栗林中将を支えたものは何だったのか? 留守晴夫「常に諸子の先頭に在り」(3)
2006年 12月 17日
第一次大戦で日本がマリアナ、カロリン、マーシャル諸島を委任統治領として獲得する。
これはアメリカ海軍の本拠地たるハワイと前進基地のフイリピン、グアムのルートを扼する位置にあった。
アメリカは将来の太平洋における日米戦争を予期し「水陸両用作戦」などの研究・開発に余念がなかった。
一方の日本は開戦後、二年もたってから初めて対ソ戦主体の教育方針を転換して対米戦教育に踏み切る。教育用の図面すらちゃんとしたものがなかったと、ちょっと信じられない事が山本七平の言葉として引かれている。
アメリカの物量・資源・経済力に負けたというのも全くの嘘ではないが、事前の準備においても完璧に勝負あった!のだ。
最小限の損害で最大の打撃を与え、最短の時間で最大の目的を達する「唯一可能な方法」、それを徹底的に追究する合理精神が、豊富な資源を強力な平気や膨大な物資にかえたのだ。
その意味ではアメリカの戦争を「相手国の国民にとって地獄そのものとして思い知らせることによってのみ終結させることが出来る」という考え方は、東京大空襲、原爆投下、戦後は湾岸戦争やイラク戦争に見られるハイテク兵器の活用まで一貫している。
栗林中将は元々合理精神の持ち主であった上に若い頃アメリカ・カナダに駐在していたからアメリカと戦争をして勝てるはずがないことを熟知していた。
そのような将軍がいかなる所以をもってか敗戦必死の土壇場で本土の最後の砦とも言うべき硫黄島の守備に当たらせられたことは皮肉というべきかもしれない。
彼にとっての悲劇はアメリカにとっても予想をはるかに上回る悲劇だった。
「栗林のような将軍がこれ以上いたらとても堪らない」と敵将スミスに言わしめた。
およそ重要な判断を下す際に客観的な事実をもってせず主観的な「果敢なる独往邁進主義」をよしとする伝統が陸軍ひいては我々の民族的欠陥だ。
知を用いないばかりか「知っている者」を遠ざけた。それが少しは存在した知米派などの能力を発揮させることがなかった理由だ。
アメリカにも官僚はいたが壮絶な内部の議論を経てスミスなどの意見は取り入れられたのとは違う。
大本営は司令部を後方の小笠原島に置く意向であり現に前任者はそうしていた。
栗林は守りの急所である硫黄島に行くことを当然として(それは死ぬことを意味したが)島では自ら現地に赴き壕の造り方の細部まで指揮する。
中間幹部がもっとも嫌がる行為だ。
俺もよく言われた(ここから俺の感想だ)。
「もう少し細かいところは部長たちに任せたら如何ですか」。
「細部こそ一番大切なところだ。お客様は”方針”や”基本”を買いにいらしてるんじゃない。!」(任せられるものなら任せたい、というのが本音)言い返したものだ。
最後は玉砕するんだからそんなに無理して(水のない灼熱地獄の中でツルハシや鍬で深さ十メートル以上、全長十八キロ半に及ぶ連絡地下壕を掘った!)壕を造らなくてもいいじゃないか、そういう指揮官たちを敵にして出来るだけの準備を、それは兵に苦しみを強いるものであることを十分に承知していながらのことだが、進める中将の孤独と時に襲う無力感!絶望すら覚えたのではないだろうか?
今の俺より若い中将がよくその絶望感や無力感に負けずに最後まで兵を統率(ほぼ完璧なまでに)しえてアメリカに恐怖・損害を与え今に至るまで「敵ながら天晴れ」との称賛を得た所以はなんだったのか?
今これを読んで若い人、いや俺と同じ位のものでも、はどう感じられるだろう。
戦前の軍国主義教育の影響を受けて育ちエリートとなった軍人の格好をつけた建前と受け止める人もいるのではなかろうか?
俺はそう思わない。
この平和な世の中でも保身と事なかれ主義の跋扈跳梁する中で何かをやり遂げようとしたら普通の覚悟では出来ないことを拙い経験ながら知っているからだ。
まして神ならぬ(俺の高校の先輩だぜ)栗林があれだけのことを見事にやりぬいたのは彼の資質も寄与するところ大ではあるが、なんといっても死地において彼を支え続け敢闘させ続けた”志”がなければならない。
どうにも逃げられないと決まれば死ぬ覚悟は匹夫にも可能だ。
しかし、自ら死地に飛び込み死ぬ以上の難事を成し遂げるのに”志”の存在は必須だ。
その”志”は付け焼刃のものでは駄目だ。
「大命」、「”祖先”の名」、「少年時代より日常茶飯の折お話があった」。
この三つがキーワードだ。
少なくとも栗林はこの三つを信じてあれだけのことをし遂げたのである。
これらのどれが欠けても栗林の最後は違ったものとなったろう。
幕末に蘭学を学び蛮社の獄に連座し、蟄居を命じられた渡辺崋山は藩主に迷惑が及ぶことを恐れ腹を切る。咽を突きうつ伏せになっている崋山を見た母は「武士が女のように咽を突いて死ぬことがあるものか」と口惜しがったが、抱き起こしてみると腹をも切ってあったから、それでこそ我が子と悲嘆の中にも喜んだという(本書から)。
「祖先の名」、これは現今流行のセレブの家柄自慢(家のお父さん何とか会社の社長だもん)とは似て非なる考え方だ。自分の祖先がいかなる社会的な使命を果たしてきたかを自覚してそれに恥じない生き方をするということだ。
誇りはあってもそれは己が与えられた使命の崇高さに対する誇りであって、無内容にイバル態度とは無縁のものだ。
俺は学生時代キリスト教を日々学び信仰する人たちの寮にいた。
左翼の周りをうろついた後のことだ。
しかるにいまだに入信していない。
「神」が信じられなくても何か自分の存在を見ていて”許して”くれる”根本的な批判をしてくれる”存在がなくては俺は生きてきた使命を果たせないのではないかと思った。
志賀直哉の「小僧の神様」ではないが「俺の神様」が欲しかった。
「神も仏も天皇陛下も祖先も」俺にとっては命をかける存在ではない。
「お客様第一」「現場第一」ということを”志”として社会人生活を送ってきた(もとより不十分ではあるが)。
サラリーマン社会で首をかけるくらいの役にはたったが、命まではかける気持ちになれない。
唯一「出世することより大事な事がある」との「日常茶飯のお話」に感謝するのみ。
考えようによっては栗林先輩!あなたは幸せな人だったぜィ。
写真上は中将の両親。
中はNHKテレビ、鳥取県の日南中学吹奏楽団、県大会金賞3連覇の夢破れて失意、ジャズクラリネット奏者・北村英治が指導に来て、「コンクールに勝つことがすべてじゃない。みんなで心を合わせて楽しい演奏をすることだ」と自作のボサノバを教える。
旨く出来てうれしい”はなこ”、「勉強するよりご飯食べるよりドラム叩いていたい」という父子家庭の子。彼女の”日常茶飯のお話”は父とおばあちゃんと元ジャズマンのオジサン。いい子に育てよ。
下は沖縄・残波岬灯台。
これはアメリカ海軍の本拠地たるハワイと前進基地のフイリピン、グアムのルートを扼する位置にあった。
アメリカは将来の太平洋における日米戦争を予期し「水陸両用作戦」などの研究・開発に余念がなかった。
一方の日本は開戦後、二年もたってから初めて対ソ戦主体の教育方針を転換して対米戦教育に踏み切る。教育用の図面すらちゃんとしたものがなかったと、ちょっと信じられない事が山本七平の言葉として引かれている。
アメリカの物量・資源・経済力に負けたというのも全くの嘘ではないが、事前の準備においても完璧に勝負あった!のだ。
最小限の損害で最大の打撃を与え、最短の時間で最大の目的を達する「唯一可能な方法」、それを徹底的に追究する合理精神が、豊富な資源を強力な平気や膨大な物資にかえたのだ。
その意味ではアメリカの戦争を「相手国の国民にとって地獄そのものとして思い知らせることによってのみ終結させることが出来る」という考え方は、東京大空襲、原爆投下、戦後は湾岸戦争やイラク戦争に見られるハイテク兵器の活用まで一貫している。
栗林中将は元々合理精神の持ち主であった上に若い頃アメリカ・カナダに駐在していたからアメリカと戦争をして勝てるはずがないことを熟知していた。
そのような将軍がいかなる所以をもってか敗戦必死の土壇場で本土の最後の砦とも言うべき硫黄島の守備に当たらせられたことは皮肉というべきかもしれない。
彼にとっての悲劇はアメリカにとっても予想をはるかに上回る悲劇だった。
「栗林のような将軍がこれ以上いたらとても堪らない」と敵将スミスに言わしめた。
およそ重要な判断を下す際に客観的な事実をもってせず主観的な「果敢なる独往邁進主義」をよしとする伝統が陸軍ひいては我々の民族的欠陥だ。
知を用いないばかりか「知っている者」を遠ざけた。それが少しは存在した知米派などの能力を発揮させることがなかった理由だ。
アメリカにも官僚はいたが壮絶な内部の議論を経てスミスなどの意見は取り入れられたのとは違う。
僕がいくらいっても(戦争計画者たちは)一向お分かりにならない。この戦争はどんな慾目で見ても勝目はない。しかし、我々は力のあるかぎり戦はなくてはならない。血の一滴まで戦はなくてはならない。栗林の戦いはアメリカに対してのものだけではなかった。陸軍内部の”一向お分かりにならない”戦争計画者、陸軍と海軍の対立、それらの影響下にある幕僚などの部下将官たち。彼らが先ず大きな敵となって彼のやろうとすることを妨害ないしはサボタージュする。
大本営は司令部を後方の小笠原島に置く意向であり現に前任者はそうしていた。
栗林は守りの急所である硫黄島に行くことを当然として(それは死ぬことを意味したが)島では自ら現地に赴き壕の造り方の細部まで指揮する。
中間幹部がもっとも嫌がる行為だ。
俺もよく言われた(ここから俺の感想だ)。
「もう少し細かいところは部長たちに任せたら如何ですか」。
「細部こそ一番大切なところだ。お客様は”方針”や”基本”を買いにいらしてるんじゃない。!」(任せられるものなら任せたい、というのが本音)言い返したものだ。
最後は玉砕するんだからそんなに無理して(水のない灼熱地獄の中でツルハシや鍬で深さ十メートル以上、全長十八キロ半に及ぶ連絡地下壕を掘った!)壕を造らなくてもいいじゃないか、そういう指揮官たちを敵にして出来るだけの準備を、それは兵に苦しみを強いるものであることを十分に承知していながらのことだが、進める中将の孤独と時に襲う無力感!絶望すら覚えたのではないだろうか?
今の俺より若い中将がよくその絶望感や無力感に負けずに最後まで兵を統率(ほぼ完璧なまでに)しえてアメリカに恐怖・損害を与え今に至るまで「敵ながら天晴れ」との称賛を得た所以はなんだったのか?
大命を拝受して着任した以上、敵の來攻に際しては部下将兵とともに國難に殉ずる道は元より私の豫期するところであり、特に祖先の名に恥じないやう努力すべく、一家一門を犠牲にして戦場に屍を横たへること武人の本懐です。これは少年時代より日常茶飯の折お話のあったところ深く肝に銘じてをりますれば、ご安心願ひ上げます。硫黄島から長兄に送った手紙だ。
今これを読んで若い人、いや俺と同じ位のものでも、はどう感じられるだろう。
戦前の軍国主義教育の影響を受けて育ちエリートとなった軍人の格好をつけた建前と受け止める人もいるのではなかろうか?
