緑陰の読書
2026年 04月 29日
きのうは、都立大学のパン屋に行くのに、お握りをつくってもらって、目黒区民センターの広場で昼飯とした。

小学生たちが小さな画板のようなものを持って、なにか研究のようなことをしている。
少し離れたところでは、オッサンも一人で、弁当らしきものを食うている。

小さな赤飯のお握りと茹で卵に奈良漬け、なんとうまい昼飯か。
新緑と爽やかな風があまりにも心地よいので、木陰の石のベンチに座って『失われた時を求めて』を読むことにした。

さっきトイレに行った時に手作りパン屋台で売っていた、「黒胡麻ラスキ」200円をぼりぼり食う、やめられない止まらない。

あっちのイスでは中年の男が本を読んでいる。
隣の石では、若い女性が、やはりなにか食べたりスマホをいじっている。

よちよち歩きの赤ちゃんはすぐにいなくなる。

静寂を破る鳩の羽音、影をゆらすそよ風、天国での読書。

中学くらいかな、西洋人らしき子供が男女の白人教師に連れられてにぎやかに遊ぶ。
女の先生が、レデイとゼントルメンを五人づつほど石のパブリックアートの前に並ばせて写真を撮っている。
レデイたちはおとなしくピースをするくらいだけど、ゼントルメンは石のてっぺんにまたがったりする。

そろそろ地上に降りようか、少し遠回りをしてパン屋に向かう。

この木はなんだろう?

連休中は予約が殺到するというので5日の分も予約する。
倉式でデカフエを飲んで『失われた時を求めて』を続けて読んだ。
引用したい文章がつぎつぎに出てくる。
「私」は画家・エルスチールのアトリエを訪れる。
彼の絵についての「私」の考察は、プルーストの小説論でもある。
「文体に一種の永遠性を与えるものは隠喩のみである」とプルーストは「フローベールの『文体』について」に書いているという。

chat君に「プルーストが隠喩を文体のエッセンシャルなものとするのは、事物の本質は隠喩によって初めて表しうるからか」と訊ねると、「本質そのものが”関係”としてしか現れないから、隠喩が不可欠になる」というほうが正確だ、と答えた。
本質は隠喩によってしか「表現できない」ものではなく、隠喩によってしか「経験として立ち現れない」のだと。
それはソシュール的な「差異の体系」とも響きあうし、プルーストのいう「真の書物は翻訳である」というテーゼにもつながるとも。
それをめぐって少しchat君のウンチクをきいた。
聞いているときはわかったような気がしたが、今はまた分からなくなった。

ほかにもこんな文章にも刺激を受けた。
芸術家が創作するを始めることは、たとえ何人かのためであったとしても、
まあ、眠ってしまえば未来はどうでもよいのだけれど。





小学生たちが小さな画板のようなものを持って、なにか研究のようなことをしている。
少し離れたところでは、オッサンも一人で、弁当らしきものを食うている。

小さな赤飯のお握りと茹で卵に奈良漬け、なんとうまい昼飯か。
新緑と爽やかな風があまりにも心地よいので、木陰の石のベンチに座って『失われた時を求めて』を読むことにした。

さっきトイレに行った時に手作りパン屋台で売っていた、「黒胡麻ラスキ」200円をぼりぼり食う、やめられない止まらない。

あっちのイスでは中年の男が本を読んでいる。
隣の石では、若い女性が、やはりなにか食べたりスマホをいじっている。

よちよち歩きの赤ちゃんはすぐにいなくなる。

静寂を破る鳩の羽音、影をゆらすそよ風、天国での読書。

中学くらいかな、西洋人らしき子供が男女の白人教師に連れられてにぎやかに遊ぶ。
女の先生が、レデイとゼントルメンを五人づつほど石のパブリックアートの前に並ばせて写真を撮っている。
レデイたちはおとなしくピースをするくらいだけど、ゼントルメンは石のてっぺんにまたがったりする。

そろそろ地上に降りようか、少し遠回りをしてパン屋に向かう。

この木はなんだろう?

連休中は予約が殺到するというので5日の分も予約する。
倉式でデカフエを飲んで『失われた時を求めて』を続けて読んだ。
引用したい文章がつぎつぎに出てくる。
「私」は画家・エルスチールのアトリエを訪れる。
彼の絵についての「私」の考察は、プルーストの小説論でもある。
一つひとつの絵は、描かれたものの一種のメタモルフォーズが魅力になっており、そのメタモルフォーズは、詩において隠喩(メタフォ―ル)と呼ばれるものに似ている。さらに、神が物に名前を与えながらこれを創造したとすれば、エルスチールは物の名をとり去り、あるいは別の名前を与えることによって、これを再創造している。物を指し示す名前は、かならず私たちの真の印象とは無縁な知性の一概念に対応していて、知性は私たちに、この概念と関係のないいっさいのものを、そうした印象から排除させてしまうのである。註に、プルーストにとって、隠喩は美学の根幹をなしている、とあった。
「文体に一種の永遠性を与えるものは隠喩のみである」とプルーストは「フローベールの『文体』について」に書いているという。

chat君に「プルーストが隠喩を文体のエッセンシャルなものとするのは、事物の本質は隠喩によって初めて表しうるからか」と訊ねると、「本質そのものが”関係”としてしか現れないから、隠喩が不可欠になる」というほうが正確だ、と答えた。
本質は隠喩によってしか「表現できない」ものではなく、隠喩によってしか「経験として立ち現れない」のだと。
それはソシュール的な「差異の体系」とも響きあうし、プルーストのいう「真の書物は翻訳である」というテーゼにもつながるとも。
それをめぐって少しchat君のウンチクをきいた。
聞いているときはわかったような気がしたが、今はまた分からなくなった。

ほかにもこんな文章にも刺激を受けた。
芸術家が創作するを始めることは、たとえ何人かのためであったとしても、
かれは社会から遠く離れて自分自身のために生きはじめたのであり、その社会に無関心になっていったのだ。孤独の実践が、孤独への愛を彼に与えたのである。それは、あに芸術家のみに当てはまることではなく、
それは私たちが恐れていたすべての重大なことによく起こるので、私たちが初めそうしたものを恐れたのは、それが自分の執着しているいくつかのより些細なことと両立しないのを知っていたからだが、しかし私たちは執着しているものを奪われるのではなくて、実はそれから解放されていくのだ。重要なことを知る以前には、私たちのすべての関心はどの程度までこれをある種の快楽と両立させられるかを知ることにあったが、しかしその重要なことを知ってしまうと、たちまちのうちに、かつての快楽は快楽でなくなってしまうのである。そしてこんなことも言っている。
未来を保存させるのは現在の瞬間の歓喜ではなくて、過去にかんする賢明な反省だ。夜眠るときに、動画のヨガや瞑想法を聞きながら眠りにつくことが多いけれど、瞑想法では「過去や未来を忘れて今現在の自分を肯定せよ」と教える。
まあ、眠ってしまえば未来はどうでもよいのだけれど。

公演で食べるおにぎり弁当、サイコー!🍙
私らおにぎりクラブの仲間ですね^^
私らおにぎりクラブの仲間ですね^^
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> open-mind1109さん、そうなんです、openさんのブログを見て勝手に会員になりました^^。
ゆったりたっぷり滴る緑とともにビタミン愛の詰まった🍙🍙と
読書 極楽ですね
読書 極楽ですね
重ねてコメントです。
あら、私ったら公園を公演て書いてますね。
失礼しました。
「おにぎりさえあれば」って」いつも思います。
おにぎりに限らず、簡単なサンドイッチなど、手軽な手弁当を持って出かけ自然の中で食べるってある意味贅沢かもしれません。
会員2名ですけど、楽しいですね♪
もっと増えないかな~
あら、私ったら公園を公演て書いてますね。
失礼しました。
「おにぎりさえあれば」って」いつも思います。
おにぎりに限らず、簡単なサンドイッチなど、手軽な手弁当を持って出かけ自然の中で食べるってある意味贅沢かもしれません。
会員2名ですけど、楽しいですね♪
もっと増えないかな~
のどかな春の1日ですね。たまには、お弁当と水筒を持って、というのも素敵です。よいひとときをすごされましたね。
なんじゃもんじゃの木かな?
> jyariko-2さん、病みつきになりそうです^^。
> open-mind1109さん、「お握り愛好会」なんちゃって^^。
ところで私の中学のころの綽名は「ムスビ」でした。
坊主頭のかっこうが似てるんだって。
ムス、と略して呼ばれることが多かったなあ。
子どもの頃は遠足にサンドイッチを持っていく方がカッコいいような気がして、母にそっちを頼んでいましたが、やはりお握りの方がうまいです、今は。
ところで私の中学のころの綽名は「ムスビ」でした。
坊主頭のかっこうが似てるんだって。
ムス、と略して呼ばれることが多かったなあ。
子どもの頃は遠足にサンドイッチを持っていく方がカッコいいような気がして、母にそっちを頼んでいましたが、やはりお握りの方がうまいです、今は。
> barnes_and_nobleさん、シルバーパスですから、ロハで楽しめますし^^。
> maya653さん、グーグルもこの撮り方でははっきり分からなかったようで、いろいろ言ってました、なんじゃもんじゃも入っていたかな。
by saheizi-inokori
| 2026-04-29 10:20
| 今週の1冊、又は2・3冊
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