鳩の使い
2025年 05月 19日
昨夜は眠れなかったな。
痒みは以前より収まった(いくらか、相変わらず保冷剤を夜中に押し当てる)のに、しかも良い本を読み終えたというのに、修行が足らんな。
眠気眼のパジャマ姿でゴミを捨てに降りたら上の奥さまとばったり、年寄りでも恥ずかしい。
それでも朝のルーテインは欠かさず、パジャマの手洗いに汗をかく。
ちょっと霧雨だけど、風があるからベランダに干す。
「宇宙の不思議」(佐治晴夫)を読了した。

第9話「未知との遭遇」、第10話「”あした”とはなんだろう」
宇宙史150億年を一年間に縮めた「宇宙カレンダー」を考えてみる。
1月1日午前0時に宇宙が誕生したとして、現在を12月31日の午後12時とするのだ。
4月中旬に銀河系が形成され、5月の中旬にはじめての恒星が光りはじめ、それらの中で巨大な星が超新星爆発をおこして最期をむかえ、そのかけらから太陽系が出来始めたのは、9月に入ってからだ。
やがて、10月の足音が近づいてくるころ地球が誕生する。
師走の中頃三葉虫が動きだし、大晦日の午後9時過ぎにアフリカあたりに人類の祖先・猿人が誕生、午後11時59分50秒ころにピラミッドなどがつくられ、現代科学が急速に進歩してからは、わずか0.1秒しか経過していない。
現代に生きる私たちは、この0.1秒の景色から全宇宙史に相当する1年、3153万6000秒の情景をかいまみようとしているのだ。
私たちの宇宙がフラクタル的(自然が自分のかたちに似た多くの部分からできているという性質、あたかもマトリョーシカ人形のように)なものであるのならば、この0.1秒の中に3153万6000秒のすべてのスペクトルがふくまれているともいえる。
すなわち、私たちの存在の”大きさ”とは、物理的な時間、空間の大きさではかるべきものではなく、”宇宙のひとかけら”であると同時に”宇宙そのもの”であるという視点から論ずべきである。
人間は思索によって宇宙を理解し、のみこんでいるのだ。

佐治は、最後に白鳥座の美しさに触れ、シューベルトの最後の歌曲集「白鳥の歌」、その掉尾を飾る「鳩の使い」が、死の直前につくられたのに、たんたんと流れる邪気のない明るい音のつながりと、いつ終わったのかさえ気がつかないほどのさりげなさが、いったいどこから来たのか、この明るさとはなにかについて、その答をシューベルトの墓碑銘が明かしてくれたという。
”音楽は此処にひとつの豊かなる宝を埋む。
なお美しき諸々の希望をも”
シューベルトがうすれゆく意識の中で最後に夢みていたのはこの”憧れ”という名の希望ではなかったか、と結ぶ。
僕は持っていたイヤフオーンを両耳に突っ込み、「鳩の使い」をスポティフアイから聞いた。
図書館から借りてきた本だが、中古でもいいからぜひ手元において繰り返し読みたいと思う。

素晴らしい本を読み終えて、落ちついた豊かな気持に満たされて、学大商店街を歩いた。
のぞくだけにするはずだった新刊本の本屋で、目についた、長谷川櫂の「『奥のほそ道』を読む」を買ってしまう。
「よく見れば なづな花咲く垣根かな」の句が、佐治の本に引かれていたのが誘因。
クレジットカードは二階でお願いします、といわれてとことこと階段を上る。
ちょっとしたジョークを言って、笑いながら階段を降りた。
すべてのことが、つながっている、と(今日も)感じた。

古本屋に行ってみたら、サルトルの「存在と無」上下が6000円で売られている。
もう何週間もおなじ場所にあって、行くたびに手にとってみるけれど、大部なのと難解そうなのと、なによりもその値段に恐れをなして、棚に戻して帰る。
焼き鳥屋で晩飯(晩酌はやめている)のお供を買う。
痒みは以前より収まった(いくらか、相変わらず保冷剤を夜中に押し当てる)のに、しかも良い本を読み終えたというのに、修行が足らんな。
眠気眼のパジャマ姿でゴミを捨てに降りたら上の奥さまとばったり、年寄りでも恥ずかしい。
それでも朝のルーテインは欠かさず、パジャマの手洗いに汗をかく。
ちょっと霧雨だけど、風があるからベランダに干す。
「宇宙の不思議」(佐治晴夫)を読了した。

第9話「未知との遭遇」、第10話「”あした”とはなんだろう」
宇宙史150億年を一年間に縮めた「宇宙カレンダー」を考えてみる。
1月1日午前0時に宇宙が誕生したとして、現在を12月31日の午後12時とするのだ。
4月中旬に銀河系が形成され、5月の中旬にはじめての恒星が光りはじめ、それらの中で巨大な星が超新星爆発をおこして最期をむかえ、そのかけらから太陽系が出来始めたのは、9月に入ってからだ。
やがて、10月の足音が近づいてくるころ地球が誕生する。
師走の中頃三葉虫が動きだし、大晦日の午後9時過ぎにアフリカあたりに人類の祖先・猿人が誕生、午後11時59分50秒ころにピラミッドなどがつくられ、現代科学が急速に進歩してからは、わずか0.1秒しか経過していない。
現代に生きる私たちは、この0.1秒の景色から全宇宙史に相当する1年、3153万6000秒の情景をかいまみようとしているのだ。
私たちの宇宙がフラクタル的(自然が自分のかたちに似た多くの部分からできているという性質、あたかもマトリョーシカ人形のように)なものであるのならば、この0.1秒の中に3153万6000秒のすべてのスペクトルがふくまれているともいえる。
すなわち、私たちの存在の”大きさ”とは、物理的な時間、空間の大きさではかるべきものではなく、”宇宙のひとかけら”であると同時に”宇宙そのもの”であるという視点から論ずべきである。
人間は思索によって宇宙を理解し、のみこんでいるのだ。

佐治は、最後に白鳥座の美しさに触れ、シューベルトの最後の歌曲集「白鳥の歌」、その掉尾を飾る「鳩の使い」が、死の直前につくられたのに、たんたんと流れる邪気のない明るい音のつながりと、いつ終わったのかさえ気がつかないほどのさりげなさが、いったいどこから来たのか、この明るさとはなにかについて、その答をシューベルトの墓碑銘が明かしてくれたという。
”音楽は此処にひとつの豊かなる宝を埋む。
なお美しき諸々の希望をも”
シューベルトがうすれゆく意識の中で最後に夢みていたのはこの”憧れ”という名の希望ではなかったか、と結ぶ。
僕は持っていたイヤフオーンを両耳に突っ込み、「鳩の使い」をスポティフアイから聞いた。
図書館から借りてきた本だが、中古でもいいからぜひ手元において繰り返し読みたいと思う。

素晴らしい本を読み終えて、落ちついた豊かな気持に満たされて、学大商店街を歩いた。
のぞくだけにするはずだった新刊本の本屋で、目についた、長谷川櫂の「『奥のほそ道』を読む」を買ってしまう。
「よく見れば なづな花咲く垣根かな」の句が、佐治の本に引かれていたのが誘因。
クレジットカードは二階でお願いします、といわれてとことこと階段を上る。
ちょっとしたジョークを言って、笑いながら階段を降りた。
すべてのことが、つながっている、と(今日も)感じた。

古本屋に行ってみたら、サルトルの「存在と無」上下が6000円で売られている。
もう何週間もおなじ場所にあって、行くたびに手にとってみるけれど、大部なのと難解そうなのと、なによりもその値段に恐れをなして、棚に戻して帰る。
焼き鳥屋で晩飯(晩酌はやめている)のお供を買う。
症状が少しでも軽くなって良かったです。
保冷剤を当てて眠るとき寒くありませんか?
こちらの気候とは違うと思いますが、それを心配しています。
保冷剤を当てて眠るとき寒くありませんか?
こちらの気候とは違うと思いますが、それを心配しています。
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by saheizi-inokori
| 2025-05-19 10:22
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(2)