仰ぎ見る山脈
2025年 02月 03日
けさもまた病院。



なんたる絢爛豪華な学問であることか!
古今東西の歴史、哲学、宗教、文学、、およそ世界の成り立ちにかかわるあらゆることを、学ばざるはなく、深く解せざるもなく、それらを共時的に取り扱って、相互の違い、関連を分析して、井筒独特の方法で真相を提示してあますところがない。
眩暈がしそうな、大きな山脈の麓に遊ぶ日々だ。
去年内視鏡でガンではないけれど、半年ごとに検査を続けなさいといわれた進んだ逆流性食道炎。
いつも親しく話しをする先生が、天下の名医に紹介状を書いてくれた。
予約制でなく到着順、早起きしてきたけれど、いろいろ何かを書かされたりして、予約外212というカードを渡されて呼び出しを待っている。

数年前にも同じ先生に紹介状をもらつて内視鏡検査をした、「酒を飲みながら治そうという人は俺は診ない」と喝を入れられたコワイ先生、あれから少しは丸くなつていることを願いつつ待っている。

きのうは「意識と本質」を一時間しか読めなかった。
禅の悟りを得たあとの、世界がどういうものなのか、誌的とも論理的ともいえる記述で、量子顕微鏡というもので覗いた世界かと思ってみたりするが、凡夫には驚くのみ。
禅の悟りについてかなり詳しく書いたのは、宋の朱子学との対比でだった。
朱子学は禅に影響されてか、静座を重要視し、そこで意識の深層において、ゼロ・ポイント(そこから意識=存在が始まっていく)に到達し、事物の「理」=「本質」を極める。
禅が、無心=無「本質」を言うのに対して、宗儒は有心の極限で「本質」の実在を突き止めるのだ。
「本質」実在論に三つの型があると、井筒が云う第一の型が宋の朱子学。
そして、昨日読んだところから、「本質」実在論の二つ目の型である「元型(アーキタイプ)」的イマージュの形象性の内に「本質」の象徴的顕現を見る、シャーマン的な型の説明に入る。
古代中国のシャマニズム文学の最高峰「楚辞」を例にとる。
井筒は「『言語アラヤ識』という用語によって、ソシュール以来の言語学が、言語(ラング 国語)と呼び慣している言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する」。
一読難解だね。
でも僕は、井筒の「コーランを読む」を読んだから、かなりこういう言葉遣いになれて、どれだけ正確かは自信がないけれど、なんとかその大意を察して読むことが苦痛ではなくなった。
言おうとすることを、極力正確に表現しようとする学者の言葉遣いなのだ。
ともあれ、井筒は、カッコ内のように考えて、そのことから、「我々が表層意識面で―つまり知覚的に―外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ。」という。
「木」という言葉に刺激されて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだすときに、それは必ず「木」のイマージュを喚起するのだと。
我々は、こうしたイマージュの介在を抜きにして「あるもの(木)の意識」を持つことはできない。
しかもイマージュなるものは、個々の言語体系や、それを母国語とする個々の主体の言語アラヤ識の内部構造によって、微妙に異なる形状をとって現れる。
きのう、灘中学の橋本先生の記事で触れた、国語の重要性はここにも現れる。
禅の悟りについてかなり詳しく書いたのは、宋の朱子学との対比でだった。
朱子学は禅に影響されてか、静座を重要視し、そこで意識の深層において、ゼロ・ポイント(そこから意識=存在が始まっていく)に到達し、事物の「理」=「本質」を極める。
禅が、無心=無「本質」を言うのに対して、宗儒は有心の極限で「本質」の実在を突き止めるのだ。
「本質」実在論に三つの型があると、井筒が云う第一の型が宋の朱子学。
そして、昨日読んだところから、「本質」実在論の二つ目の型である「元型(アーキタイプ)」的イマージュの形象性の内に「本質」の象徴的顕現を見る、シャーマン的な型の説明に入る。
古代中国のシャマニズム文学の最高峰「楚辞」を例にとる。
井筒は「『言語アラヤ識』という用語によって、ソシュール以来の言語学が、言語(ラング 国語)と呼び慣している言語的記号の体系のそのまた底に、複雑な可能的意味聯鎖の深層意識的空間を措定する」。
一読難解だね。
でも僕は、井筒の「コーランを読む」を読んだから、かなりこういう言葉遣いになれて、どれだけ正確かは自信がないけれど、なんとかその大意を察して読むことが苦痛ではなくなった。
言おうとすることを、極力正確に表現しようとする学者の言葉遣いなのだ。
ともあれ、井筒は、カッコ内のように考えて、そのことから、「我々が表層意識面で―つまり知覚的に―外的事物、例えば目前に実在する一本の木を意識する場合にも、その認識過程には言語アラヤ識から湧き上がってくるイマージュが作用しているはずだ。」という。
「木」という言葉に刺激されて、アラヤ識的潜在性から目覚めた意味「種子」が、表層意識に向かって発動しだすときに、それは必ず「木」のイマージュを喚起するのだと。
我々は、こうしたイマージュの介在を抜きにして「あるもの(木)の意識」を持つことはできない。
しかもイマージュなるものは、個々の言語体系や、それを母国語とする個々の主体の言語アラヤ識の内部構造によって、微妙に異なる形状をとって現れる。
きのう、灘中学の橋本先生の記事で触れた、国語の重要性はここにも現れる。

なんたる絢爛豪華な学問であることか!
古今東西の歴史、哲学、宗教、文学、、およそ世界の成り立ちにかかわるあらゆることを、学ばざるはなく、深く解せざるもなく、それらを共時的に取り扱って、相互の違い、関連を分析して、井筒独特の方法で真相を提示してあますところがない。
眩暈がしそうな、大きな山脈の麓に遊ぶ日々だ。
私も逆流性食道炎でパレット食道になっているためガンに気をつけないといけないんですが
検査もさぼってるし、お酒も飲むのでこの先生には診てもらえませんね
検査もさぼってるし、お酒も飲むのでこの先生には診てもらえませんね
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定期検査は大事ですね。安心、健康。ビシッと言ってくださる先生、背筋も伸びますね(^^)
> hibiscus2025さん、自信があるからピシつと言える、ありがたく承ります。

大きな山脈の麓に遊ぶ日々だ.. 正に眩暈で拝読させて頂いています
時に雲にまかれ闇雲に低空飛行していたら、先にほぉっとあかりが待ってたり
すごい豪華絢爛な学問。。そして素晴らしい優しい解説を感謝致します
人間は本当に奇跡のような生物だわと、このような出遭いの度に思います
時に雲にまかれ闇雲に低空飛行していたら、先にほぉっとあかりが待ってたり
すごい豪華絢爛な学問。。そして素晴らしい優しい解説を感謝致します
人間は本当に奇跡のような生物だわと、このような出遭いの度に思います
皮膚科の先生でカイカイの診察して貰うと「かいたら、駄目!」と怒られてましたw。
老先生は亡くなられて、若先生は怖くない。看護師さんにその話をすると「老先生は皆さん怖いって言われますね」「言ってる事は正しいけど、怖かったです!」
彼女と美容系の話で盛り上がると、急に入ってきたお局看護師が特に用も無さそうで。老先生は名医ゆえの怖さだけど…。
阿頼耶識は三島由紀夫「豊穣の海」でよく見ました。
何のことかサッパリでしたが。
やんごとないタイ?の王子2人が学習院に留学しているという設定が「春の雪」
、3巻の「暁の寺」をよく読めばアラヤシキも分かるかもしれないけど。
生憎と3巻が4冊の中で一番つまらないので…
澁澤龍彦らしき?作家も登場しますが。
老先生は亡くなられて、若先生は怖くない。看護師さんにその話をすると「老先生は皆さん怖いって言われますね」「言ってる事は正しいけど、怖かったです!」
彼女と美容系の話で盛り上がると、急に入ってきたお局看護師が特に用も無さそうで。老先生は名医ゆえの怖さだけど…。
阿頼耶識は三島由紀夫「豊穣の海」でよく見ました。
何のことかサッパリでしたが。
やんごとないタイ?の王子2人が学習院に留学しているという設定が「春の雪」
、3巻の「暁の寺」をよく読めばアラヤシキも分かるかもしれないけど。
生憎と3巻が4冊の中で一番つまらないので…
澁澤龍彦らしき?作家も登場しますが。
> stefanlilyさん、豊饒の海は初版を買って読みました。
筋ばかり追っかけて、それでも面白かったように思うけど、すでに古本屋に(期待外れの値段で)売ってしまいました。
処分しそこなった井筒の本の面白さに気づき、ああ、あれもこれも取っとくのだったかなあ、と惜しがっています。
赤線を引きながら読む、その快感が図書館本にはないのです。
筋ばかり追っかけて、それでも面白かったように思うけど、すでに古本屋に(期待外れの値段で)売ってしまいました。
処分しそこなった井筒の本の面白さに気づき、ああ、あれもこれも取っとくのだったかなあ、と惜しがっています。
赤線を引きながら読む、その快感が図書館本にはないのです。
by saheizi-inokori
| 2025-02-03 08:47
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(8)