リルケとマラルメの本質追求

遅い朝飯、こんがり焼いたトースト、一枚は亜麻仁油で、もう一枚はこの間自然食品カフエで買ってきた、奄美タンカンジャムで食う。
野菜の方が多い野菜スープと豆乳ヨーグルトにはクルミやアサイイ、それにイチゴもトッピングしてある。
磨いたばかりの窓の外には、たくさんの洗濯物が明るい日差しに揺れている。
ラジオからは、心地良い曲が流れている。
このひと時が最高なのだ。
プチブル趣味?そうかもしれないな。
太宰の嫌悪した「家庭の幸福」、それがなにか?

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きのうは夕方の散歩まで、ずっとサンチを膝に抱いて本を読んだ。
おろすと、クンクン哀し気に鳴くのがほっておけない。
僕のすべすべしたパンツに、ときどき滑り落ちそうになってはもがく、それを抱き上げ抱き上げ、あたたかい
塊を抱いて本に集中した。

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井筒俊彦「意識と本質」。

「ホンの戯言」と銘打っているのだから、読んだ本のことを書く。
前はぜんぶ読み終えてから、きちんと概要の紹介をして、読後感を書いていた。
最近は、ずっと大部のものを読むことが増えたのと、意図的に、努力して、ゆっくり味読しようとするから、一冊の本を読み終えるのに時間がかかるので、読み終えてからでは、ブログのネタがない。
じぶんのオサライを兼ねて、とちゅうまでの内容や感想を書くことにした。
いぜんのように、本を読んでいない人にもわかるように、丁寧に内容の紹介をするのをさぼって、自分が気になった個所の引用やとびとびの感想だけを乱雑に書きなぐっている。
申し訳ないとはおもっているのですが。

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それ自体としては「存在」に関わりのない一般的な「花」が、存在することによって個別化されて「この花」、つまりここに眼前する個体としての「花」となる、と言ってしまえば、それまでのこと、多くの人の日常生活には、それで済ませて何の支障もない。
しかし、それではどうしても満足できない人たちがいる。
「この花」を真にこの花として体験する場合、「この花」にはただの「花」とは根源的に違う何かが現れているという存在感覚が働くからだ。
「この花」をただの「花」ではなくて、「この花」たらしめる、異次元のリアリティーがあって、それは一般者、すなわち普遍的「本質」とは違った、もう一つ別の「本質」でなくてはならないという考えが、この根源的存在感覚から生じてくる。
芸術家たちが、目の前の一輪の花を絵画や詩歌や彫刻や写真などに表現したいと思うのは、その花の本質に魅せられて、自分を捉えて放さないその本質を表現したいという衝動に駆られるからではなかろうか。

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リルケにとって、眼前の花を、普遍的一般的な「花」として、つまり前のブログに書いた言葉で言えば、ものをその普遍的「本質」、マーヒーヤをとおして見ることは、ただちに「眼前のこの花」の本源的個体性(フウィーヤ)を最大公約数的平均価値のなかに解消してしまうことを意味した。
彼は、「この花」の独自性(フウィーヤ)を徹底的に追求する。
しかし、我々の使う言語的意味文節の支配する表層意識には、フウィーヤは、ぜったいに自己を開示しないことを、彼は体験的に確信していた。
彼は「意識のピラミッド」の下方に広がる「内部の深層次元」において、ものは始めてものとしての本来的リアリティー、すなわちフウィーヤを開示することを発見する。
深層体験を表層言語によって表現するという悩み、それは表層言語を内的に変質させて、異様な実存的緊張に充ちた詩的言語、一種の高次言語の誕生につながる
それを歌う彼の心は狂人のそれに近かった。

マラルメは「本質」探究においてリルケと対蹠的立場に立つ。
彼は、リルケと正反対に、個物の個体性を無化し、無化しつくしたところに、「冷酷にきらめく星の光」のように浮かび上がってくる普遍的「本質」(マーヒーヤ)の凄まじい形姿を見た。
「仏教を知ることなしに虚無をみた」とマラルメはいう。
そして、その虚無の先に「美」をみいだした。
時間・偶然性の支配を超脱した「本質」の実在性の次元、絶対美の領域に事物を昇華させる、そのことを詩人としての己の使命とした。
そこでマラルメが使う言葉は、日常のコミュニケーションのための言語ではなく「絶対言語」だった。
経験的事物を殺し、普遍的実在を呼び起こすコトバだ。
私が花!と言う。すると、私の声が、いかなる輪郭をもその中に払拭し去ってしまう忘却の彼方に、我々が日頃狎れ親しんでいる花とは全く別の何かとして、どの花束にも不在の、馥郁たる花のイデ―そのものが、音楽的に立ち現れてくる(マラルメ「詩の危機)
鬼気迫る緊迫の、詩の終焉宣言でもあった。

Commented by unjaku at 2025-02-01 20:17
あいかわらず難しいお話ですねぇ。
リルケもマラルメも深追いしたことはないので、
あくまでも表面化した言葉の意味しか理解していないのかもしれません。
私は詩人でも哲学者・あるいは思想家でもないので、
一つ一つの言葉の深追いした意味はわかりません。
でも、この寒い冬の時期を耐えて芽生えてくる草花の芽・花芽に出会うと
「ああ・・よく冬の寒さに耐えて目覚めたんだね。」と感謝にも似た素直な喜びに
浸ります。蕾だったら、寒さの次に来る季節を待っていてね。
寒さの中に咲く花なら「なんて愛おしい。ただただ嬉しいわ」と思います。
難しい話とは全く関係なく花は自分の咲く季節を知っているのです。

人生に例えるなら、なんでしょう?
苦しくとも逃げられない環境の中で、じっと身を伏せるようにして、あらたな季節を
信じて待つそんな時こそ、鍛えられている時なのでしょうか?
Commented by saheizi-inokori at 2025-02-01 21:49
> unjakuさん、花はその力をどこから得たのでしょうか、その力の「本質」とは?他の花との違いは?世界の不思議について、どう考えるのか、本書はちつとも難解ではありませんよ。
興味を持つならば、分かろうとするならば。
Commented by watmooi at 2025-02-01 22:38
サンチちゃん愛おしいですね。
お花屋さんの優しいピンクのチューリップがとてもいい感じです。
Commented by unjaku at 2025-02-01 22:55
ごめんなさい。酔っぱらっています。
どうにもならないことを書きそうなので、
お返事は明日にします。すみません。
Commented by at 2025-02-02 06:48
余談で恐縮です。「夕刊フジ」が休刊・・・
吉行淳之介「贋食物誌」。山口瞳「酒飲みの自己弁護」
すいすい読めてしまう、大好きなエッセーでした。
山藤画伯のウイットの利いたイラスト。
可楽や馬風という未知の落語家がそこにははっきりといたのです。
Commented by saheizi-inokori at 2025-02-02 10:33
> watmooiさん、甘えられるといろいろやることができなくなりますが、あったかいサンチを抱いていると、こっちが優先です。
散歩の途中の小さな花や、窓から覗くだけです。
Commented by saheizi-inokori at 2025-02-02 10:34
> unjakuさん、どうぞ、ごゆっくり、心までお酔いください。
今のその時をお大事に、ね^^。
Commented by saheizi-inokori at 2025-02-02 10:36
> 福さん、かつてはそういうメデイアだったのですね。
わたしもサンケイビジネスアイ(といったかな)に書評を連載したことがありますよ^^。
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by saheizi-inokori | 2025-02-01 12:57 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(8)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori