僕の自由
2025年 10月 28日
久しぶりに秋晴れの朝、洗濯はなし、洗面所とトイレの掃除に下着上下の手洗い。
朝夕の手洗いはちよつとしんどいけれど、指先と握力強化(維持)のためのトレーニングと心得る。
朝飯後、すくに近くのクリニックにインフルエンザのワクチンを打ちに行く。

きのうは夕焼けを楽しみながらの散歩。


「メルロ=ポンティ」(村上隆夫)は、「歴史と身体」と「言語と身体」を読んだ。
そこで学んだことの前に、一昨日読んだ「知覚と現象学」のなかから、メルロ=ポンティの考える、人間の自由について書きとめておきたい。
人間は身体をもっている限り完全に自由ではあり得ない。
身体的生活がもたらす事実的状況、そこには行動を凝固させたり、沈殿させて、自由な行動を不可能にしてしまう要素が含まれる。
その状況を主体的に「引き受ける」ことによって、おのれの過去を取りあげ直し、変形し、その意味を変えてしまうのである。身体の障害を逆手に取ってパラリンピックのヒーローになる、そんなことだろうか。
そのありようは、
おのれの生に関してなす選択はつねにある所与を土台にしてなされる。私の自由は私の生をその自然的意味からそらせるわけだが、それはまずその意味を背負い込み、一連の地すべり的移行によってなすのであって、決して絶対的創造によってなすわけではない。デカルトが言うように、物質の必然性に対して精神の絶対的な自由が対置されるわけではないし、サルトルの、即自としての物の惰性に対して対自としての意識の絶対的な自発性がぶつかるわけでもない。
むしろ
自由は身体の習慣の必然性を基礎にして初めて可能なのであり、人間における自由で意識的な実存は、言わば「身体の仕上げ」なのである。なんだか、勇気が湧いてくるような言葉だ。
僕は「82歳という老化」に伴うモロモロを「引き受けて」「背負い込み」、そのまま自堕落な生き方を続けることをやめて、日々時々刻々の努力によって、身体を鍛え、働き、学ぶことを続けていくのだ。
それが僕の自由なのだ。
違うかい?メルロ=ポンティさんよ。

素晴らしい。パチパチ.(^^♪
僕は「82歳という老化」に伴うモロモロを「引き受けて」「背負いこみ」・・・・・
日々時々刻々の努力によって、身体を鍛え、働き、学ぶことを続けていくのだ。
それが僕の自由なのだ。
💐
今日は素敵な一日です。サヘイジさんのところへお邪魔して沢山の
秋の果実を頂いた思いです。ありがとうございます。💐
僕は「82歳という老化」に伴うモロモロを「引き受けて」「背負いこみ」・・・・・
日々時々刻々の努力によって、身体を鍛え、働き、学ぶことを続けていくのだ。
それが僕の自由なのだ。
💐
今日は素敵な一日です。サヘイジさんのところへお邪魔して沢山の
秋の果実を頂いた思いです。ありがとうございます。💐
2
> jyon-non3さん、ありがとう、ちょっと照れくさいな。
そうだ。インフルエンザワクチンの予約をしなくっちゃ。
おぉ、先達の素晴らしい教え。私も心に刻んで精進します。
> ikuohasegawaさん、そろそろ、ね。
> nanamin_3さん、ほっておけば快楽主義に走るのです。
by saheizi-inokori
| 2025-10-28 10:59
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(6)