82歳の奇跡
2025年 09月 26日
国鉄からJRと過ごした鉄道人生の想い出を綴ったブログにいちおうの区切りをつけたのは、3年前の8月だった。
全体の構成をかんがえることもなく、まいにち思い出すことを記憶を頼りに書き続けるのみで、写真をいれるなど読む人の興味を引く工夫もしなかった。
それでも、いくらかの人たちが読んでくれて、今でも毎日誰かがアクセスしてくださっている。
Mさんが、コメントをくださったのは、22年だったか、僕よりだいぶ若い方だが、JR千葉支社やJR東日本企画、京葉企画開発(かつて僕も社長をした千葉支社の子会社)などにも勤務したという。
なんどかコメントのやり取りをしているうちに、「ぜひ一度会ってくれ」とおっしゃる。
彼の亡くなった母堂が、昔千葉鉄道管理局の人事課長や貨物課長をしていた頃、足繁く通ったバーのママをなさっていた、ともいう。
ママにはすっかりお世話になりながら、ご無沙汰をかさねて申し訳なかったという気持もあったので、会おうということになった。
ところが、彼の息子さんの病が重篤になり、ついには亡くなってしまった。
彼の最期のころの感動のエピソードなどを写真で送ってくれるのを見て、Mさんの心痛を思いやるばかりだった。
ようやくその悲しみから立ち直ったか、今度こそ逢いましょうと約束したら、こんどは僕がコロナになって、キャンセル。

三度目の正直で昨日会うことができた。
千葉と世田谷の真中、錦糸町駅で「ピンさん!」(僕の現役時代の通り名)と呼びかける、精悍な男がMさんだった。
すぐに握手、好い奴だってことが、ずしんと伝わって来た。
駅ビルのなかの店に歩く間も、せきをきつたように、あわただしかった自身のいろいろや、会いたいと思ってきた気持などを繰り返す。
席につくと、すぐに取り出したのが、ママの遺影だ。
御元気なころから、いつも「ピンさん、どうしてる?」と息子/Mに尋ねることが、多かった。
ニューヨークの視察研修に、Mさんも参加したのに、団長の僕に接近しなかった。
「だって、駅ビルのきれいどころに囲まれていたし、畏れ多くて、、」、帰国してママに「それでピンさんと話をしたのか」と訊かれて、そういったという。
そういうわけで、今日はこの写真もいっしょに飲んでください。
昨日も今日も、これからピンさんに会うから、一緒に飲むから、ママが勧める梅干しも持っていくから、と仏壇に言ってきた。
やっと親孝行ができるともいう。

僕の別ブログの存在を知ったのは、職場のポテンシャル採用の男から、面白いから読んでみたら、と言われたからだという。
「花も嵐も、、」は二度読み直して、「梟通信」も愛読していると、有難いことをいわれて、もう僕はどうしていいのかわからない、「獏連」の冷を三杯もお替りして、うまそうな秋刀魚の塩焼きもおねだりする始末。
山梨出身のママが、店でもときどき甲州弁を出すのを喜んだことも話す。
家では甲州弁の方が多かったらしくて「ほうけ」「やれし」などと、その口真似も聞く。

お供を連れずに現場に行ったことなど、僕の現場第一の生き方が彼の琴線にふれたようで、書いた僕が忘れていたような記事のいろいろを指摘して、わがことのように痛快そうな顔をする。
そして、「今、そういう人いないですよ、もう一人も」というのだ。
すれちがって、一緒に仕事はできなかったけれど、共通の知人が大勢いて、その人たちの近況を聞いたり、JRが国鉄のよかったところを亡くして、ゴマスリ野郎が跋扈している惨状も問わず語りに話してくれた。
まもなく駅長という呼称をなくして、統括センター所長にしてしまうとか、ポテンシャル採用ってのは、僕たちの頃の本社採用(国鉄改革で亡くしたはずの)のことだとか、渋谷や自由ヶ丘がなくなるように、僕の愛した国鉄(JR)もなくなるようだ。
全体の構成をかんがえることもなく、まいにち思い出すことを記憶を頼りに書き続けるのみで、写真をいれるなど読む人の興味を引く工夫もしなかった。
それでも、いくらかの人たちが読んでくれて、今でも毎日誰かがアクセスしてくださっている。
Mさんが、コメントをくださったのは、22年だったか、僕よりだいぶ若い方だが、JR千葉支社やJR東日本企画、京葉企画開発(かつて僕も社長をした千葉支社の子会社)などにも勤務したという。
なんどかコメントのやり取りをしているうちに、「ぜひ一度会ってくれ」とおっしゃる。
彼の亡くなった母堂が、昔千葉鉄道管理局の人事課長や貨物課長をしていた頃、足繁く通ったバーのママをなさっていた、ともいう。
ママにはすっかりお世話になりながら、ご無沙汰をかさねて申し訳なかったという気持もあったので、会おうということになった。
ところが、彼の息子さんの病が重篤になり、ついには亡くなってしまった。
彼の最期のころの感動のエピソードなどを写真で送ってくれるのを見て、Mさんの心痛を思いやるばかりだった。
ようやくその悲しみから立ち直ったか、今度こそ逢いましょうと約束したら、こんどは僕がコロナになって、キャンセル。

三度目の正直で昨日会うことができた。
千葉と世田谷の真中、錦糸町駅で「ピンさん!」(僕の現役時代の通り名)と呼びかける、精悍な男がMさんだった。
すぐに握手、好い奴だってことが、ずしんと伝わって来た。
駅ビルのなかの店に歩く間も、せきをきつたように、あわただしかった自身のいろいろや、会いたいと思ってきた気持などを繰り返す。
席につくと、すぐに取り出したのが、ママの遺影だ。
御元気なころから、いつも「ピンさん、どうしてる?」と息子/Mに尋ねることが、多かった。
ニューヨークの視察研修に、Mさんも参加したのに、団長の僕に接近しなかった。
「だって、駅ビルのきれいどころに囲まれていたし、畏れ多くて、、」、帰国してママに「それでピンさんと話をしたのか」と訊かれて、そういったという。
そういうわけで、今日はこの写真もいっしょに飲んでください。
昨日も今日も、これからピンさんに会うから、一緒に飲むから、ママが勧める梅干しも持っていくから、と仏壇に言ってきた。
やっと親孝行ができるともいう。

僕の別ブログの存在を知ったのは、職場のポテンシャル採用の男から、面白いから読んでみたら、と言われたからだという。
「花も嵐も、、」は二度読み直して、「梟通信」も愛読していると、有難いことをいわれて、もう僕はどうしていいのかわからない、「獏連」の冷を三杯もお替りして、うまそうな秋刀魚の塩焼きもおねだりする始末。
山梨出身のママが、店でもときどき甲州弁を出すのを喜んだことも話す。
家では甲州弁の方が多かったらしくて「ほうけ」「やれし」などと、その口真似も聞く。

お供を連れずに現場に行ったことなど、僕の現場第一の生き方が彼の琴線にふれたようで、書いた僕が忘れていたような記事のいろいろを指摘して、わがことのように痛快そうな顔をする。
そして、「今、そういう人いないですよ、もう一人も」というのだ。
すれちがって、一緒に仕事はできなかったけれど、共通の知人が大勢いて、その人たちの近況を聞いたり、JRが国鉄のよかったところを亡くして、ゴマスリ野郎が跋扈している惨状も問わず語りに話してくれた。
まもなく駅長という呼称をなくして、統括センター所長にしてしまうとか、ポテンシャル採用ってのは、僕たちの頃の本社採用(国鉄改革で亡くしたはずの)のことだとか、渋谷や自由ヶ丘がなくなるように、僕の愛した国鉄(JR)もなくなるようだ。
まあなんて心温まる素敵なお話。心にぽっと火が灯りました。ありがとうございます♪
佐平次さんの人徳ですね。やはり見ている人はキチンとみているのです。
佐平次さんの人徳ですね。やはり見ている人はキチンとみているのです。
10
>YOKO68さん、拙い人生でしたが、見る人がいてくれたと思うと、救われます。
よいお話ですね。
笑顔になりました。
会えてよかった、会えてうれしい、とお二方が思っていらっしゃるのが
伝わってきて あたたかな気持ちになりました。
↑の方もおっしゃっていますが
saheiziさんの人柄ですね。
見る人はちゃぁんと見ているのですよね。
よい出会いのおすそ分けをいただいたようです^^
笑顔になりました。
会えてよかった、会えてうれしい、とお二方が思っていらっしゃるのが
伝わってきて あたたかな気持ちになりました。
↑の方もおっしゃっていますが
saheiziさんの人柄ですね。
見る人はちゃぁんと見ているのですよね。
よい出会いのおすそ分けをいただいたようです^^
よいなあ。退職したあとでその頃を直接間接に知る人と友達になるなんて、素晴らしいです。
ピンさん、昨日はありがとうございました。
自宅に戻り女房に夢が叶って良かったね!!と言われました。もちろん仏壇の前でおふくろ、今日ピンさんと差しで呑んだよ。うまい梅も渡すことが出来たよと伝えました。最高の親孝行ができました。
また、ピンさんと呑める日を楽しみにしています。
自宅に戻り女房に夢が叶って良かったね!!と言われました。もちろん仏壇の前でおふくろ、今日ピンさんと差しで呑んだよ。うまい梅も渡すことが出来たよと伝えました。最高の親孝行ができました。
また、ピンさんと呑める日を楽しみにしています。
> miyabiflowerさん、ありがとう、千葉の人たちのことをいっぱい思いだしました。
こんばんは^_^
駅長のほうが風情があって、心温まるのにと思う私は、昭和だからかしら❓
駅長のほうが風情があって、心温まるのにと思う私は、昭和だからかしら❓
こんにちは。
ほろっと涙ぐんでしまいました。
父も運省出身の国鉄マンでした。
与野の鉄道官舎に住んでいた頃を思い出します。
父とどこかで出会っていたかもしれないと思うと saheiziさんが身近な人に思えます。
ほろっと涙ぐんでしまいました。
父も運省出身の国鉄マンでした。
与野の鉄道官舎に住んでいた頃を思い出します。
父とどこかで出会っていたかもしれないと思うと saheiziさんが身近な人に思えます。
> bondgirl123さん、そうですよね、昭和が価値のあるエモさを体現してるつて知らないのかな。
> ashitasakuさん、きつと会ってた!そう思いますよ。
長年のお仕事お疲れさまでした。
錦糸町、懐かしいです。
今は近代的になりましたね。
大昔、父がそこで働いていて何回も行きましたが、
全く今とは違います。
アラックは全く及びませんが、もう少し
教育関係の仕事をしたいです。
錦糸町、懐かしいです。
今は近代的になりましたね。
大昔、父がそこで働いていて何回も行きましたが、
全く今とは違います。
アラックは全く及びませんが、もう少し
教育関係の仕事をしたいです。
心に沁みる良いおはなしですね♪
> kitaoni22さん、まあ、若い頃からよく飲んでいたという話でもあるんです^^。
本当に長らくのお仕事お疲れさまでした。
アラックなんて、定年前に鬱病で辞職してしまいましたしね。
駄目です。
でも、大学での仕事が出来て、自分の思う授業が出来たのが
人生で一番の幸せだと思っています。
ほほえましい話しをありがとうございます。
お見事バグースです。
アラックなんて、定年前に鬱病で辞職してしまいましたしね。
駄目です。
でも、大学での仕事が出来て、自分の思う授業が出来たのが
人生で一番の幸せだと思っています。
ほほえましい話しをありがとうございます。
お見事バグースです。
by saheizi-inokori
| 2025-09-26 12:52
| よしなしごと
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