保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである
2025年 01月 27日
きのうも日曜日のルーテインになりつつある学大にでかけて、いつものカフエのいつもの席(元の安楽椅子)に座って、いつものオーツミルクラテとアラレを前において、昨年9月に亡くなった福田和也の最後の本「保守とは横丁の蕎麦屋を守ること」を読んだ。

サンデー毎日に連載されたもの、ほかに石原慎太郎と角川春樹を称賛する短い文章も載っている。
僕は、福田がこういう題名の本を遺したと知り、保守の本質論を読むつもりで図書館から借りたのだったが、ちょっと高尚な食べ歩き本だったのはがっかりした。
でも、ここに取り上げられたおでんの「おぐ羅」は、僕が東京駅黒塀横丁のおでん屋を開発するときに指導を仰いだ店だし、門仲の「魚三酒場」も現職時代に部下をつれて、半分勉強かたがた遊んだ店、「連玉庵」は鈴本で落語を聴くときにしばしば昼飯を食ったし、御徒町の「たる松」もなんどか暖簾をくぐっていて、いずれも素晴らしい店だと思うから、福田が本書で言わんとするところはよくわかった。

という訳で、けっきょく最後まで一冊を読み終えたのだ。
マスターが、「あったまりますよ」と熱いほうじ茶をサービスしてくれたのは、その心が温かかった。

温かい気持になって、外に出て学大商店街をひとめぐり。
いつも必ず寄る古本屋、めったにないことだが、向こうから話しかけてくる本があって、そういう本は、きっと満足を与えてくれるのだ。
なかなかない、それでいいのだ。

レコードカフェ、若者たちでいっぱいのようだ。

「鳩の湯」、銭湯だった設備をいかした居酒屋、入ったことはないけれど、いつも若者で一杯。

そば粉のクレープの店、ここもいつも若者が長い行列を作っている。
寒風吹きすさぶなかでも、仲良しとおしゃべりしていれば平気だろう。
帰りのバスで、立って二駅ほどすぎたら、若い女性が、はっと気づいたように立ち上がって「すみませんでした、どうぞ」と席を譲ってくれる。
どうもありがとうございます、と座ったが、身障者マークをつけてもいないし、優先席でもないのに、僕がよほど疲れて見えたかとも思い、しかしふたたび温かい気持になった、ありがとうよ。


かつて福田恒存は、「保守とは、横丁の蕎麦屋を守ることだ」と看破した。そんな思いを抱く福田が、志のある店主が経営する、町で長く親しまれた名店、大井町のトンカツ屋「丸八」、銀座のおでん屋「おぐ羅」、上野の蕎麦屋「連玉庵」、居酒屋「たる松」、浅草居酒屋「たぬき」、神保町洋食屋「キッチン南海」、門前仲町「魚三酒場」、京都懐石料理「千花」、、など東京と京都の18軒を食べ歩く。
毎日、とは言わないまでも日常に通う店、つまりは自分の生活スタイルを保持すること、そのために失われやすいものに対して、鋭敏に、かつ能動的に活動する精神を、保守と言う。
サンデー毎日に連載されたもの、ほかに石原慎太郎と角川春樹を称賛する短い文章も載っている。
僕は、福田がこういう題名の本を遺したと知り、保守の本質論を読むつもりで図書館から借りたのだったが、ちょっと高尚な食べ歩き本だったのはがっかりした。
でも、ここに取り上げられたおでんの「おぐ羅」は、僕が東京駅黒塀横丁のおでん屋を開発するときに指導を仰いだ店だし、門仲の「魚三酒場」も現職時代に部下をつれて、半分勉強かたがた遊んだ店、「連玉庵」は鈴本で落語を聴くときにしばしば昼飯を食ったし、御徒町の「たる松」もなんどか暖簾をくぐっていて、いずれも素晴らしい店だと思うから、福田が本書で言わんとするところはよくわかった。
それまでの、恵まれた立地に胡坐をかいて、回転重視、質より数字を追い求める、東京駅構内の飲食店のあり方に反発して、町の「名店」(セレブにしか行けないような贅沢な店ではない)とひけをとらないような店を用意することこそ、「世界の東京駅」の魅力・品位を高め、真の意味の「お客様第一」につながる、と思って、心身をすり減らして黒塀横丁、キッチンストリート、「ギーニョ・ギーニョ」(スペインレストラン、有楽町)の開発をした。
右心房ブロックで倒れてペースメーカーを埋め込むような悪戦苦闘だったが、そのころ出席した高校同期との集いで、ある大学教授が「あの佐平次が、どこの蕎麦がうまいだなんてことに夢中になっているとは」と半ば蔑むようなことを言ったのをよく覚えている。
本書で、福田が「コロナ禍になって、日本の政府の要人たちの多くが飲食店を文化だと思っていないことに驚いた。一つの店がつぶれたところで、いくらでも取り換えがきくと思っている」と書いているのには、まったく同感で、留飲を下げた。
右心房ブロックで倒れてペースメーカーを埋め込むような悪戦苦闘だったが、そのころ出席した高校同期との集いで、ある大学教授が「あの佐平次が、どこの蕎麦がうまいだなんてことに夢中になっているとは」と半ば蔑むようなことを言ったのをよく覚えている。
本書で、福田が「コロナ禍になって、日本の政府の要人たちの多くが飲食店を文化だと思っていないことに驚いた。一つの店がつぶれたところで、いくらでも取り換えがきくと思っている」と書いているのには、まったく同感で、留飲を下げた。

