人間とは?ひたひたと押し寄せる感動 カズオ・イシグロ 「わたしを離さないで」(早川書房)

何たる抑制!号泣し、怒鳴り、ののしり、わめき、そして果てしない涙に打ち沈む。涙がかれてもマダ嘆く。そういう状況だと思う。それなのに主人公は
空想はそれ以上進みませんでした。わたしが進むことを禁じました。顔には涙が流れていましたが、わたしは自制し、泣きじゃくりはしませんでした。しばらく待って車に戻り、エンジンをかけて、行くべきところへ向かって出発しました。
というのみ。

人間とは?ひたひたと押し寄せる感動 カズオ・イシグロ 「わたしを離さないで」(早川書房)_e0016828_23111130.jpg
「日の名残り」で記憶に残ったひと。どちらも土屋政雄の訳だが表題が作品の持ち味をうまく伝えている。原題は「The Remains of the Day 」と「Never Let Me Go」。静謐・澄明な文章で切々と哀しみに満ちた劇的な人生を描く。失い続け・希望が常に事実によって裏切られていく人生。衝撃的な設定についてはネタバレ承知でも書かないほうがいいだろう。おおよそのことは直ぐに予想がつくとはいうものの、核心に少しづつ近づいていく過程がこの小説の魅力をなしているから。少しづつ真実が現れていく凄み・スリル。
そうだ。SFとして読んでもいいのかもしれない。
上質なミステリは、純文学として読んでもいいくらいに人間や人生をたくみに描く。この小説は逆かもしれない。純文学として優れた作品がミステリの要素ももっているということだ。
いま、あのときのことを思い出すと、胸に暖かさと懐かしさが込み上げてきます。小さな裏通りにトミーと一緒に立ち、これからテープ探しを始めようとしたあの瞬間、突然、世界の手触りが優しくなりました。

二度と戻っては来ない、あの瞬間!「時間よ、とまれ」と願ったことのない人がいるだろうか。急に世界が違う色になって全てを許してあげたくなる、あの瞬間。確かに「胸に暖かさと懐かしさが込み上げてくる」瞬間。俺はこの言葉が喚起するイメージだけで、もう降参だ。
わたしは何も言わず、何もしませんでした。一つには、ルースがそんな卑劣な手を使ったことに打ちのめされていたからです。とてつもない疲労感に襲われていました。巨大なもつれを目の前にしたときの無力感、疲労困憊した脳が数学の難問を突きつけられたときの無力感でした。どこか遠くに答えがあることはわかっているのに、いくら振り絞ろうにも、やってみようとする気力が湧いてきません。わたしの中で何かが白旗をあげていました。
そんな場面にも人は何回か遭遇せざるを得ない。誠実に生きていればなおのこと。
青春の輝き、その輝きの中には虚栄心、嫉妬や独占欲、破壊衝動なども赤黒くうごめいている。幼稚なるがゆえに・真実から顔を背けていたいがゆえに犯す、取り返しのつかないミス。誰だって、思い出すたびに歯噛みして地団駄踏みたくなるような、全身の血が逆流するような失敗をしている。

劇的でねじくれていて、現実にはありえない(だろうな!)グロテスクな設定であるが、そこに描かれる哀しみや喜びは普遍的な人生のそれをかえって強く気づかせる。

俺たちの人生は”自由”なのだろうか?たとえば死ぬということ。それは自死出来るという意味でのみ俺たちの裁量にゆだねられるかもしれない。それだとて本当に死にたいから死ねるとは限らない。俺たちの人生は自分だけのためにあるのだろうか?直接は知らないかもしれないが、誰かの”ために”生きているということも否定できない。俺たちは知らずして、いや承知していてさえ、他人にむごいことを平気で押し付けているのではなかろうか。弱い立場の人々はそういうことを生まれてきたときから当然のさだめとして受け入れてそれでも精一杯の喜びを求めて生きていく。なんと哀れな!
人として生まれるということ、親、友、教育、差別、・・・いろんなことの意味を考えさせる小説だ。
なによりも”愛”というものの強さ。極限にあっても、人は心と心の結びつき・愛情を持ち続けることが出来る。否、持ち続けることによって人間として生きていける。たとえ肉体はどのような状況にあっても。

グロテスクな設定はそういうことを考えさせるために作家が仕組んだ罠なのか。
抑制することによって感動が深まる。素晴らしい小説だ。
Tracked from extra ordinary at 2006-07-13 20:01
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Tracked from 国内航空券【チケットカフ.. at 2010-09-29 22:21
タイトル : わたしを離さないで カズオ・イシグロ著
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Commented by antsuan at 2006-06-16 09:22
人の話を聞いて涙を流す人は疑似体験をしている証拠だ。と、涙もろくなった私を慰めてくれた人がいますが、そう云う小説は私の心臓が耐えられるのか自信がありません。
Commented by takibi-library at 2006-06-17 19:02
昨日、新宿の紀伊国屋書店で、この本を3回手にとって、けっきょく買いませんでした。理由はハードカバーだから。それだけのことですが、やっぱりハードカバーではあまり失敗したくないんです。
でも今、購買意欲がちょっと出てきてます(笑)。
Commented by saheizi-inokori at 2006-06-17 20:13
takibi-libraryさん、きっと文庫にもなると思います。でも早く読みたい、ね。毀誉褒貶半ばかもしれないけれど私はいい作品だと思います。
Commented by poyance at 2006-07-13 20:07
こんにちは。TBありがとうございました。お礼が大変遅くなってごめんなさい。
この小説は、今のところ今年読んだ本のベスト3に入るくらい面白く読みました。最後はやっぱり泣けてきました・・
これからもどうぞよろしくお願いします〜。
Commented by saheizi-inokori at 2006-07-13 20:45
poyanceさん、こちらこそ。よろしくお願いします。
Commented by タウム at 2006-08-09 21:37 x
TBさせていただきました。

心の襞の一つ一つを丁寧に描いていて、素晴らしかったです。
Commented by saheizi-inokori at 2006-08-09 22:54
タウムさん、こんばんは。人間の哀しさを描いて切なるものがありますね。又おいでください。
Commented by そら at 2007-04-07 14:39 x
うんうん。そうなのよ~と言いたくなる梟さんの感想でした。
私にはうまく言葉にできないことがここにあって、うれしかったのでした。

>抑制することによって感動が深まる。素晴らしい小説だ。
私もそう思います。
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by saheizi-inokori | 2006-06-15 23:20 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback(4) | Comments(8)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori