木戸幸一は戦争を回避しえたか 鳥居民「昭和二十年」第一部=1から
2007年 06月 12日
前に書いた鳥居民の「昭和二十年」(1)は、面白かった。
1月2日3日と内大臣・木戸幸一のことが書いてある。
彼は元々は休日に書斎に閉じこもるような男ではなく正月の2・3日はゴルフに行くのが恒例だった。
その男が内大臣になって(15年)からこの両日は家にいるようになった。
20年のこの両日、彼はエドワード・グレイの回想録を読んでいた。
第一次大戦前から大戦の半ばまでイギリスの外務大臣を務めた男。
平和を愛し哲学的・繊細でありながら度量の広いグレー卿の人柄もあって近衛など華族の御曹司をはじめ多くの政治家の尊敬を集めていた政治家であったが、その回想録はこの頃もう一度格別の感慨をもって読まれていた。
国務大臣・緒方竹虎、慶応義塾塾長・小泉信三、元駐英大使・吉田茂といった人々である。
グレーは第一次大戦が始まったかを回想して次のように述べていたのだ。
フランス人は心から戦争を恐れ、全力を尽くしてこれを回避しようとした。
ロシアでは決定権をにぎる皇帝や政治指導者が戦争を挑発したことはなかった。
ドイツでは?
ドイツ国民が戦いを熱望していたとは思えない。にもかかわらず開戦は熱狂的に迎えられた。
それはなぜか?
ドイツはビスマルク時代にデンマーク(1864)、オーストリア(1866)、フランス(1870)と戦い、いずれも数ヶ月で片付きドイツの全面的勝利で終わった。
「ドイツには平和の決心に必要な戦争への恐怖や嫌悪感がなかったのである」
日本の彼らはここを読んで深いため息をついたことであろう。
そして木戸はグレーが「戦争勃発後,ときとして夜半にめざめ、それからそれへと仮定を設けて戦争を防ぎえたかを考えることがある」と書いてあるのを読み腕組みをして、眼をつぶったのではないか。
自分は内大臣として5年やってきたけれど、ここまで日本が致命的な状態になる前に何かできただろうかと考えるのだ。
とすれば思いは16年に第三次近衛内閣総辞職の後を受けて東条を首相に奏請したときのことに遡る。
誰しも現在の末期的状況をもたらしたのは東条のせいだと言うが、ではあの時他の人間を首相に選ぶことができただろうか?
しかるべき人間がいただろうか?
まず、近衛にもう一回やらせろ、という声もあったが、近衛は根気もないし投げやりで、そもそもあの時内閣を放り出した後の重臣会議に出席すらしなかった。
では海軍から、海軍大臣をやっていた及川古志郎ならどうだったか。
彼は陸軍における杉山元と同じで全て幕僚任せ、軍令部総長として比島沖海戦で負けるなど艦隊全滅の現状を招いた。
何よりも問題とすべきは三国同盟を結ぶ時の会議に海軍を代表して出席していながら、日本海軍は対米戦に成算無しと明言しなかった。
近衛私邸における集まりで、夜に日をついで行きつ戻りつした議論がある中で、及川はあいまいな態度を取り続けた。
木戸は思う。及川だけではなかったと
当時輿望もあった陸軍大将は本人もやる気満々であった。
しかし彼は陸軍が良しとしなかった。
かつて未発に終わったクーデター(6年)の関係者であったことと政財界の既成勢力の支持を受けた体制擁護者と見られていた。
12年の広田内閣総辞職の後に大命降下を目前にして陸軍から辞退しろという意向が伝えられた時にも敢然とそれを蹴って結局首相にはなれなかった前歴がある。
木戸はそういったことも宇垣首相の実現には障害となるだろうし、たとえそれを克服してなったとしても陸軍の協力がなければないも出来はしなかっただろうと思う。
第一木戸は宇垣の人間そのものを見かけ倒しの男に過ぎないと観ていた。
あの時、近衛と東条は東久邇宮を推したのであった。
それをつぶしたのは木戸である。
その理由を公には「皇族内閣となって、万が一、決定が開戦ということになり、戦いが失敗に終わった場合、皇室が国民の怨府となる恐れがある」と述べた。
