左利きの扇子
2025年 02月 10日
けさのラジオで、左利きのための店を経営している人の話。
駅の自動改札はともかく、扇子も左利きが必要だというのにはちょっとビックリ。
右利き(普通の)扇子だと扇いでいるうちにしまってきちゃうんだって。
その人の身になって、というのも、もっと想像力を研ぎ澄まさないと追いつかないのだね。

(自由ヶ丘駅前開発)
おとといの鬼無里会、飲み放題を良いことにして、冷酒を三合飲んで、もつと飲みたくなって、帰りの等々力駅前の焼き鳥やに入りたいのを我慢、帰宅してワインを二杯に酒を一杯飲んで寝た。



わかんな~い!
そういったのは僕だけではない。
アインシュタインも、そんな不合理な世界があるものか、と思った。
量子力学のハイゼンベルクとディラックをノーベル賞に推薦しながらも、その結論が導く世界観には納得しない。
アインシュタインを敬愛するボーアが辛抱つよく新しい考え方を説明し、双方とも納得しないままお互いの考えの修正も行う。
僕も読んだことのある「ご冗談でしょうフアインマンさん」のフアインマンは「量子力学を本当に理解していいる人間は、この世にひとりもいないと言っていい」と喝破している。
現代の多くの分野の学問や多くのテクノロジーを成立させている物理学の二つの到達点である、一般相対性理論と量子力学とのあいだには、明白な矛盾がある。
いっぽうが教える世界は「屈曲した」時空間であり、そこではすべてが「連続的」で、もう一方が教える世界は「平らな」時空間であり、「離散的」なエネルギーをもつ量子がそのなかを飛び交っているのだ。
しかも、不思議なことには、二つの理論はともに、恐ろしいほど快適に機能しているではないか。
アインシュタインは、空間と時間の正体が、重力場という物理的な「場」であるとした。
ボーア、ハイゼンベルク、ディラックたちは、あらゆる物理的な場には量子の性格が備わっているという。
それならば、空間と時間(=重力場)もまた、奇妙な性質を備えた量子的存在なのか?
量子的な時間とは?量子的空間とは?これが「量子重力」と呼ばれる問題。
わからないままに、なんだか世界の深淵を覗いたような興奮に導かれて、僕もいよいよ「量子重力」の世界に立ち入るのだ。
そのためには、事物に対する自分の認識方法を根本的に変革する必要があるとロヴェッリ教授がいう。
マトヴェイが見つけた、「世界に存在する”最小の長さ”(プランク長)」、ホイーラーは量子的な空間のイメージを泡立つ海面のような「確率の雲」とした。
ホイーラー=ド・ウイッド方程式、僕にはチンプンカンプンの研究が「ループ量子重力理論」の入口に学者たちを導く。
チンプンカンプンではあるけれど、そう感じる僕自身が量子重力の世界から出来上がっているのよ。


駅の自動改札はともかく、扇子も左利きが必要だというのにはちょっとビックリ。
右利き(普通の)扇子だと扇いでいるうちにしまってきちゃうんだって。
その人の身になって、というのも、もっと想像力を研ぎ澄まさないと追いつかないのだね。

おとといの鬼無里会、飲み放題を良いことにして、冷酒を三合飲んで、もつと飲みたくなって、帰りの等々力駅前の焼き鳥やに入りたいのを我慢、帰宅してワインを二杯に酒を一杯飲んで寝た。
いつものように食器を片付けるなど、ルーティンもこなす。
酔っ払った感じはなかったけれど、いろんな夢をみて熟睡はできなかった。
酒に弱くなったのかといえば、確かに往年の半分も飲めなくなったけど、あの頃のように酔わなくなつた、酔えなくなったと言うべきかな。
ちよつと哀しい。

きのうは自由が丘でパンを買って、やはり、学大のカフェに行った。
いつもの席でいつものオーツラテと煎餅、途中でマスターが紅茶を、自分も飲むところだとサービスしてくれる。

甚だ心地よく本に集中できた。
「すごい物理学講義」は、量子力学のエッセンスを教える。
井筒俊彦先生と悪戦苦闘して追いかけてきた「事物の本質」=世界の本質を三つの側面で定義する。
① 粒性 物質と光は粒からできている。
そのことは、ある現象のうちに存在する「情報」(=ある現象の中で生じうる、たがいに区別可能な状態)の総量に限界がある(無限ではない)ことを意味する。
② 不確定性 この世界が粒状の量子が間断なく引き起こす事象によって作られていて、その量子は、別の何かと衝突したときだけ、特定の場所に突如として出現する。量子はいつ、どこに現れるのか?それを確実に予見する方法はない。未来は誰にも予言できないのだ。
目の前の一個の石も、それを構成する原子を見ることができれば、原子たちが絶間なく振動しているのが見えるはずだ。
世界とは絶間ない揺らぎであり、微視的な事象の絶間ない湧出である。不動の石ころではなく、振動と湧出こそが、世界を形づくっている。
③ 相関性 自然界のあらゆる事象は、ある過程と別の過程のあいだに生じる相互作用である。
だから、相互作用を与えあっていないとき、電子はどこにも存在しないし、事物が存在するのは、ある相互作用から別の相互作用へ跳躍するときだけである。
井筒俊彦先生と悪戦苦闘して追いかけてきた「事物の本質」=世界の本質を三つの側面で定義する。
① 粒性 物質と光は粒からできている。
そのことは、ある現象のうちに存在する「情報」(=ある現象の中で生じうる、たがいに区別可能な状態)の総量に限界がある(無限ではない)ことを意味する。
② 不確定性 この世界が粒状の量子が間断なく引き起こす事象によって作られていて、その量子は、別の何かと衝突したときだけ、特定の場所に突如として出現する。量子はいつ、どこに現れるのか?それを確実に予見する方法はない。未来は誰にも予言できないのだ。
目の前の一個の石も、それを構成する原子を見ることができれば、原子たちが絶間なく振動しているのが見えるはずだ。
世界とは絶間ない揺らぎであり、微視的な事象の絶間ない湧出である。不動の石ころではなく、振動と湧出こそが、世界を形づくっている。
③ 相関性 自然界のあらゆる事象は、ある過程と別の過程のあいだに生じる相互作用である。
だから、相互作用を与えあっていないとき、電子はどこにも存在しないし、事物が存在するのは、ある相互作用から別の相互作用へ跳躍するときだけである。

わかんな~い!
そういったのは僕だけではない。
アインシュタインも、そんな不合理な世界があるものか、と思った。
量子力学のハイゼンベルクとディラックをノーベル賞に推薦しながらも、その結論が導く世界観には納得しない。
アインシュタインを敬愛するボーアが辛抱つよく新しい考え方を説明し、双方とも納得しないままお互いの考えの修正も行う。
僕も読んだことのある「ご冗談でしょうフアインマンさん」のフアインマンは「量子力学を本当に理解していいる人間は、この世にひとりもいないと言っていい」と喝破している。
現代の多くの分野の学問や多くのテクノロジーを成立させている物理学の二つの到達点である、一般相対性理論と量子力学とのあいだには、明白な矛盾がある。
いっぽうが教える世界は「屈曲した」時空間であり、そこではすべてが「連続的」で、もう一方が教える世界は「平らな」時空間であり、「離散的」なエネルギーをもつ量子がそのなかを飛び交っているのだ。
しかも、不思議なことには、二つの理論はともに、恐ろしいほど快適に機能しているではないか。
アインシュタインは、空間と時間の正体が、重力場という物理的な「場」であるとした。
ボーア、ハイゼンベルク、ディラックたちは、あらゆる物理的な場には量子の性格が備わっているという。
それならば、空間と時間(=重力場)もまた、奇妙な性質を備えた量子的存在なのか?
量子的な時間とは?量子的空間とは?これが「量子重力」と呼ばれる問題。
わからないままに、なんだか世界の深淵を覗いたような興奮に導かれて、僕もいよいよ「量子重力」の世界に立ち入るのだ。
そのためには、事物に対する自分の認識方法を根本的に変革する必要があるとロヴェッリ教授がいう。
マトヴェイが見つけた、「世界に存在する”最小の長さ”(プランク長)」、ホイーラーは量子的な空間のイメージを泡立つ海面のような「確率の雲」とした。
ホイーラー=ド・ウイッド方程式、僕にはチンプンカンプンの研究が「ループ量子重力理論」の入口に学者たちを導く。
チンプンカンプンではあるけれど、そう感じる僕自身が量子重力の世界から出来上がっているのよ。



僕も左利きなので、いつも道具に困っています。鋏、急須、フライ返し、マグカップ(たいてい柄の向きが右利き用)、ボールペン(回転式で芯を出すタイプ)、コンビニのATMのボタン位置(右側なので押せない)などなど。
3
> k_hankichiさん、ずいぶんいろいろあるんですね、今さらながら、同情申し上げます。
それでは、心はどこに存在するのでしょう?
心の存在はだれがどのように証明するのでしょう?
人がより良く生きようとするのは、心と関係があるのでしょうか?
どんな悪事を働いても、人を殺しても、死後は同じなのでしょうか?
話が飛躍してしまいましたね。
でもこの問題こそ、思春期から私をずっと悩ませてきた問題なのです。
心の存在はだれがどのように証明するのでしょう?
人がより良く生きようとするのは、心と関係があるのでしょうか?
どんな悪事を働いても、人を殺しても、死後は同じなのでしょうか?
話が飛躍してしまいましたね。
でもこの問題こそ、思春期から私をずっと悩ませてきた問題なのです。
> unjakuさん、おそらく心の問題や倫理・宗教の問題は科学の世界では解き得ないのではないでしょうか。
湯川秀樹がインド哲学を学ぼうとしたそうですね。
私はわからないままに、本書を読み終えて、うっすらと量子論と心の動きに重なるものがあるように思いました。
この感覚は唯識論などの仏教の思想とも関連するように感じました。
どこがどうとはうまくいえませんが。
湯川秀樹がインド哲学を学ぼうとしたそうですね。
私はわからないままに、本書を読み終えて、うっすらと量子論と心の動きに重なるものがあるように思いました。
この感覚は唯識論などの仏教の思想とも関連するように感じました。
どこがどうとはうまくいえませんが。
理論なのか本当に起こっている現実なのか、物理が昔から苦手な私はチンプンカンプン、うろうろします。
> i-shoku-jyuさん、両方使えるのが一番良さそう、野球の選手にもいますね。
> ikuohasegawaさん、へえ~、それは知らなかったです。何故でしょうね。
アインシュタイン大先生も相対性理論を唱えてはいるのですが、証明はしていません。
重力波があるだろうと言ってましたが、証明していません。
E=mc²って数式をだしましたが、物が光速で突っ走ることは無いんじゃないでしょうか?
と最近勝ってに思っています。
重力波があるだろうと言ってましたが、証明していません。
E=mc²って数式をだしましたが、物が光速で突っ走ることは無いんじゃないでしょうか?
と最近勝ってに思っています。
by saheizi-inokori
| 2025-02-10 07:39
| 今週の1冊、又は2・3冊
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