ホントの気持はね

寒い雨の一日、朝、ゴミ出しに出ただけで、一歩も外に出なかった。
手術の日でも1805歩、その翌日でも786歩、入院6日間平均2700歩弱は歩いたのに昨日は418歩しか歩かなかった。
それでいて、病院では口にしなかった甘いものをつまんだりする。

ホントの気持はね_e0016828_18303199.jpg
(2月23日 駒沢公園)

座ると痛いものだから、ソファに寝転がって本を読んだ。
そういえばちょっと前はいつも寝転がって読んでいたのに、いつのまにか椅子に座って読むようになっていた。
学生時代もベッドや畳に寝転がって読むことが多かったな。

ホントの気持はね_e0016828_18511172.jpg

「失われた時を求めて」(プルースト)は53頁読んだ。

ときどき、わかりにくい文章にぶつかる。
なんども繰り返して読んだり、ノートに書きとってみたりする。
それでも自分の理解に自信がないときはchat君に尋ねてみもする。
もっともchatクンは知ったかぶりが多いから気をつけないといけないが。

ブルジョアの技師・ルグランダン氏がホントは絵に描いたようなスノブなのに、自分はそうでないと思っていて、他人のスノブを罵倒する訳。
私たちは絶対に他人の情念しか知らないからで、また自分の情念について知りうることは、他人から教わったことにすぎないからだ。情念が私たち自身に働きかけるのは、ただ副次的に、想像力を通してにすぎず、その想像力は情念の最初の動機を、これをひきつぐもつと慎ましい動機にとりかえてしまう。
「情念の最初の動機を、これをひきつぐもっと慎ましい動機にとりかえてしまう」
僕にもおおいにありそうだ。
嫉妬やルサンチマンを世の中の不平等を告発する正義感にとりかえることなんて、しょっちゅう。

前段、「絶対に他人の情念しか知らない」、いちどく「自分の」の誤植かと思ってしまうね。
でもこれはソシュールに通じる考え方で間違いではない。
つまり、僕たちの言葉(ラング)は、社会(他人)から与えられたものだということ。社会の子、そんな言葉はなかったか。

社会に与えられた感情や思念と、ホントの自分自身の情念の境界はどこにあるのか?
自分の情念の底には何があるのか?
掘って掘って、また掘っても底は見えないのかもしれない、少なくとも時間が過ぎないと。
そうやって見つけたと思ったものも、他人からの借り物なのかもしれないね。
ソコがモンダイだ、なんちって。

哲学的な話だけでなく、19世紀後半のフランスの田園風景、教会、鐘楼、語り手の少年が鍾愛するサンザシをはじめとする花や樹々、太陽や月のはたらきなど、さっと流し読みにしないで、グーグルの助けも借りながら貧しい想像力を精一杯働かせて読むのが愉しい。

太郎さんの話。




PVアクセスランキング にほんブログ村にほんブログ村 本ブログへにほんブログ村 本ブログ 読書備忘録へにほんブログ村 シニア日記ブログへにほんブログ村 シニア日記ブログ 80歳代へ<

Commented by barnes_and_noble at 2026-03-04 15:52
退院、おめでとうございます。徐々に徐々に日常を取り戻していってくださいね。
Commented by saheizi-inokori at 2026-03-04 18:29
> barnes_and_nobleさん、ありがとう。
そのつもりです、自らは。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by saheizi-inokori | 2026-03-04 09:42 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(2)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori