パワハラの潜在的背景

まだ暑いけれど風があるから救われる。
夕方の日ざしの移ろいを楽しみながら歩く。
いつか、こういうことができなくなる日がやってくる。
そのとき、きっと焦がれるように懐かしく、この夏の日の夕方の散歩を想うのだろう。

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ショッピングカーを押して歩くおばあさんを追い越すと、背後からなにやら溜息のような声がきこえた。
ふりむいて「大丈夫ですか」と問うと、明るい笑顔で「はい」と答える。
「暑いですね」「暑いですね」の挨拶で、僕は先を行く。

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ブルシット・ジョブ、たとえば一日実質的なことを何もしないでも報酬をもらえるような仕事は、古典経済学の「経済人」(ホモ・エコノミクス)・費用便益分析的見方からすると、理想的な仕事かもしれないが、じっさいはそうではないことが多い。
ひとが自己である、自身をとりまく環境から独立しているという感覚の大半は、そうした環境に対して予測可能な影響を与えられるという歓喜(ジョイフル、「原因となる悦び」)をともなう気づきによって、もたらされている。これが幼児の頃から始まることはドイツの心理学者・カール・グロースによって発見された(1901)。
こうした「原因となる悦び」を奪い去ることは、人間を虫けらのようにひねりつぶすことに等しい。

たとえ高額の報酬があっても、社会的な肩書があっても、ブルシット・ジョブについているひとは、どこかで自分が虫けらのようになっていることを感じている。
それはストレスを生み、抑うつや暴力的またはサディスティックな性向を引き出すこともある。

僕は、パワハラとかDVを行う男性の背景には、彼がブルシット・ジョブに従事している、もしくはさせているという意識があるのかもしれない、と思った。
実質的な仕事をしている部下や妻が妬ましいという感じが潜在的にあるのかもしれない。
自分はブルシット・ジョブにあるネトウヨ的な人たちが、自分より下の劣った存在であるはずと思う外国人たちが実質的で社会にとって必要とされる仕事をしていることが、疎ましく感じられて排外主義のトーンがあがるのかもしれない。

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デヴィッド・グレーバーがつぎつぎにあげる具体的事例を読んでいると、かつて僕が遭遇したさまざまな人物が脳裏にうかんでくる。

かつて本社の幹部をしていたとき、庶務の女性〈彼女たちが社内の男たちの”真の力、仕事ぶり”を知悉していることと云ったら!)が、ある大学出のエリート若手社員について「彼は全く完全になにもしていない」と酒飲み話で言ったが、それは決して誇張やウソではないことが、本書の多くの事例で納得できた。
彼は「やっているふり」をして一日過ごしていたのだ、それを咎めるどころか、それで良しとする上司もいた。

ヒエラルキーの階段を登るにつれて(それとともに、公式の権威がどんどんついてくるにつれて)、管理職には状況がみえなくなっていくものである。
JR東日本で感じたこと↓


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(ゆうべのスキヤキの残りで朝飯)

きのうもいくつか気の付いた記事がありました。
ご参考までに。







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by saheizi-inokori | 2025-07-30 11:57 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(0)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori