世襲でも許せる? 「役者は勘九郎 中村屋三代」 関 容子 (文春文庫)
2005年 07月 31日
玉置という司会者がいた。出演者をべた褒めする。軽薄に感じて嫌だった。なのに最近、睡眠薬代わりに毎晩聞くテープ・NHK「ラジオ寄席」は、彼の解説だ。落語家や漫才師を良く知っていて持ち上げる。今は耳に快い。彼の”ヨイショ”に愛があることがわかるから。
関さんも歌舞伎が好きで好きでしょうがない人だ。特に中村屋とはまるで家族の一員のような入れ込み方。芝居を観、楽屋に行き、家族と付き合い、中村屋一族が、どのように生きて、歌舞伎の伝統を受け継ぎ、発展させていこうとしているかを、聞き届け、見届け、感動する。
この本はその感動を多くの愉快なエピソードの積み重ねで伝えてくれる。勘九郎とは今の勘三郎。三代とは先代勘三郎、勘九郎、勘太郎と七之助(クドカンの”弥次喜多”よかった)兄弟。
歌舞伎は基本的に世襲・閉鎖社会だ。少々才能があっても、外から来た人と名門に生まれた人では、勝負にならないのが通例。まして江戸歌舞伎の創始者・中村屋の御曹司ともなれば、幼いころから大舞台を踏み、大向こうの喝采を浴びる。若旦那と呼ばれ、行くところ道をさえぎるものはいないかのようだ。
こういうところが若いころから嫌だった。それなのに歌舞伎自体には魅力を感じ続けてきた。
この本を読むと、その矛盾した気持ちがどこから来たかが分かったような気がする。
勘九郎という、天才であり魅力的な人格を持つ男が、祖父・5代目菊五郎や父・勘三郎をいかに敬愛しているか、名優の先輩たちの芸をどれだけ真剣に学び、自らの芸を磨き、子供たちにそれを伝えようとしているか、がよく分かる。かくこそありしか!このようにして世界の歌舞伎は命をたもってきたのだ。
俺の中の嫉妬深い心がささやく。「でもだよ、中村屋に生まれてこなければ彼の天才は発揮できなかっただろうに」。大道具、後見、馬の役、楽屋番・・多くの裏方たちの一途な努力と心栄えについても、著者は暖かく細かなことも見逃さないまなざしを注ぎ、筆を費やす。
舞台という一瞬の再現不能な芸術の中で中村屋や梨園のエリートの成功のために一生を賭けて悔いるところがない。羨ましいともいえる生き方(でも、まだひっかるのだが)。
今や「希望格差社会」(山田昌弘)。政治家、実業家・・芸術や学問の世界まで血縁が物を言う。嫌な社会だ。
歌舞伎は古くからそういう体質だったが、勘九郎のように名門に生まれてきたことの重さ・使命を自覚して精進を欠かさない男、周囲の者たちに行き届いた目配りと思いやりを欠かさない男(細かいところ、自然や昔のことについてまで些細な事にも気がつき、心が配れることが芸を本物にしていくと、本のなかで彼は語るのだ)がいたから、今の歌舞伎の存在がある。
権力亡者・保身の塊・使命感など薬にしたくもない”サラブレッドの落ちこぼれ”たちが、会社をつぶし、国をあやまっているのとは、ウンテンバンテンの違いだ。
粋で洒落たお話満載。夏休みのお勧め。ついでに歌舞伎座に足を運んでみたらいかが。向かいの岩手県物産を売っているお店でズンダモチを買って帰るといい。
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pompu
at 2005-08-01 10:05
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読みたい本ですね。彼の小気味いい話し方も好きです。昔、河原崎国太郎(かな?)という人が、素敵な江戸弁だった。
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saheizi-inokori at 2005-08-01 10:58
勘九郎は、甲高い声を出すという欠点があって、それを彼を愛する先輩や関さんたちが注意をする。彼が素直に感謝してきき入れる話なども披露されますよ。
by saheizi-inokori
| 2005-07-31 10:34
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(2)