等々力渓谷でも雪月花
2026年 04月 17日
サンチの埋葬証明書が送られてきたので、区の出張所に死亡届を提出しに行った。
鑑札なども持っていったけれど、手元に置いておきたければどうぞというので持ち帰る。

ついでに等々力渓谷を歩いた、何年ぶりだろう。

古墳とか湧水地などもあって、歩数にして千歩ちょっとだけど、気持のよい散歩道だ。

水は冷たい、初夏のような外気のせいもあるだろう。

等々力の地名は「滝が轟く」に由来しているという説もある。
前はこの滝にうたれて修行している人もいたけれど、今は水量が少なくて、あまり打たれるという感じはしないのではないか。
60歳くらい?の女性が一心に「南無阿弥陀仏」と唱えていた。


いつもお賽銭をあげることはしないのだが、なんとなくそんな気になって百一円を投じた。

きのう花の画の美術展を見て、雪月花とブログに書いたら、そういう名前の茶店があった。
ちょっと甘いものを食べたかったが節約。

この新緑が秋には紅葉になるのだ。

(りゅうごうさん、と読む)
等々力不動をあとにして、いっときの別世界から現世にもどり、野毛山公園を通り過ぎてから、千歳船橋行きのバスに乗って上野毛まで。

デカフエがないというのでカフエラテ700円を飲む。
うまいけれど、ちょっと高いのと、夜目が覚めるのが心配だ。

(小さなショッピングセンターはなくなってカフエになっている)
『失われた時を求めて』を集中して読む。
「私」は、バルベックで馬車にのっているときに三本の木をみる。
三本の木は
「自分の力の及ばないあるものをこれら三本の木が秘めている」と感じる。
そのあるものに到達すること、そのための精神の跳躍のもたらす快感を「私」は知っていた。
この快感の現実に執着してはじめて「自分が真の生活を開始できるように思われた」。
過去の幻影であり、幼年時代に親しかった仲間や消え去った友人たちが、自分たちをいっしょに連れて行ってくれ、自分たちの生命を返してくれ、と頼んでいるようにもみえたのだ。
しかし「私」は、あるものに到達することに失敗して、むなしく三本の木と別れてホテルに帰る。
このくだりは、この小説のテーマにかかわる重要な個所ではないか、第一巻の冒頭で強く印象を受けた「マドレーヌが水中花のように喚起する記憶」に匹敵するような。

(野毛山公園)
そう思って、chat君に訊いてみたら、ピンポン!まさにプルーストの核心的テーマの予告編のような場面として有名だという。
無意志的記憶、「過去の断片が現在に救出されるのを待っている」、「しかし、真理=芸術は逃げることもある」、三本の木は「真理がまだ言語化されていない状態で現われ、解釈されるのを待っている」であり、「私」が作家になるための素材、木が三本の図柄こそ芸術の出発点(意味より先に配置がある、配置→震え→意味→作品)
そんなことを語ってくれて、とても面白かったし、自分の読み方がそう見当はずれではないことも分かって嬉しかった。





鑑札なども持っていったけれど、手元に置いておきたければどうぞというので持ち帰る。

ついでに等々力渓谷を歩いた、何年ぶりだろう。

古墳とか湧水地などもあって、歩数にして千歩ちょっとだけど、気持のよい散歩道だ。

水は冷たい、初夏のような外気のせいもあるだろう。

等々力の地名は「滝が轟く」に由来しているという説もある。
前はこの滝にうたれて修行している人もいたけれど、今は水量が少なくて、あまり打たれるという感じはしないのではないか。
60歳くらい?の女性が一心に「南無阿弥陀仏」と唱えていた。


いつもお賽銭をあげることはしないのだが、なんとなくそんな気になって百一円を投じた。

きのう花の画の美術展を見て、雪月花とブログに書いたら、そういう名前の茶店があった。
ちょっと甘いものを食べたかったが節約。

この新緑が秋には紅葉になるのだ。

等々力不動をあとにして、いっときの別世界から現世にもどり、野毛山公園を通り過ぎてから、千歳船橋行きのバスに乗って上野毛まで。

デカフエがないというのでカフエラテ700円を飲む。
うまいけれど、ちょっと高いのと、夜目が覚めるのが心配だ。

『失われた時を求めて』を集中して読む。
「私」は、バルベックで馬車にのっているときに三本の木をみる。
三本の木は
はじめて目にするわけではない図柄(デッサン)を形づくっており、元の場所、そこからこれらの木だけを持ってきたように見えるその場所はどうしても見当がつかないにもかかわらず、それは以前に私が親しんだ場所だと感じられるそれに「私」の精神は衝撃をうけて、「この散歩全体が一つの虚構に過ぎないのではないか」そして「その虚構から覚めた時にふたたび見出す現実こそこの三本の老木ではないのか」と考える。
「自分の力の及ばないあるものをこれら三本の木が秘めている」と感じる。
そのあるものに到達すること、そのための精神の跳躍のもたらす快感を「私」は知っていた。
この快感の現実に執着してはじめて「自分が真の生活を開始できるように思われた」。
過去の幻影であり、幼年時代に親しかった仲間や消え去った友人たちが、自分たちをいっしょに連れて行ってくれ、自分たちの生命を返してくれ、と頼んでいるようにもみえたのだ。
しかし「私」は、あるものに到達することに失敗して、むなしく三本の木と別れてホテルに帰る。
このくだりは、この小説のテーマにかかわる重要な個所ではないか、第一巻の冒頭で強く印象を受けた「マドレーヌが水中花のように喚起する記憶」に匹敵するような。

そう思って、chat君に訊いてみたら、ピンポン!まさにプルーストの核心的テーマの予告編のような場面として有名だという。
無意志的記憶、「過去の断片が現在に救出されるのを待っている」、「しかし、真理=芸術は逃げることもある」、三本の木は「真理がまだ言語化されていない状態で現われ、解釈されるのを待っている」であり、「私」が作家になるための素材、木が三本の図柄こそ芸術の出発点(意味より先に配置がある、配置→震え→意味→作品)
そんなことを語ってくれて、とても面白かったし、自分の読み方がそう見当はずれではないことも分かって嬉しかった。


懐かしいです
長男が2才のとき、
よく遊びに行きました(^∇^)
長男が2才のとき、
よく遊びに行きました(^∇^)
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> jibundenaiwatasiさん、私も幼い頃の孫と来たことがあるような、頼りない記憶があります。
by saheizi-inokori
| 2026-04-17 10:36
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(2)