俺はそう思わない。
この平和な世の中でも保身と事なかれ主義の跋扈跳梁する中で何かをやり遂げようとしたら普通の覚悟では出来ないことを拙い経験ながら知っているからだ。
まして神ならぬ(俺の高校の先輩だぜ)栗林があれだけのことを見事にやりぬいたのは彼の資質も寄与するところ大ではあるが、なんといっても死地において彼を支え続け敢闘させ続けた”志”がなければならない。
どうにも逃げられないと決まれば死ぬ覚悟は匹夫にも可能だ。
しかし、自ら死地に飛び込み死ぬ以上の難事を成し遂げるのに”志”の存在は必須だ。
その”志”は付け焼刃のものでは駄目だ。
「大命」、「”祖先”の名」、「少年時代より日常茶飯の折お話があった」。
この三つがキーワードだ。
少なくとも栗林はこの三つを信じてあれだけのことをし遂げたのである。
これらのどれが欠けても栗林の最後は違ったものとなったろう。
幕末に蘭学を学び蛮社の獄に連座し、蟄居を命じられた渡辺崋山は藩主に迷惑が及ぶことを恐れ腹を切る。咽を突きうつ伏せになっている崋山を見た母は「武士が女のように咽を突いて死ぬことがあるものか」と口惜しがったが、抱き起こしてみると腹をも切ってあったから、それでこそ我が子と悲嘆の中にも喜んだという(本書から)。
「祖先の名」、これは現今流行のセレブの家柄自慢(家のお父さん何とか会社の社長だもん)とは似て非なる考え方だ。自分の祖先がいかなる社会的な使命を果たしてきたかを自覚してそれに恥じない生き方をするということだ。
誇りはあってもそれは己が与えられた使命の崇高さに対する誇りであって、無内容にイバル態度とは無縁のものだ。
俺は学生時代キリスト教を日々学び信仰する人たちの寮にいた。
左翼の周りをうろついた後のことだ。
しかるにいまだに入信していない。
「神」が信じられなくても何か自分の存在を見ていて”許して”くれる”根本的な批判をしてくれる”存在がなくては俺は生きてきた使命を果たせないのではないかと思った。
志賀直哉の「小僧の神様」ではないが「俺の神様」が欲しかった。
「神も仏も天皇陛下も祖先も」俺にとっては命をかける存在ではない。
「お客様第一」「現場第一」ということを”志”として社会人生活を送ってきた(もとより不十分ではあるが)。
サラリーマン社会で首をかけるくらいの役にはたったが、命まではかける気持ちになれない。
唯一「出世することより大事な事がある」との「日常茶飯のお話」に感謝するのみ。
考えようによっては栗林先輩!あなたは幸せな人だったぜィ。
写真上は中将の両親。
中はNHKテレビ、鳥取県の日南中学吹奏楽団、県大会金賞3連覇の夢破れて失意、ジャズクラリネット奏者・北村英治が指導に来て、「コンクールに勝つことがすべてじゃない。みんなで心を合わせて楽しい演奏をすることだ」と自作のボサノバを教える。
旨く出来てうれしい”はなこ”、「勉強するよりご飯食べるよりドラム叩いていたい」という父子家庭の子。彼女の”日常茶飯のお話”は父とおばあちゃんと元ジャズマンのオジサン。いい子に育てよ。
下は沖縄・残波岬灯台。
Tracked
from 志賀直哉
at 2006-12-22 19:50
saheiziさん、こんばんは★
「電気ブラン」は、岐阜の明治村でお土産で東郷ビールと一緒に購入してちびちび飲んでいました~♪アルコール度数40度ですので水割りです。香りが好きです~。
祖父が、横須賀で「回天」を作っていたそうです、毎朝・・・皇居の方向に「皇居遥拝(ようはい)」と言って参拝みたいなものをさせられていたそうです。そして・・・「戦闘訓」は、全員暗記させられていたそうです(;へ:)
>風向きが変わればいくらでもそれに対応して恥じるも何も問題意識すら持たない。
日本人は長い間「諂う」文化でしたので(笑)ある意味では「卑屈」文化でもありますね~(苦笑)
でも、「苛め」も同じですが悪い事は悪いと毅然と言いたいですね~。
「忠君愛国」精神を植えつけられて・・・・純粋に亡くなられた方々を忘れてはいけないと思い、拙BLOGで戦記物を取り上げていますが特攻を美化している人と誤解されたり・・・(苦笑)しかし、出来るだけ多くの書籍や人物をご紹介して行きたいと今回のsaheiziさんの記事を読んで気持ちも新たになりました(少し、大袈裟ですね(笑)
ありがとうごさいました♪でも、お酒はホドホドにして下さいね。
「電気ブラン」は、岐阜の明治村でお土産で東郷ビールと一緒に購入してちびちび飲んでいました~♪アルコール度数40度ですので水割りです。香りが好きです~。
祖父が、横須賀で「回天」を作っていたそうです、毎朝・・・皇居の方向に「皇居遥拝(ようはい)」と言って参拝みたいなものをさせられていたそうです。そして・・・「戦闘訓」は、全員暗記させられていたそうです(;へ:)
>風向きが変わればいくらでもそれに対応して恥じるも何も問題意識すら持たない。
日本人は長い間「諂う」文化でしたので(笑)ある意味では「卑屈」文化でもありますね~(苦笑)
でも、「苛め」も同じですが悪い事は悪いと毅然と言いたいですね~。
「忠君愛国」精神を植えつけられて・・・・純粋に亡くなられた方々を忘れてはいけないと思い、拙BLOGで戦記物を取り上げていますが特攻を美化している人と誤解されたり・・・(苦笑)しかし、出来るだけ多くの書籍や人物をご紹介して行きたいと今回のsaheiziさんの記事を読んで気持ちも新たになりました(少し、大袈裟ですね(笑)
ありがとうごさいました♪でも、お酒はホドホドにして下さいね。
0
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saheizi-inokori at 2006-12-17 23:07
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by
roko
at 2006-12-17 23:50
x
お疲れの所、レスありがとうございます。
ご子息のご家族との素敵な団欒・・・楽しいひと時だったのでしょうね♪
>あなたの”軍国主義”は私も好きです。
>人の生き方を問うものですから。
恐れ入ります・・・・今の私にはとても勇気を頂けるお言葉です(笑)
実は、数日前から大切な祖母が入院していよいよ危篤状態になってしまいました(;へ:)
札幌から高速で1Hの距離なのですが・・・暫らくBLOG休止になると思います。
年末に向けてお仲間と楽しいひと時でつい♪(笑)電気ブランみたいな度数の高いお酒はお控えあそばせ・・・・(私も、しつこいですね(笑)
いずれにせよ saheiziさんと出会えたことはとても勉強になっています。
お休みなさいませ♪
ご子息のご家族との素敵な団欒・・・楽しいひと時だったのでしょうね♪
>あなたの”軍国主義”は私も好きです。
>人の生き方を問うものですから。
恐れ入ります・・・・今の私にはとても勇気を頂けるお言葉です(笑)
実は、数日前から大切な祖母が入院していよいよ危篤状態になってしまいました(;へ:)
札幌から高速で1Hの距離なのですが・・・暫らくBLOG休止になると思います。
年末に向けてお仲間と楽しいひと時でつい♪(笑)電気ブランみたいな度数の高いお酒はお控えあそばせ・・・・(私も、しつこいですね(笑)
いずれにせよ saheiziさんと出会えたことはとても勉強になっています。
お休みなさいませ♪
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by
saheizi-inokori at 2006-12-18 11:47
rokoさん、大変ですね。もちなおすことを祈ります。
by saheizi-inokori
| 2006-12-17 17:17
| 今週の1冊、又は2・3冊
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