芥川賞より面白い談志発言 「粗忽長屋」は「主観長屋」 「 文藝春秋 9月号」
2005年 08月 19日
毎年芥川賞の掲載される文藝春秋だけは買う。年中行事みたいなもんだ。そしてこのところ、その芥川賞よりもそこに載っているほかの記事に面白いものを見つける。本代を損したとは思わないですむ。去年だったかは嵐山光三郎のグルメ番組を冷やかしたような一文が抱腹ものだった。
今年は立川談志と宮藤官九郎の「落語ブームなんて知らねえ」という対談だ。落語をテーマにしたTV番組があたるなど、元気一杯のクドカン相手に談志節が痛快に炸裂する。当今の落語ブームなんて50年代の頃から見たらブームでもなんでもない。大体噺家のレベルもメチャクチャ低いし、そういう噺のことも分からずに、噺家が出てくるだけでワーッと喜んでいる観客。
「寄席なんかで聴いたって、どうにもならないよ。(中略)俺が寄席にいたら、やめろおーって怒鳴ってやるよ」落語リアリズムの限界の先に”イリュージョン”ということを考えた談志。それは4次元、フロイトの精神分析で言うところのエス、超自我なんだと。
「本来の寄席とは、世間で言うところの非常識を”いいじゃないか”といえる空間なんだ。」
「人間は分からないところの方が多くて困るから常識を作っただけのことなんだ。常識で捉えられるものなんてごく一部でしかない。」「粗忽長屋」は、「主観長屋」にしてしまう。テーマを”粗忽”ではなく”主観”にしてしまう。思い込みの凄さ。結局世の中、主観じゃないのかって。落語家という存在は自分の業をさらしてやっているのだとも。そういう談志から見ると今の落語ブームは”悪貨が良貨を駆逐しているように”見えるのだそうだ。
「(でたらめじゃないある種の”感覚”をもって)伝統を追いかけるだけの情熱を持っている奴にだけ、その芸をやる資格がある。」
by saheizi-inokori
| 2005-08-19 10:24
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
Trackback
|
Comments(0)