居の様子がただ事じゃない。
壁に穴を掘って覗くと日頃「婦人は苦手」などと行いすましたことを言ってる癖に16・8・9(質は流れた)の美人とただ事じゃない。
翌日、問い詰めると、隠居が白状するのには
昼間、向島に釣りに行ったら魚は釣れず、葦の中から髑髏を見つけた。
気の毒に思い句を詠み、飲み残しの酒をかけて回向した。
その夜、長屋を訪れて来たのが件の美人、つまり髑髏の生前の姿の幽霊になってお礼に来たというわけだ。
それはいい事を聞いたと八五郎、俺も向島に釣りに行って「骨(こつ)」を見つけて回向してやろう。そうすればあんないい女が来てくれる、と張り切って出かける。
思い込んだらそれまで、もう女が手に入ったような浮かれぶり、鼻歌まじりに、釣竿を振り回し、女との逢瀬を想像して独演する。
さて、そう首尾よく、いい女とめぐり合えはしない、、女の代わりにやって来たのは、、という噺だ。
噺そのものはそう面白いものではない。落ちも分かりにくい。
それにも関わらず爆笑に次ぐ爆笑が弾けるのは噺家の仕方話、八五郎の仕草、浮かれぶり、他の釣り人たちとのやりとり、、などが面白いのだ。
緩急、強弱、精粗、間がよくて、品があって、しかも分かりやすく、馴染みやすい、ケレンミのない自然体の演じ方だ。
笑っているうちにどことなく八五郎の哀れさも感じさせる。
思い込んでしまった者の幸せと哀しみが表裏一体になっている。
談志が落語の重要な要素として「思い込み」を挙げていたような記憶がある。
「粗忽長屋」という噺は「粗忽」がテーマではなく「思い込み・主観」がテーマなのだ、と。
本当は落語世界の住人達ばかりではない。
俺たちも思い込み、主観の虜になって泣いたり怒ったり喜んだりして生きている。
落語は極端な思い込みの主人公を笑いものにすることによってそういう俺たちを慰めてくれる。
これほど俺はひどくないもんね、と。
いや、俺もおんなじだぜ、思いこんじゃうものなあ、ってか。
小三治の自在に創り上げてみせた世界には幽玄すら感じたのだ。
つまり能。
考えてみればこの噺、幽霊との遭遇、回向、成仏というパターンが世阿弥の作品と共通する骨格がある。
能がシテとワキ・ツレ、間狂言が分担して、哀しみを正面から美しく描くのに対し、落語では一人で、悲しみを可笑しさに変え、滑稽とシャレでデフォルメして描く。
方法は違っても人間が夢幻(ゆめまぼろし)の中で主観の虜になって生きているという真実には変わりはない。
写真上は「アベリア」、近所の公園で。芳香。
下は大塚・「岩舟」の蕎麦湯、今日のランチは地鶏セイロ。
11時45分から途中休憩もあるけれど仕舞が「雲雀山」「船橋」「経政」の三つ、狂言「磁石」、能が「満仲(まんぢう)」「夕顔」「大会(おおえ)」の三つを観終わったのが夕方の5時近い。
感想を忘れないうちに書こうと思うが、チョイと疲れているのでもう少し後で。
疲れたといいながら昨夜は新宿末廣亭に行った。
柳家小三治が夜主任、めったに観ることが出来ないから万障繰り合わせて。
末廣亭の二階が一杯になるのもめったにないことだ。
桂才賀、川柳川柳など出演者が皆いつもより熱演だ。
会場の熱気とレベルに熱くなっている。
川柳は小三治より年も芸暦も先輩だが「皆さん、小三治師匠がお目当てでしょう。私は新作だからいいけれど古典やる人はやりずらいだろうなあ」と語る口調はいつもの毒舌ではなく小三治への敬意が溢れていた。
はん治が新作で90歳のヤクザの親分の出入りを語り場内爆笑。
扇橋が中入り前に「道具屋」を例の調子でやって俺は大満足だったが、今日は枕なし、直ぐに噺に入ったのは仲良しの小三治への配慮(きっちり話すけれど、今日は小三治さん、あんたが大将!)のようにも感じられた。
扇橋の枕を楽しみにしている俺は複雑な気持ち。
円丈の「ランゴランゴ」も良かったけれど、ナンシロこの辺になってくると客席は湧いても、多くの人は内心「後三人、あと二人」と気もそぞろで新作の雄もやりにくいかもしれない。
浅草演芸ホールの最近などとは比べ物にならないレベルの高い客層だからちゃんと反応すべきところではウケテいたが。
さあ、いよいよ。少し出に間を置いてスラーっと登場。
一呼吸、「え~これといった噺はないんですが~」、ちょっとウケて再び水を打ったように静まる。うるさい冷房も切ったようだ。
小三治の一言、わずかな仕草、表情、全て見逃すものか。
キム・ジョンイルが18ホール中11ホールでホールインワンを取ったという話など大して面白くもないのだが、ゆっくり話して小さな笑いを積み重ねているうちに、趣味の話から釣りなんてそんなに面白いものじゃない、と自分の経験談で笑わせて小三治ワールドが出来ると直ぐに「野ざらし」に入る。
職人・八五郎の長屋の隣に住む隠居の様子がただ事じゃない。
壁に穴を掘って覗くと日頃「婦人は苦手」などと行いすましたことを言ってる癖に16・8・9(質は流れた)の美人とただ事じゃない。
翌日、問い詰めると、隠居が白状するのには
昼間、向島に釣りに行ったら魚は釣れず、葦の中から髑髏を見つけた。
気の毒に思い句を詠み、飲み残しの酒をかけて回向した。
その夜、長屋を訪れて来たのが件の美人、つまり髑髏の生前の姿の幽霊になってお礼に来たというわけだ。
それはいい事を聞いたと八五郎、俺も向島に釣りに行って「骨(こつ)」を見つけて回向してやろう。そうすればあんないい女が来てくれる、と張り切って出かける。
思い込んだらそれまで、もう女が手に入ったような浮かれぶり、鼻歌まじりに、釣竿を振り回し、女との逢瀬を想像して独演する。
さて、そう首尾よく、いい女とめぐり合えはしない、、女の代わりにやって来たのは、、という噺だ。
噺そのものはそう面白いものではない。落ちも分かりにくい。
それにも関わらず爆笑に次ぐ爆笑が弾けるのは噺家の仕方話、八五郎の仕草、浮かれぶり、他の釣り人たちとのやりとり、、などが面白いのだ。
緩急、強弱、精粗、間がよくて、品があって、しかも分かりやすく、馴染みやすい、ケレンミのない自然体の演じ方だ。
笑っているうちにどことなく八五郎の哀れさも感じさせる。
思い込んでしまった者の幸せと哀しみが表裏一体になっている。
談志が落語の重要な要素として「思い込み」を挙げていたような記憶がある。
「粗忽長屋」という噺は「粗忽」がテーマではなく「思い込み・主観」がテーマなのだ、と。
本当は落語世界の住人達ばかりではない。
俺たちも思い込み、主観の虜になって泣いたり怒ったり喜んだりして生きている。
落語は極端な思い込みの主人公を笑いものにすることによってそういう俺たちを慰めてくれる。
これほど俺はひどくないもんね、と。
いや、俺もおんなじだぜ、思いこんじゃうものなあ、ってか。
小三治の自在に創り上げてみせた世界には幽玄すら感じたのだ。
つまり能。
考えてみればこの噺、幽霊との遭遇、回向、成仏というパターンが世阿弥の作品と共通する骨格がある。
能がシテとワキ・ツレ、間狂言が分担して、哀しみを正面から美しく描くのに対し、落語では一人で、悲しみを可笑しさに変え、滑稽とシャレでデフォルメして描く。
方法は違っても人間が夢幻(ゆめまぼろし)の中で主観の虜になって生きているという真実には変わりはない。
写真上は「アベリア」、近所の公園で。芳香。
下は大塚・「岩舟」の蕎麦湯、今日のランチは地鶏セイロ。
Tracked
from 墓の中からコンニチワ
at 2007-06-27 10:43
タイトル : 遅まきながら
遅まきながら、本当に遅まきながら昨晩「硫黄島からの手紙」を見た。 TSUTAYAのレンタルで、昨晩は先ず日本語版を見たのだが音声がヒドイ。劣化していてまるで聞こえない部分が少なくない。 それでもなんとかストーリーは追えた。 戦後、復員兵だったいろいろな先生たちに散々聞かされた話を、こうして劇映画の形式を通して見ると改めて事の重みを感ずる。 大日本帝国軍部の愚かさだ。 彼我の海軍力、空軍力の比較しようもない違いを知っている海軍、アメリカには500万台の自動車が走っているという事実を知ってい...... more
遅まきながら、本当に遅まきながら昨晩「硫黄島からの手紙」を見た。 TSUTAYAのレンタルで、昨晩は先ず日本語版を見たのだが音声がヒドイ。劣化していてまるで聞こえない部分が少なくない。 それでもなんとかストーリーは追えた。 戦後、復員兵だったいろいろな先生たちに散々聞かされた話を、こうして劇映画の形式を通して見ると改めて事の重みを感ずる。 大日本帝国軍部の愚かさだ。 彼我の海軍力、空軍力の比較しようもない違いを知っている海軍、アメリカには500万台の自動車が走っているという事実を知ってい...... more
Commented
by
高麗山
at 2007-06-26 23:49
x
そちらは常設が幾つもあって良いですね。
新宿.末広亭、上野.鈴本演芸場他にいくつあるんですか? 上方は、昨年出来た、天満天神.繁昌亭のみが常設だと思うんですが。他は吉本系や、松竹系でコミックなども抱き合わせが多いので困りものです。
繁昌亭も、奥様のご意向をお伺いしないと、一人ではなかなか出かけられないのです!!(苦笑い)
新宿.末広亭、上野.鈴本演芸場他にいくつあるんですか? 上方は、昨年出来た、天満天神.繁昌亭のみが常設だと思うんですが。他は吉本系や、松竹系でコミックなども抱き合わせが多いので困りものです。
