悟る
2025年 02月 02日
天気予報にもしかして、とあったので、起きてすぐ、もしかして、と外を眺めたが、むしろ暖かそうな雨が降っていて、期待の雪は見られなかった。
それでも待望のお湿りである、いつもの雨とは違って気持ちが暗くならない。
洗濯物の部屋干しも、部屋の空気をしっとりさせてくれるようだ。

きのうの東京新聞朝刊、2011年の記事の再録。
とうじ100歳を目前にした、橋本武さんへのインタビュー記事だ。
彼は灘中・高校の教師となり、中学の三年間をずっと、中勘助の小説「銀の匙」を読み解くだけという教育を半世紀にわたってやりとおし、公立より格下とみられて、無名だつた灘高を東大合格日本一の学校にする。
遠藤周作、浜田純一・元東大学長、山崎俊充・最高裁事務総長などが、教え子だ。
駄菓子の話が出てくれば、生徒たちにデパートの地下をまわったり、専門店に問い合わせて、それに近い菓子を集めて、食べたりもさせる。
凧が出てくれば校庭で凧揚げをし、百人一首であればかるた大会が授業になる。
徹底的に横道にそれて、作者の幼少期を追体験し、作品と一体化、自分が小説を書いているような気分になって、一言一句を読み解く力が深まる。
「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」と教えた。
ご自身が中学校の先生から何も得たかと問うて、授業すら浮かんでこないことにがくぜんとしたからだ。
出てくる語句や、背後に広がる概念と考え方を解説するための「研究ノート」をガリ版でつくった。
夜を徹して作ったガリ版プリントの束を抱えて教室に入ると拍手が迎えたという。
国語力が、判断力、観察力、推理力の土台となる、「生きる力の基本」といってもいい。
ちょっと前に、どなたかのブログへのコメントで、味読に関連してこの話に触れたばかりだった。
「意識と本質」では、井筒俊彦に、人が言語(使用する国語=文化)にどれだけ大きな影響を受けているかについても読んだばかりだった。
それにしても、橋本先生(2013年に101歳で亡くなる)もすごいが、それを許した校長も大きいな。
そして、見守った親たちも。

(学大商店街で焼き鳥を買って帰った、うまかりし)
「意識と本質」から、けさは、禅の話。
禅は、他の仏教とおなじように、この世にもの・「本質」などと言うものは存在しない、存在しているとみるのは、人間たちの因縁に囚われた迷妄のせいだというけれど、それで、終わらせようとはしないと教える。
そういう「無」の世界で、どう生きていくかを、つきつめる実践の宗教だ。
禅の修行、悟りをめぐる三つの段階(菅原惟信の教え)。
その1、禅の道に入る前の段階。
山は山、川は川、山と川はそれぞれの「本質」によって規定され、相互にキッパリ「文節」されている(そう見える)。
その2、参禅して悟りの目を開いた段階。
それまで、あらゆる事物を分節していた留金だった「本質」結晶体が融けて流れ出し、山は山、川は川でなくなる。それらの客体をそのように、自分の外に見ていた主体・我もいなくなる。
すべてが「無」となる。
その3、前の段階で無化された事物が有化されて現れてくる。
悟り以前の第一段階でみたのと同じような、山や川が現れる。
第二段階の「無」は、消極的な意味の「無」ではなく、内に限りない創造的エネルギーを秘めた「無」だったのだ。
しかし、第一段階と決定的に異なるのは、今見る山や川は「本質」がないのだ。
山を山と川を川と、その「本質」、違い、文節を見るのは、倒錯した表層意識(妄念)の働きによる。
だから「本質」は、仮構・虚構であって、真に実在するものではない。
ではあるが、強烈な創造的エネルギーに満たされた『無心=心』がそれを見る。
それは、銀の盆に雪を盛ったごとく、白々として輝く月光のなかに白鷺を見るような見方だ。
何ものも弁別できない無のなかに、さらに何かをみるのだ。
それは、人それぞれが使用する言語に埋め込まれているアラヤ識的「種子」(普通人が「花」といわれれば、すっと「花の本質」を見分ける→だから、間違いなく花に意識をむける)を通じてのことかもしれない。
第一段階から第二段階への「悟り」にくらべれば、そこから第三段階に戻ることの方がはるかに難しい。
これらのことは、頭で理性的に考えて理解するものではなく、理解も出来ない。
凄まじい修行のなかで、深層意識的に、「悟る」ことによって実存了解されるのだ。

それでも待望のお湿りである、いつもの雨とは違って気持ちが暗くならない。
洗濯物の部屋干しも、部屋の空気をしっとりさせてくれるようだ。

きのうの東京新聞朝刊、2011年の記事の再録。
とうじ100歳を目前にした、橋本武さんへのインタビュー記事だ。
彼は灘中・高校の教師となり、中学の三年間をずっと、中勘助の小説「銀の匙」を読み解くだけという教育を半世紀にわたってやりとおし、公立より格下とみられて、無名だつた灘高を東大合格日本一の学校にする。
遠藤周作、浜田純一・元東大学長、山崎俊充・最高裁事務総長などが、教え子だ。
駄菓子の話が出てくれば、生徒たちにデパートの地下をまわったり、専門店に問い合わせて、それに近い菓子を集めて、食べたりもさせる。
凧が出てくれば校庭で凧揚げをし、百人一首であればかるた大会が授業になる。
徹底的に横道にそれて、作者の幼少期を追体験し、作品と一体化、自分が小説を書いているような気分になって、一言一句を読み解く力が深まる。
「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」と教えた。
ご自身が中学校の先生から何も得たかと問うて、授業すら浮かんでこないことにがくぜんとしたからだ。
出てくる語句や、背後に広がる概念と考え方を解説するための「研究ノート」をガリ版でつくった。
夜を徹して作ったガリ版プリントの束を抱えて教室に入ると拍手が迎えたという。
国語力が、判断力、観察力、推理力の土台となる、「生きる力の基本」といってもいい。
ちょっと前に、どなたかのブログへのコメントで、味読に関連してこの話に触れたばかりだった。
「意識と本質」では、井筒俊彦に、人が言語(使用する国語=文化)にどれだけ大きな影響を受けているかについても読んだばかりだった。
それにしても、橋本先生(2013年に101歳で亡くなる)もすごいが、それを許した校長も大きいな。
そして、見守った親たちも。

「意識と本質」から、けさは、禅の話。
禅は、他の仏教とおなじように、この世にもの・「本質」などと言うものは存在しない、存在しているとみるのは、人間たちの因縁に囚われた迷妄のせいだというけれど、それで、終わらせようとはしないと教える。
そういう「無」の世界で、どう生きていくかを、つきつめる実践の宗教だ。
禅の修行、悟りをめぐる三つの段階(菅原惟信の教え)。
その1、禅の道に入る前の段階。
山は山、川は川、山と川はそれぞれの「本質」によって規定され、相互にキッパリ「文節」されている(そう見える)。
その2、参禅して悟りの目を開いた段階。
それまで、あらゆる事物を分節していた留金だった「本質」結晶体が融けて流れ出し、山は山、川は川でなくなる。それらの客体をそのように、自分の外に見ていた主体・我もいなくなる。
すべてが「無」となる。
その3、前の段階で無化された事物が有化されて現れてくる。
悟り以前の第一段階でみたのと同じような、山や川が現れる。
第二段階の「無」は、消極的な意味の「無」ではなく、内に限りない創造的エネルギーを秘めた「無」だったのだ。
しかし、第一段階と決定的に異なるのは、今見る山や川は「本質」がないのだ。
山を山と川を川と、その「本質」、違い、文節を見るのは、倒錯した表層意識(妄念)の働きによる。
だから「本質」は、仮構・虚構であって、真に実在するものではない。
ではあるが、強烈な創造的エネルギーに満たされた『無心=心』がそれを見る。
それは、銀の盆に雪を盛ったごとく、白々として輝く月光のなかに白鷺を見るような見方だ。
何ものも弁別できない無のなかに、さらに何かをみるのだ。
それは、人それぞれが使用する言語に埋め込まれているアラヤ識的「種子」(普通人が「花」といわれれば、すっと「花の本質」を見分ける→だから、間違いなく花に意識をむける)を通じてのことかもしれない。
第一段階から第二段階への「悟り」にくらべれば、そこから第三段階に戻ることの方がはるかに難しい。
これらのことは、頭で理性的に考えて理解するものではなく、理解も出来ない。
凄まじい修行のなかで、深層意識的に、「悟る」ことによって実存了解されるのだ。

外は、雨が静かに降り続いて、気温が下がってきた。
雪の予感。
銀の匙を読む授業…聞いた覚えあります。
ただし、最近の中学校だったような?
遠藤周作の恩師ですか…あのフジテレビの人はどうなるんでしょう。
花の本質。
例の引退した人は「世界に一つだけの花」を歌っていたのにね。
「東京は自分に合わない」と言ってた東京近郊出身者だったけど。
ヤクルトはフジテレビがよく取材してますが(横浜はTBS)、心配ですね。
リルケは何か読んでるはずが、ど忘れしてます(笑)
ただし、最近の中学校だったような?
遠藤周作の恩師ですか…あのフジテレビの人はどうなるんでしょう。
花の本質。
例の引退した人は「世界に一つだけの花」を歌っていたのにね。
「東京は自分に合わない」と言ってた東京近郊出身者だったけど。
ヤクルトはフジテレビがよく取材してますが(横浜はTBS)、心配ですね。
リルケは何か読んでるはずが、ど忘れしてます(笑)
0

「銀の匙」を一年かけて教えた先生とはこういう方でしたか。
メキシコの貧しい町で今もなお教えているファレス先生と通じるところが確かにありますね。
「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」って本当だなあとつくづく思います。
メキシコの貧しい町で今もなお教えているファレス先生と通じるところが確かにありますね。
「すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなる」って本当だなあとつくづく思います。
> テイク25さん、3年かけて、ですよ、気の遠くなるスローリーディングですね。
by saheizi-inokori
| 2025-02-02 12:51
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
Trackback
|
Comments(4)