丸山眞男
2025年 06月 24日
「百年目」という落語がある。
ここであったが百年目、という言葉につかわれる百年とじっさいの月日を重ねて、しかも遊蕩にふける番頭がなにより畏怖する旦那に遭遇したときの、しまったという感覚をうまく表している。
ちょっと長いけれど、なかなか味わい深い噺です。
百年といえば、とても長い時間を意味していた。
子どもの頃は「百年経っても」というと「永遠に」と同義だった。
百年前の出来事とは「大昔の出来事」だった。
ところが、82歳と4カ月の僕には、もはや百年前は「今」もしくは「ちょっと前」に過ぎなくなった。
現代の子供たちも、僕の子どもの頃の時間間隔をもっていて、百年前というと大昔なのだろうか。
そして戦争中の出来事なんて現実感の伴わない「おはなし」に感じられるのだろうか。
彼らも老人になってはじめて、百年前の出来事をリアルに感じるのか、その時が手遅れになっているかもしれないのに。

丸山眞男、今「マルヤママサオ」とうちこんだら、丸山正雄と出て来たのにがっかり。
僕の学生時代にはパソコンなんてなかったけれど、マルヤママサオといえば丸山眞男と決まっていた。
岩波新書から「日本の思想」が出る時は発売前からそわそわして待った。
それほど「神格化」されていた政治学者だった。

その丸山の「現代政治の思想と行動」も文系学生にとっては必読書と云ってもいいような本だった。
もちろん僕も読んだ。
日本語で書かれているから読めた。
だが、そこで説かれる日本の「超国家主義の論理と心理」や「日本ファシズムの思想と運動」は、表面的な意味がわかったというだけ、そこで丸山が鋭く追及している戦争責任者たちの恐るべき知的退廃や無責任性はちっともリアルな迫力や実感をもたず、したがって共感や感動を感じさせなかった、ようするに「わからなかった」のだ。
いくつかのシンクロニシティがあって、図書館から借りた本書はあの頃僕が持っていたものよりずっと厚くて読みでがありそうだ。

第一部「現代日本政治の精神状況」の一「超国家主義の論理と心理」およびニ「日本ファシズムの思想と運動」を読んだ。
自由民権論が、もっぱら個人ないし国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いにとどまり、近代的人格の前提たる道徳の内面化の問題が軽んじられて、教育勅語においては日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることを公式に宣言する。
私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何ほどかの後ろめたさを絶えず伴っていた。
「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となる。

主権者自らのうちに「古今東西を通じて常に真善美の極致」という絶対的価値を体現しているから、国家活動はつねに同時にそういう大義の発露となる。
どんな(背信的な)ことをしてもそれが大義なのだ。
倫理が内面化されないから、たえず権力化、外的な運動への衝動が伴い(ex、国民精神総動員)、ぎゃくに権力は倫理的なものによって中和される。
本当のマキャヴェリズム、チェザーレ・ボルジャの不敵さもない。
すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。
東条英機こそ日本的政治のシンボルだ。
日本の戦犯は青ざめ又は泣き、ゲーリングは哄笑する。
法は、天皇を長とする権威のヒエラルキーにおける具体的な支配の手段にすぎない。
だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。
法の適用は上級のものほどルーズになり下級者ほど厳格になる。
国家的社会的地位の価値基準はその社会的機能よりも、天皇への距離にある。
だから皇軍兵士・軍部は国の中枢にあるのだ。
全国家秩序が絶対的価値たる天皇を中心として、連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する。
一切の人間ないし社会集団がたえず上から規定されつつ下を規定する、無規定な個人が存在しない、そういう関係においては責任という観念は希薄となる。
学生時代に読んだときと異なり、すべてがビンビン、リアルに心に響く。
ここであったが百年目、という言葉につかわれる百年とじっさいの月日を重ねて、しかも遊蕩にふける番頭がなにより畏怖する旦那に遭遇したときの、しまったという感覚をうまく表している。
ちょっと長いけれど、なかなか味わい深い噺です。
百年といえば、とても長い時間を意味していた。
子どもの頃は「百年経っても」というと「永遠に」と同義だった。
百年前の出来事とは「大昔の出来事」だった。
ところが、82歳と4カ月の僕には、もはや百年前は「今」もしくは「ちょっと前」に過ぎなくなった。
現代の子供たちも、僕の子どもの頃の時間間隔をもっていて、百年前というと大昔なのだろうか。
そして戦争中の出来事なんて現実感の伴わない「おはなし」に感じられるのだろうか。
彼らも老人になってはじめて、百年前の出来事をリアルに感じるのか、その時が手遅れになっているかもしれないのに。

丸山眞男、今「マルヤママサオ」とうちこんだら、丸山正雄と出て来たのにがっかり。
僕の学生時代にはパソコンなんてなかったけれど、マルヤママサオといえば丸山眞男と決まっていた。
岩波新書から「日本の思想」が出る時は発売前からそわそわして待った。
それほど「神格化」されていた政治学者だった。

その丸山の「現代政治の思想と行動」も文系学生にとっては必読書と云ってもいいような本だった。
もちろん僕も読んだ。
日本語で書かれているから読めた。
だが、そこで説かれる日本の「超国家主義の論理と心理」や「日本ファシズムの思想と運動」は、表面的な意味がわかったというだけ、そこで丸山が鋭く追及している戦争責任者たちの恐るべき知的退廃や無責任性はちっともリアルな迫力や実感をもたず、したがって共感や感動を感じさせなかった、ようするに「わからなかった」のだ。
いくつかのシンクロニシティがあって、図書館から借りた本書はあの頃僕が持っていたものよりずっと厚くて読みでがありそうだ。

自由民権論が、もっぱら個人ないし国民の外部的活動の範囲と境界をめぐっての争いにとどまり、近代的人格の前提たる道徳の内面化の問題が軽んじられて、教育勅語においては日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者たることを公式に宣言する。
私的なものは、すなわち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何ほどかの後ろめたさを絶えず伴っていた。
「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するというこの論理は裏返しすれば国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入する結果となる。

主権者自らのうちに「古今東西を通じて常に真善美の極致」という絶対的価値を体現しているから、国家活動はつねに同時にそういう大義の発露となる。
どんな(背信的な)ことをしてもそれが大義なのだ。
倫理が内面化されないから、たえず権力化、外的な運動への衝動が伴い(ex、国民精神総動員)、ぎゃくに権力は倫理的なものによって中和される。
本当のマキャヴェリズム、チェザーレ・ボルジャの不敵さもない。
すべてが騒々しいが、同時にすべてが小心翼々としている。
東条英機こそ日本的政治のシンボルだ。
日本の戦犯は青ざめ又は泣き、ゲーリングは哄笑する。
法は、天皇を長とする権威のヒエラルキーにおける具体的な支配の手段にすぎない。
だから遵法ということはもっぱら下のものへの要請である。
法の適用は上級のものほどルーズになり下級者ほど厳格になる。
国家的社会的地位の価値基準はその社会的機能よりも、天皇への距離にある。
だから皇軍兵士・軍部は国の中枢にあるのだ。
全国家秩序が絶対的価値たる天皇を中心として、連鎖的に構成され、上から下への支配の根拠が天皇からの距離に比例する。
一切の人間ないし社会集団がたえず上から規定されつつ下を規定する、無規定な個人が存在しない、そういう関係においては責任という観念は希薄となる。
何となく何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか。我が国の不幸は寡頭勢力によって国政が左右されていただけでなく、寡頭勢力がまさにその事の意識なり自覚を持たなかったということに倍化されるのである。
学生時代に読んだときと異なり、すべてがビンビン、リアルに心に響く。
どの一行をとっても無駄な一行がないから、丸山のいわんとすることを伝えようとすると、つぎつぎに全文を引用したくなる。
1946年に発表した「超国家主義の論理と心理」の最後。
たとえば、裏金や森友や日本の衰退になんの責任感ももたない自民党であり、その政治のいうなりになる霞が関であり、「会社のおかげで生活できているのだから、本社の指示には黙って従うべきであり社長の批判はすべきではない」という大企業エリート社員であり、付け加える必要のない「私個人的には」を必ず付け加えて自分の意見を言う人であり、宴会の席次にこだわる人たち、、である。
「日本ファシズムの思想と行動」で、初期の日本ファシズムが大衆運動に根ざさず、志士的な個人が展開したこと、彼らの行動は計画性に乏しく、ひたすら破壊だけを目標としていたことを、ナチズムなどとの違いとしてあげている。
それを読みながら、石丸伸二の顔を思い浮かべた。
都議会議員選挙に、政策を言わず、ただ大量の立候補者を擁立するという(当選ではなく)ことだけを目的とする、その在り方に、5・15や2・26事件の指導者たちの奇形の遺伝を感じたのだ。





1946年に発表した「超国家主義の論理と心理」の最後。
「天壌無窮」が価値の妥当範囲の絶えざる拡大を保障し、逆に「皇国武徳」の拡大が中心価値の絶対性を強めて行く―この循環過程は、日清・日露戦争より満州事変・支那事変を経て太平洋戦争にいたるまで螺旋的に高まって行った。日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。あれから80年後の今、僕はここで丸山が指摘したような「超国家主義の論理と心理」が根絶されることなく、永田町や霞が関または大企業、いやいや広く日本全体にしぶとく根を張って生き続けているような気がしてならない。
たとえば、裏金や森友や日本の衰退になんの責任感ももたない自民党であり、その政治のいうなりになる霞が関であり、「会社のおかげで生活できているのだから、本社の指示には黙って従うべきであり社長の批判はすべきではない」という大企業エリート社員であり、付け加える必要のない「私個人的には」を必ず付け加えて自分の意見を言う人であり、宴会の席次にこだわる人たち、、である。
「日本ファシズムの思想と行動」で、初期の日本ファシズムが大衆運動に根ざさず、志士的な個人が展開したこと、彼らの行動は計画性に乏しく、ひたすら破壊だけを目標としていたことを、ナチズムなどとの違いとしてあげている。
それを読みながら、石丸伸二の顔を思い浮かべた。
都議会議員選挙に、政策を言わず、ただ大量の立候補者を擁立するという(当選ではなく)ことだけを目的とする、その在り方に、5・15や2・26事件の指導者たちの奇形の遺伝を感じたのだ。

saheiziさんこんにちは。
読書家ですね!たくさんの本を読んでいらっしゃる、尊敬します。
視力の方はどうですか?
私老眼が進んで、眼鏡を新調したのですけど、
パソコン用の眼鏡(私パソコンはディスクトップ型です)と、新聞・本用の眼鏡二つです。
目が悪いのも善し悪しですね。
私目を酷使してしまったのかしら?
読書家ですね!たくさんの本を読んでいらっしゃる、尊敬します。
視力の方はどうですか?
私老眼が進んで、眼鏡を新調したのですけど、
パソコン用の眼鏡(私パソコンはディスクトップ型です)と、新聞・本用の眼鏡二つです。
目が悪いのも善し悪しですね。
私目を酷使してしまったのかしら?
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> yukiusagi_syakunaさん、私も古い近視の眼鏡を使って本を読んでいます。
白内障手術のあと不要だつたのにまた欲しくなりました。ちゃんと新しく作るべきなのでしょうが、もったいないから古いので間に合わせ。
白内障手術のあと不要だつたのにまた欲しくなりました。ちゃんと新しく作るべきなのでしょうが、もったいないから古いので間に合わせ。
「現代政治の思想と行動」の解説を感謝いたします
下記の正鵠を射すご指摘は読んでいて怖ろしいほどです
=「私事」の倫理性が自らの内部に存せずして、国家的なるものとの合一化に存するという
。。。。国家的なるものの内部へ私的利害が無制限に侵入する結果となる
= その在り方に、5・15や2・26事件の指導者たちの奇形の遺伝を感じたのだ
丸山眞男ゼミ出身の先生の講義に出席していまして
厳しい指摘を受けた場面が浮かびました あー ダメ学生
> りんごさん、ありがとう。
高校大学の友人にして早世したMは丸山眞男に大学に残らないかと勧められながらサラリーマンとなりました。
残って後に大学学長になった男などより優秀だったと思います。
私は一度も丸山ゼミに出たことはないんです。
高校大学の友人にして早世したMは丸山眞男に大学に残らないかと勧められながらサラリーマンとなりました。
残って後に大学学長になった男などより優秀だったと思います。
私は一度も丸山ゼミに出たことはないんです。
by saheizi-inokori
| 2025-06-24 12:35
| 今週の1冊、又は2・3冊
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