ことしもまた
2025年 05月 21日
国鉄解体で当時から赤字の貨物部門を独立の事業体にせよという難問を、自分や仲間の問題と受けとめて、必死になって、その可能性を探った僕たち。
その大事な仲間だったB君は、腎臓に病を抱えていながら、いくら僕たちが休めと言っても聞き入れず、あの柔和な笑顔を浮かべて「大丈夫ですから」といって、徹夜に近いような激務を続けて、JR貨物会社に残ってまもなく亡くなってしまった。

(神保町で「神曲」を探しながら歩いた。
彼の命日に近い今頃、その仲間たちが墓参を続けて、もう36年。
B君が生きていれば71歳か。
ことしも本郷のお寺に集まったのは7人。
いちばん若手で毎回幹事をつづけてくれたまあちゃんも70を越えて、僕が最年長だ。
お参りをしたあと、いつものように水道橋の蕎麦屋で酒を酌み交わす。
ことしは、いつもよりあの頃の懐旧談が多かった。

僕が運輸省の国鉄再建監理委員会の事務局などと、いろいろ意見を戦わすときに、B君は風呂敷に包んだ資料をもって随行して、議事録をとってくれる。
議論の進行を読んで、なにもいわなくてもさっと必要な資料をとりだしてくれた。
ようやく動きの悪いワープロが出始めた頃なので、まだ資料は手書きだったが、B君はとても早くしかも活字のように美しい字で、読みやすい資料を作ってくれた。
僕が夜中に寝ないでいろいろ考えたことを、早朝出勤してメモにまとめると,B君が美しく清書してくれる。
それを出勤前の常務理事たちの部屋に投げ込む、そんなことも多かった。
「Bさんが、佐平次さんが会議で、えらい人たちを相手に、ズバズバと厳しいことを発言するので驚いたと私たちに伝えてくれました」、Sさんの思い出話だ。
隣に座った後輩が、なんで佐平次さんは、あんなに自分(と家族)のことを顧慮せずにいつもブレずに信念を貫くことができたのか、と今さらのように尋ねるので、「それは趣味というか、考え方の問題じゃないのかな。
大学を出たというだけで、24,5で人事課長などをやらせてもらうのだから、そういうときに頑張るしかないと思っていたよ。
もしそうしなかったら、後ろめたくて気持が悪い人生を送ったと思う」と答えた。
保身のために、打算に走った人は、そのうしろめたさを隠すために、いつも自分が優秀であることを示そうとしたり、パワハラに走ったりするのじゃないのかな、とも。
いろいろあった社会人としての日々で、あの貨物会社作りの、二年足らずの日々が、苦しくても、生きているという充実感に満たされて、むしろ楽しいくらいだった。
それは、一緒に戦った皆さんと心が通いあっていたからだ。
今なら考えられないような”ブラック”な残業続きの仕事だったのに、みんなで酒も飲んだし、笑いもあった。
僕が重要な会議から帰ってくると、皆がその結論を知ろうと真剣なまなざしをむけてきた。

それにしても、なんの利害関係もない、年齢や生い立ちも異なる人たちが、かくも長きにわたって集まり(さして愉快でもないのに)続けているのは、B君の磁力がそれだけ強いからだろうか。

その大事な仲間だったB君は、腎臓に病を抱えていながら、いくら僕たちが休めと言っても聞き入れず、あの柔和な笑顔を浮かべて「大丈夫ですから」といって、徹夜に近いような激務を続けて、JR貨物会社に残ってまもなく亡くなってしまった。

ある店の棚の上の方に3冊セット、6600円であつたが、買わずに思案中)
彼の命日に近い今頃、その仲間たちが墓参を続けて、もう36年。
B君が生きていれば71歳か。
ことしも本郷のお寺に集まったのは7人。
いちばん若手で毎回幹事をつづけてくれたまあちゃんも70を越えて、僕が最年長だ。
お参りをしたあと、いつものように水道橋の蕎麦屋で酒を酌み交わす。
ことしは、いつもよりあの頃の懐旧談が多かった。

僕が運輸省の国鉄再建監理委員会の事務局などと、いろいろ意見を戦わすときに、B君は風呂敷に包んだ資料をもって随行して、議事録をとってくれる。
議論の進行を読んで、なにもいわなくてもさっと必要な資料をとりだしてくれた。
ようやく動きの悪いワープロが出始めた頃なので、まだ資料は手書きだったが、B君はとても早くしかも活字のように美しい字で、読みやすい資料を作ってくれた。
僕が夜中に寝ないでいろいろ考えたことを、早朝出勤してメモにまとめると,B君が美しく清書してくれる。
それを出勤前の常務理事たちの部屋に投げ込む、そんなことも多かった。
「Bさんが、佐平次さんが会議で、えらい人たちを相手に、ズバズバと厳しいことを発言するので驚いたと私たちに伝えてくれました」、Sさんの思い出話だ。
隣に座った後輩が、なんで佐平次さんは、あんなに自分(と家族)のことを顧慮せずにいつもブレずに信念を貫くことができたのか、と今さらのように尋ねるので、「それは趣味というか、考え方の問題じゃないのかな。
大学を出たというだけで、24,5で人事課長などをやらせてもらうのだから、そういうときに頑張るしかないと思っていたよ。
もしそうしなかったら、後ろめたくて気持が悪い人生を送ったと思う」と答えた。
保身のために、打算に走った人は、そのうしろめたさを隠すために、いつも自分が優秀であることを示そうとしたり、パワハラに走ったりするのじゃないのかな、とも。
いろいろあった社会人としての日々で、あの貨物会社作りの、二年足らずの日々が、苦しくても、生きているという充実感に満たされて、むしろ楽しいくらいだった。
それは、一緒に戦った皆さんと心が通いあっていたからだ。
今なら考えられないような”ブラック”な残業続きの仕事だったのに、みんなで酒も飲んだし、笑いもあった。
僕が重要な会議から帰ってくると、皆がその結論を知ろうと真剣なまなざしをむけてきた。

それにしても、なんの利害関係もない、年齢や生い立ちも異なる人たちが、かくも長きにわたって集まり(さして愉快でもないのに)続けているのは、B君の磁力がそれだけ強いからだろうか。
こうしている限り、B君は存在し続けるのだ。

思い出は限りなく、ですね。
私も都合よく立ち回る人生は嫌でございます。
でも、散々嫌な思いもしましたよ。
一緒に行く!必ず行く!と言っていた人たちが、結局誰も来なかったり。
「あれじゃあんまりunjakuさんが気の毒だわ・・・と言いながら
何もしてくれなかった人たち。
ハイハイそれでもひとりで突っ走りましたよ。
相変わらず家の中では「家庭内権力闘争」が続いています。
負けるもんか!
私も都合よく立ち回る人生は嫌でございます。
でも、散々嫌な思いもしましたよ。
一緒に行く!必ず行く!と言っていた人たちが、結局誰も来なかったり。
「あれじゃあんまりunjakuさんが気の毒だわ・・・と言いながら
何もしてくれなかった人たち。
ハイハイそれでもひとりで突っ走りましたよ。
相変わらず家の中では「家庭内権力闘争」が続いています。
負けるもんか!
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奇しくも今日、私ら在京の同志12名で今年1月にがんで亡くなった入社同期H氏の墓参(鎌倉)。
JR発足後間もなく新潟県小千谷に新たな発電用調整池(ダム)を建設する大工事の初代工事区長を務め、もう止めようと誰もが言ってた越後湯沢の某スキー場の最後の延命改良工事を指揮した(させられた)のも彼。
いくらいい仕事をしても死んでしまったら如何せん、参列者みんなで”生きてるだけで儲けもの”を申し合わせた次第。合掌
JR発足後間もなく新潟県小千谷に新たな発電用調整池(ダム)を建設する大工事の初代工事区長を務め、もう止めようと誰もが言ってた越後湯沢の某スキー場の最後の延命改良工事を指揮した(させられた)のも彼。
いくらいい仕事をしても死んでしまったら如何せん、参列者みんなで”生きてるだけで儲けもの”を申し合わせた次第。合掌
by saheizi-inokori
| 2025-05-21 10:26
| よしなしごと
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