しかし、本当の理由は東久邇宮の性格と振る舞いに危惧を抱いたからであった。
今はアメリカとの戦争に反対していても、状況次第では背後にいる連中の主張に組してしまうのではないか。
実は8年、未発の段階で摘発されたクーデター計画・神兵隊事件の首謀者たちの計画は東久邇宮を臨時非常内閣首班とするものだったことを木戸は職掌上知っていたのだ。
宮自身がどこまで首謀者たちと関わっていたかは定かではないものの、まったく無関係であったとも思えない。
木戸の回想はまだ続く。
俺は高等講談みたいに面白いこの本を読みながら、ここに書かれたことは今また同じような経過をたどっているような気がした。
本来その職にある人間が保身をこととし大勢に迎合して、きちんと真実を述べなくなってしまう。
政治家や官僚、大企業の幹部、マスコミ、、。
そしてなによりも人材がいない。
写真下は「ミッキーマウスの木」。
1月2日3日と内大臣・木戸幸一のことが書いてある。
彼は元々は休日に書斎に閉じこもるような男ではなく正月の2・3日はゴルフに行くのが恒例だった。
その男が内大臣になって(15年)からこの両日は家にいるようになった。
20年のこの両日、彼はエドワード・グレイの回想録を読んでいた。
第一次大戦前から大戦の半ばまでイギリスの外務大臣を務めた男。
平和を愛し哲学的・繊細でありながら度量の広いグレー卿の人柄もあって近衛など華族の御曹司をはじめ多くの政治家の尊敬を集めていた政治家であったが、その回想録はこの頃もう一度格別の感慨をもって読まれていた。
国務大臣・緒方竹虎、慶応義塾塾長・小泉信三、元駐英大使・吉田茂といった人々である。
グレーは第一次大戦が始まったかを回想して次のように述べていたのだ。
フランス人は心から戦争を恐れ、全力を尽くしてこれを回避しようとした。
ロシアでは決定権をにぎる皇帝や政治指導者が戦争を挑発したことはなかった。
ドイツでは?
ドイツ国民が戦いを熱望していたとは思えない。にもかかわらず開戦は熱狂的に迎えられた。
それはなぜか?
ドイツはビスマルク時代にデンマーク(1864)、オーストリア(1866)、フランス(1870)と戦い、いずれも数ヶ月で片付きドイツの全面的勝利で終わった。
「ドイツには平和の決心に必要な戦争への恐怖や嫌悪感がなかったのである」
日本の彼らはここを読んで深いため息をついたことであろう。
そして木戸はグレーが「戦争勃発後,ときとして夜半にめざめ、それからそれへと仮定を設けて戦争を防ぎえたかを考えることがある」と書いてあるのを読み腕組みをして、眼をつぶったのではないか。
自分は内大臣として5年やってきたけれど、ここまで日本が致命的な状態になる前に何かできただろうかと考えるのだ。
とすれば思いは16年に第三次近衛内閣総辞職の後を受けて東条を首相に奏請したときのことに遡る。
誰しも現在の末期的状況をもたらしたのは東条のせいだと言うが、ではあの時他の人間を首相に選ぶことができただろうか?
しかるべき人間がいただろうか?
まず、近衛にもう一回やらせろ、という声もあったが、近衛は根気もないし投げやりで、そもそもあの時内閣を放り出した後の重臣会議に出席すらしなかった。
では海軍から、海軍大臣をやっていた及川古志郎ならどうだったか。
彼は陸軍における杉山元と同じで全て幕僚任せ、軍令部総長として比島沖海戦で負けるなど艦隊全滅の現状を招いた。
何よりも問題とすべきは三国同盟を結ぶ時の会議に海軍を代表して出席していながら、日本海軍は対米戦に成算無しと明言しなかった。
近衛私邸における集まりで、夜に日をついで行きつ戻りつした議論がある中で、及川はあいまいな態度を取り続けた。
木戸は思う。及川だけではなかったと
海軍上層部の誰であれ、海軍をしっかりと抑え、陸軍と国民の大勢に面と立ち向かい、戦いに自信なし、戦いを回避しなければならぬと説くことのできる者はいなかった。宇垣一成ではどうだったか?
当時輿望もあった陸軍大将は本人もやる気満々であった。
しかし彼は陸軍が良しとしなかった。
かつて未発に終わったクーデター(6年)の関係者であったことと政財界の既成勢力の支持を受けた体制擁護者と見られていた。
12年の広田内閣総辞職の後に大命降下を目前にして陸軍から辞退しろという意向が伝えられた時にも敢然とそれを蹴って結局首相にはなれなかった前歴がある。
木戸はそういったことも宇垣首相の実現には障害となるだろうし、たとえそれを克服してなったとしても陸軍の協力がなければないも出来はしなかっただろうと思う。
第一木戸は宇垣の人間そのものを見かけ倒しの男に過ぎないと観ていた。
あの時、近衛と東条は東久邇宮を推したのであった。
それをつぶしたのは木戸である。
その理由を公には「皇族内閣となって、万が一、決定が開戦ということになり、戦いが失敗に終わった場合、皇室が国民の怨府となる恐れがある」と述べた。
しかし、本当の理由は東久邇宮の性格と振る舞いに危惧を抱いたからであった。
今はアメリカとの戦争に反対していても、状況次第では背後にいる連中の主張に組してしまうのではないか。
実は8年、未発の段階で摘発されたクーデター計画・神兵隊事件の首謀者たちの計画は東久邇宮を臨時非常内閣首班とするものだったことを木戸は職掌上知っていたのだ。
宮自身がどこまで首謀者たちと関わっていたかは定かではないものの、まったく無関係であったとも思えない。
木戸の回想はまだ続く。
俺は高等講談みたいに面白いこの本を読みながら、ここに書かれたことは今また同じような経過をたどっているような気がした。
本来その職にある人間が保身をこととし大勢に迎合して、きちんと真実を述べなくなってしまう。
政治家や官僚、大企業の幹部、マスコミ、、。
そしてなによりも人材がいない。
写真下は「ミッキーマウスの木」。
Tracked
from 平太郎独白録 親愛なるア..
at 2007-06-14 09:58
タイトル : 兵と卒との違いに知る因果応報の軍人・宇垣一成の実像
親愛なるアッティクスへ 宇垣 一成(うがき かずしげ)という人物をご存じでしょうか? 慶応4年(1868年)、備前国磐梨郡潟瀬村(現・岡山市瀬戸町)にて、農家の5人兄弟の末子として誕生、その後、陸軍士官学校(1期)卒業、陸軍大学校(14期恩賜)卒業し、何度も総理大臣候補に推された人物・・・という経歴からは、頭がカミソリのように切れて、血も涙もないようなエリート軍人・・・だというふうに想像しがちですが、実際には、若い頃は決して、出世が早いほうではなく、「鈍垣」などとあだ名されるほどであったとか。...... more
親愛なるアッティクスへ 宇垣 一成(うがき かずしげ)という人物をご存じでしょうか? 慶応4年(1868年)、備前国磐梨郡潟瀬村(現・岡山市瀬戸町)にて、農家の5人兄弟の末子として誕生、その後、陸軍士官学校(1期)卒業、陸軍大学校(14期恩賜)卒業し、何度も総理大臣候補に推された人物・・・という経歴からは、頭がカミソリのように切れて、血も涙もないようなエリート軍人・・・だというふうに想像しがちですが、実際には、若い頃は決して、出世が早いほうではなく、「鈍垣」などとあだ名されるほどであったとか。...... more
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antsuan at 2007-06-13 05:57
木戸幸一は宮中政治を操り自らの保身のため、近衛文麿の戦争回避の工作を上申せず、開戦の責任のすべてを押し付け自殺させたと、谷沢永一は鳥居氏の『近衛文麿「黙」して死す』からの考察として述べています。文官も「幕僚統帥」に心酔していたと云う事でしょうか。指導者を育てるのにはどうしたら良いのでしょう。
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saheizi-inokori at 2007-06-13 09:38
先日の広瀬中佐がらみですけど・・・海軍の父といわれている山本権兵衛が青年海軍士官に“Fleet in Being” (艦隊の存在)を説明した時の話です。「戦争をするには、平たく言ってまず金が要る。 それから何万もの同胞を死なせる決意が要る。 軍人、政治家、実業人、学者から町の職人や百姓までが心を一つにしてはじめて国が護れるのだし、国を興すことが出来るのだ。兵はもともと凶器である。 用い方を誤れば己の上にも必ず災害をもたらす。 孫子にもある通り、戦わずして相手を屈服させるのが上の上たる策で、自己の功名心を忠義の美名でよそおって、みだりに戦を好むようなことがあってはならんぞ。 戦うときには無論非常の勇気を持ってことに当たらねばならぬが、戦わずして勝つ海軍、存在すること自体が強力な意味を持っている艦隊、それが Fleet in Beeing の思想だ。」ちなみに、先日父の会社の書庫から朝日新聞社の昭和史全記録というのが出てきて戦後近衛文麿が服毒自殺した後のGHQの検視中の遺体の写真見てしまいました^^;
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saheizi-inokori at 2007-06-13 23:29
rokoさん、やはり明治の軍人はちょいとばかり違っていましたね。
自分たちが国を創るんだと言う気持ちが強い。
自分たちが国を創るんだと言う気持ちが強い。
by saheizi-inokori
| 2007-06-12 22:51
| 今週の1冊、又は2・3冊
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