繁昌亭も、奥様のご意向をお伺いしないと、一人ではなかなか出かけられないのです!!(苦笑い)
0
Commented
by
saheizi-inokori at 2007-06-27 10:12
高麗山さん、常設というとあとは池袋演芸場に浅草演芸ホールです。そのほか国立演芸場が毎月定例で何日かやります。
それ以外に紀伊国屋ホール、朝日ホール、、いろいろ定例的な催しがあってみようと思うといくらでも。。
もっとも明治の頃は上野だけでも何十軒とあったような。
奥様を連れて行く羽目になる噺(ホントは浮気に行きたいのに)もありますね。「悋気の火の玉」だったか。
それ以外に紀伊国屋ホール、朝日ホール、、いろいろ定例的な催しがあってみようと思うといくらでも。。
もっとも明治の頃は上野だけでも何十軒とあったような。
奥様を連れて行く羽目になる噺(ホントは浮気に行きたいのに)もありますね。「悋気の火の玉」だったか。
Commented
by
Count_Basie_Band at 2007-06-27 10:47
「岩舟」、いつ見ても旨そうだな。
やはり遠征してみようかな。
やはり遠征してみようかな。
Commented
by
saheizi-inokori at 2007-06-28 01:46
Count_Basie_Bandさん、どうぞいらっしゃってください。窓からの光景も私は好きです。
Commented
by
Count_Basie_Band at 2007-06-28 09:31
大塚となると「江戸一に寄らねばならない」という義務感に囚われてしまいます。
やはり「江戸一」で挨拶してから「岩舟」に渡るべきでしょうね。
やはり「江戸一」で挨拶してから「岩舟」に渡るべきでしょうね。
Commented
by
knaito57 at 2007-06-28 11:21
この夜の末広亭は充実していたようですね。雰囲気がよくわかります。小三治はすでに風格、扇橋も品格がある。ともに柳句会の仲間というのも楽しい。
Commented
by
saheizi-inokori at 2007-06-28 23:25
knaito57さん、書きませんでしたが昼席の最後には橘右近十三回追善として橘流一門や小金治,内海桂子などの座談会もあったのです。昼席主任は円歌、昭和天皇に一席申し上げた話など面白かったです。
Commented
by
saheizi-inokori at 2007-06-28 23:27
Count_Basie_Bandさん、そうですね。江戸一は長居をするよりさっと切りあげた方が粋かもしれません。お後は岩舟で、蕎麦屋はゆっくりするのが本当でしょう。
Commented
by
naomu-cyo at 2007-08-01 18:29
今更ですが、トラックバックをたどってこちらまで。
「小三治の自在に創り上げてみせた世界には幽玄すら感じたのだ。
つまり能。
考えてみればこの噺、幽霊との遭遇、回向、成仏というパターンが世阿弥の作品と共通する骨格がある」というsaheiziさんの指摘に妙に感心してしまいました。そうか、能か。以前能のことを知りたくてピエブックスの「能」という本を読んだときに、「能とは魂の救済の芸能である」と記されてあったのです。幽玄の世界にいざなわれることで現世の辛さからしばし乖離できるという。「野ざらし」。わたしは妄想狂ぶりがおかしくっておかしくってってところまでで終わってしまいましたが、そういう捉え方もあるのだと改めて気付かされました。
「小三治の自在に創り上げてみせた世界には幽玄すら感じたのだ。
つまり能。
考えてみればこの噺、幽霊との遭遇、回向、成仏というパターンが世阿弥の作品と共通する骨格がある」というsaheiziさんの指摘に妙に感心してしまいました。そうか、能か。以前能のことを知りたくてピエブックスの「能」という本を読んだときに、「能とは魂の救済の芸能である」と記されてあったのです。幽玄の世界にいざなわれることで現世の辛さからしばし乖離できるという。「野ざらし」。わたしは妄想狂ぶりがおかしくっておかしくってってところまでで終わってしまいましたが、そういう捉え方もあるのだと改めて気付かされました。
Commented
by
saheizi-inokori at 2007-08-01 21:18
naomu-cyoさん、妄想=思い込みの世界が幽玄に通じているのかもしれませんね。
by saheizi-inokori
| 2007-06-26 22:09
| 落語・寄席
|
Trackback(1)
|
Comments(10)