「いる」ということ「いない」ということ
2025年 05月 18日
けさもビギンのおしゃべりや歌を聞きながらルーテイン家事をした。
「なんくるないさ」、沖縄言葉で、どうにかなるさ、でも投げやりな言葉ではなく、やるだけのことをやっての心境だという。
まもなく発売されるというアルバムの歌の歌詞についてのなんということもない説明に耳を傾けていた。
三線の音が沖縄の風を思い出させた。
飛行機が苦手だという義母を無理にさそって沖縄旅行をしたとき、ドライブのとちゅうで、ふとした気分で分け入った小径、こわごわと入っていくと、とつぜん開けたビックリするような美しい海岸。
義母が讃嘆の声をあげて、なんだか得意な気分になった、あのときのことなどを。
「宇宙の不思議」(佐治晴夫)は、第7話「宇宙と実在を考える」。
「星の王子さま」の飛行士と王子との会話やキツネの言葉が引用される。
「目では何も見えないよ。心で探さないとね」「家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ」
太陽を夏ミカンの大きさまで縮小してみると、一番近い星は2000kmも離れている。
原子核をリンゴの大きさまで拡大してみると、原子の大きさは直径およそ10㎞、その原子の大きさは、およそ1mmの1000万分の1くらい。
原子から宇宙まで、世界は”からっぽ”なのだ。
はたして客観的な実在があるのだろうか。
実在を確かめるのには「見る」「観測する」行為が必要なのだが、サクランボの存在を知覚するために、光をあてると、サクランボはすでに変化してしまう。
自然そのままの表情で、と言ってもカメラをむけられると、もう僕はこわばった笑いしか浮かべられない。
あとで、Mだと教えられて、はじめて僕はMと会うことができたのだ。
もし、おととい、教えられないままに帰宅してしまったら、僕はMと何十年ぶりかの再会を果たすことができなかったのだ。

ぎゃくに、誰かの「不在」も、その不在を意識する人がいなかったら、「いない」ではなくて、そもそも存在しないということになるのだろう。

第8話「時間とはなんだろう」
宮沢賢治の「わたくしという現象」(「春と修羅」)を冒頭に引いて、賢治のアインシュタインの相対性理論やミンコフスキーの幾何学へのひとかたならぬ傾倒が感じられるという。
賢治は、自らの生を”時間と空間”の複合体である”時空”つまり、「宇宙」の中の”ひとゆらぎとしてとらえようとしていたのかもしれません、と。
さらに、アウグスティヌスの「告白」における
物理現象(力学的現象)では時間の流れの方向はどちらでもよく、過去と未来は現在に対して対称になっている。
このあたりから、いぜん本書について「難しいことを優しく書いた」と評したことを撤回したくなる。
遠い昔にチラッと読んだ「測度論」に関連しているのか、とこれまたチラッと思うが何の根拠もない。
薄汚れた寮の部屋で、測度論が宇宙の「無限性」と関係するのじゃないかと話した相手はスイスの大学で地理学の泰斗となっている。
彼がここにいれば!ニヤッと笑って佐治のいうことを説明してくれるかもしれないな。
人間が時間の流れを感ずるのは、脳における記憶のメカニズムとかかわりがありそうだ。
”生きている”というプロセスをとおして、外部からエネルギーを取り入れ、記憶装置を並べ替えて、あまったエネルギーを宇宙に、たとえば熱として放出している。
この熱をすてるところをつくるために宇宙は膨張し、気体分子が拡散していくように、秩序状態から、無秩序へと向かっている。
もし、宇宙が収縮していると、このプロセスが成立せず、思考する生物は存在できず、したがって収縮宇宙は認識されないことになる。
だから、もし宇宙が膨張収縮をくりかえしていても、その宇宙の住人にとっては、つねに膨張しているように見えるのではないかと考えられる。

(深大寺で)
「なんくるないさ」、沖縄言葉で、どうにかなるさ、でも投げやりな言葉ではなく、やるだけのことをやっての心境だという。
まもなく発売されるというアルバムの歌の歌詞についてのなんということもない説明に耳を傾けていた。
三線の音が沖縄の風を思い出させた。
飛行機が苦手だという義母を無理にさそって沖縄旅行をしたとき、ドライブのとちゅうで、ふとした気分で分け入った小径、こわごわと入っていくと、とつぜん開けたビックリするような美しい海岸。
義母が讃嘆の声をあげて、なんだか得意な気分になった、あのときのことなどを。
「宇宙の不思議」(佐治晴夫)は、第7話「宇宙と実在を考える」。
「星の王子さま」の飛行士と王子との会話やキツネの言葉が引用される。
「目では何も見えないよ。心で探さないとね」「家でも星でも砂漠でも、その美しいところは、目に見えないのさ」
太陽を夏ミカンの大きさまで縮小してみると、一番近い星は2000kmも離れている。
原子核をリンゴの大きさまで拡大してみると、原子の大きさは直径およそ10㎞、その原子の大きさは、およそ1mmの1000万分の1くらい。
原子から宇宙まで、世界は”からっぽ”なのだ。
はたして客観的な実在があるのだろうか。
実在を確かめるのには「見る」「観測する」行為が必要なのだが、サクランボの存在を知覚するために、光をあてると、サクランボはすでに変化してしまう。
自然そのままの表情で、と言ってもカメラをむけられると、もう僕はこわばった笑いしか浮かべられない。
相手が原子であれ、宇宙であれ、あるいは私たちの日常世界のものであれ、それらの存在は私たちの意識の中にあるのであって、見ようという働きかけがあって、はじめて存在するものとして意識される。しかも、その存在は人個々人において、ぴったり同じに見えているかどうかを証明する方法ももちあわせていないのです。きのう書いた記事↓の同期会会場で、初めてM君に遇ったとき、その変貌のために、僕は彼をMと認めなかった。
あとで、Mだと教えられて、はじめて僕はMと会うことができたのだ。
もし、おととい、教えられないままに帰宅してしまったら、僕はMと何十年ぶりかの再会を果たすことができなかったのだ。

ぎゃくに、誰かの「不在」も、その不在を意識する人がいなかったら、「いない」ではなくて、そもそも存在しないということになるのだろう。

第8話「時間とはなんだろう」
宮沢賢治の「わたくしという現象」(「春と修羅」)を冒頭に引いて、賢治のアインシュタインの相対性理論やミンコフスキーの幾何学へのひとかたならぬ傾倒が感じられるという。
賢治は、自らの生を”時間と空間”の複合体である”時空”つまり、「宇宙」の中の”ひとゆらぎとしてとらえようとしていたのかもしれません、と。
さらに、アウグスティヌスの「告白」における
時間とはなにか、だれも私にたずねないとき、私は知っています。たずねられて説明しようと思うと、知らないのです。という言葉も引く。
物理現象(力学的現象)では時間の流れの方向はどちらでもよく、過去と未来は現在に対して対称になっている。
このあたりから、いぜん本書について「難しいことを優しく書いた」と評したことを撤回したくなる。
遠い昔にチラッと読んだ「測度論」に関連しているのか、とこれまたチラッと思うが何の根拠もない。
薄汚れた寮の部屋で、測度論が宇宙の「無限性」と関係するのじゃないかと話した相手はスイスの大学で地理学の泰斗となっている。
彼がここにいれば!ニヤッと笑って佐治のいうことを説明してくれるかもしれないな。
人間が時間の流れを感ずるのは、脳における記憶のメカニズムとかかわりがありそうだ。
”生きている”というプロセスをとおして、外部からエネルギーを取り入れ、記憶装置を並べ替えて、あまったエネルギーを宇宙に、たとえば熱として放出している。
この熱をすてるところをつくるために宇宙は膨張し、気体分子が拡散していくように、秩序状態から、無秩序へと向かっている。
もし、宇宙が収縮していると、このプロセスが成立せず、思考する生物は存在できず、したがって収縮宇宙は認識されないことになる。
だから、もし宇宙が膨張収縮をくりかえしていても、その宇宙の住人にとっては、つねに膨張しているように見えるのではないかと考えられる。

アウグスティヌスによれば、現在という「時」があるのは、過去に移り去ってなくなるからだ。
過去に移り去らないならば、もはや時ではなく永遠となる。
「時がある」といえるのは、まさしくそれが「ない方向に向かっている」からなのだ。
分かったようで分からない、でも何かがありそうな感じがする。

(叶匠寿庵 「煮小豆に餠」)





過去に移り去らないならば、もはや時ではなく永遠となる。
「時がある」といえるのは、まさしくそれが「ない方向に向かっている」からなのだ。
分かったようで分からない、でも何かがありそうな感じがする。






ああ哲学だなぁ。
ぼんくら頭にはわかんないや。
私は、思春期ごろから二十歳ごろまで、[人間の死」「私自身の死」に
恐ろしいほど悩んで生きてきました。
死を思う時、自分の有限の人生にどんな意味があるのかと馬鹿みたいに考えていました。
もちろん友人には話したことはありません。
最終的に、それは宗教の領域の問題だと気付かされたのです。
そして、それは人生の根底に何を置くか?何を信じるのか?によって変わってくることも。
「イワシの頭」を信じても「死」はわかりません。
「蛇」を信じてあがめたら、蛇になってしまいます。
賢治は宗教の高低浅深を知っていたはずですが。
やっぱ難しいやね。
ぼんくら頭にはわかんないや。
私は、思春期ごろから二十歳ごろまで、[人間の死」「私自身の死」に
恐ろしいほど悩んで生きてきました。
死を思う時、自分の有限の人生にどんな意味があるのかと馬鹿みたいに考えていました。
もちろん友人には話したことはありません。
最終的に、それは宗教の領域の問題だと気付かされたのです。
そして、それは人生の根底に何を置くか?何を信じるのか?によって変わってくることも。
「イワシの頭」を信じても「死」はわかりません。
「蛇」を信じてあがめたら、蛇になってしまいます。
賢治は宗教の高低浅深を知っていたはずですが。
やっぱ難しいやね。
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ここ何日かの宇宙の不思議についてのお話、私とても好きです。
今日は星の王子様や宮沢賢治の本も登場して、思春期の頃、宇宙、命、時間の答えを知りたがったことを思い出しました。
まともな学歴のない私ですが、数学や物理は常々ロマンティックな学問だと思います。
今日は星の王子様や宮沢賢治の本も登場して、思春期の頃、宇宙、命、時間の答えを知りたがったことを思い出しました。
まともな学歴のない私ですが、数学や物理は常々ロマンティックな学問だと思います。
by saheizi-inokori
| 2025-05-18 12:52
| 今週の1冊、又は2・3冊
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