苦しみが安らぎに変わる不思議 柳澤桂子「安らぎの生命科学」(早川書房)
2007年 02月 10日
生と死の間をさまよい人生の目標を失うという苦しみの中で彼女は”健康なときと質の違った安らぎの体験を次々と経験した”という。
まず、訪れたのが絶望の中での至福体験。
朝の光が指し初め、障子が白く浮き上がったとたんに私の心の中に一瞬火が燃え上がった。激しいめまいとともに悲しみはあとかたもなく吹き飛ばされていた。目の前に赤々と輝く一本の道が見え、私は言葉にあらわすことのできない満ち足りた気持ちに包まれた。一転、希望と幸せの絶頂に立ったのである。やがて彼女は宇宙の鼓動を感じるようになり、宇宙のリズムにあわせて、自然の中に自分を浮遊させるときに苦痛が安らぐことを知る。
病気が悪化する一方だったが残された力で何かをしたいと願い文章を書くようになった。
世の中の役に立つようにとの思いから始めたのだが次第に書くことそのものの中に喜びを見出す。
そのようにして書かれた多くの本のひとつがこれだ。
40編近くのエッセイ集。
生命の誕生(我々の細胞の中には40億年前の海の水が入っている)、遺伝子、死とは何か、永遠に生き続けるもの、宇宙のリズム、、、。
先に書いた至福体験についての科学的考察(脳内麻薬物質がどういう状態で放出されるか)もなされる。
昼間学習したことは、眠っている間に脳内の細胞に定着するようだ(寝る間も惜しんで勉強することの間違い!)。
彼女は言う。
細胞という空間的な存在に、なぜ記憶という時間のファクターをもったものが定着するのであろうか。しかもそれが眠りと深くかかわっているというのであるから、「私」というものの神秘に感嘆せざるを得ない。自分自身についてどれほどのことも知らないで、私たちは今日も生きているのである。忘れることによってこそ、頭の中が整理され、必要な記憶が取り出せるようになる。
忘却の能力に感謝だ。
もっとも俺は忘れる一方、新たな記憶が増えることはないのがチイト哀しいけれど。
科学研究を効率至上主義で行う風潮には危ない罠がある。
効率至上主義は、科学技術至上主義と結びついて、科学の発達をゆがめてしまう。人間を傲慢にし、環境や生命までも意のままに支配しようとする。
科学は人間の精神の芸術的産物である。
分かりやすい、興味深い話を愉しんだ。
同時に”こうして生きている奇跡・不思議”を思い”感謝すること”、そして”謙虚であること”がどんなに大事なのか、それなのに俺は何と傲慢な生き方をしているかと反省した。
本の写真は昨日アップしました。上の写真は夕べ近所で見た枝垂れ梅。
素晴らしい表現ですね。
>科学研究を効率至上主義で行う風潮には危ない罠がある。
学者をやっている友人によると、この風潮が強いようですね。
一つの価値観のみに、国の科学技術行政が寄って立つのは、かなり危険ですよね。
前例は幾らでもありますし…。
saheiziさんが引いてくださった文も奥が深く、いろいろ考えさせられそうです。
あの難病に襲われなかったらまた別の研究がなされていたのですが、彼女には酷であったけれども、今こんな形の本で教えられてありがたいです。
枝垂れ梅と椿いいですね。
そうそう前回のいろいろな機会には笑ってしまいました。
あの方のことを知ると、人生というか、人間のすごさと同時に、神のような救いは自らの心の中に宿っているのだと感じました・・うまくいえませんが。
機械・・・会社人間として、機械になってあげられたらどんなにいいだろうと思ったことがあります。でも、機械にはなれない。フリッツ・ラングの映画「メトロポリス」・・を思い出していました。
書道の練習にと写経をしていますが、意味を深く考えることなく書いていました。この本に出合ってから、一字一字その意味を想いながら書くようになりました。
最近書いてないですけれど・・・・。
「安らぎの生命科学」これも読んでみたいです。
白梅きれいです^^
相変わらずそちらに送信できないのが残念です。
感謝しているのと不満を言ってるのとでは同じ状況に対してもまるで違ってしまいますね。貧しい人が金持ちより幸せ(に感じている)のは同じことに対する感謝の気持ちがあるからでしょうね。
一生に一度でいいから食べてみたいごちそうも毎日ではね。