という訳で、けっきょく最後まで一冊を読み終えたのだ。
マスターが、「あったまりますよ」と熱いほうじ茶をサービスしてくれたのは、その心が温かかった。

温かい気持になって、外に出て学大商店街をひとめぐり。
いつも必ず寄る古本屋、めったにないことだが、向こうから話しかけてくる本があって、そういう本は、きっと満足を与えてくれるのだ。
なかなかない、それでいいのだ。

レコードカフェ、若者たちでいっぱいのようだ。

「鳩の湯」、銭湯だった設備をいかした居酒屋、入ったことはないけれど、いつも若者で一杯。

そば粉のクレープの店、ここもいつも若者が長い行列を作っている。
寒風吹きすさぶなかでも、仲良しとおしゃべりしていれば平気だろう。
帰りのバスで、立って二駅ほどすぎたら、若い女性が、はっと気づいたように立ち上がって「すみませんでした、どうぞ」と席を譲ってくれる。
どうもありがとうございます、と座ったが、身障者マークをつけてもいないし、優先席でもないのに、僕がよほど疲れて見えたかとも思い、しかしふたたび温かい気持になった、ありがとうよ。

席を譲られて、素直に頂く。
頂くって表現が変鴨しれませんが
それしか出てこなくて(;'∀')
そういうヒトに腸串もなりたい。
(まだ譲られたこと無いのです)
☝
自分が年齢より若く見えると言ってる
のではありません(念の為)
頂くって表現が変鴨しれませんが
それしか出てこなくて(;'∀')
そういうヒトに腸串もなりたい。
(まだ譲られたこと無いのです)
☝
自分が年齢より若く見えると言ってる
のではありません(念の為)
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所謂「高級店」ではない魅力的
お店ほど、「奇跡」のような力とバランスで成り立っていることが多い気がします。
お店ほど、「奇跡」のような力とバランスで成り立っていることが多い気がします。
坪内祐三、福田和也など、まだまだ活躍の余地がある年代で亡くなってとても残念です。
学大近辺、風情があって良いなあ。
学大近辺、風情があって良いなあ。
私もしばしば出会います。
かなりの高齢の方、目の前に立って毅然としていらっしゃいますが、
「よろしければ、おかけになりませんか?」と声をかけると、気持ちよく
座っていただけます。
ただ、あんまり疲れていて、舟をこいでいたりすると気が着かないこともあるのです。
あとで、「ああ申し訳ないことをした。」と思うのですが手遅れです。
かなりの高齢の方、目の前に立って毅然としていらっしゃいますが、
「よろしければ、おかけになりませんか?」と声をかけると、気持ちよく
座っていただけます。
ただ、あんまり疲れていて、舟をこいでいたりすると気が着かないこともあるのです。
あとで、「ああ申し訳ないことをした。」と思うのですが手遅れです。
> tsunojirushiさん、そうですか。
私は、経営者の志が大事だと思います。
それは力やバランスも必要だとは思いますが、奇跡というほどのものではないのではないでしょうか。
店側だけでなく、客側にもそういう店を評価し育てていくことも求められると思います。
私は、経営者の志が大事だと思います。
それは力やバランスも必要だとは思いますが、奇跡というほどのものではないのではないでしょうか。
店側だけでなく、客側にもそういう店を評価し育てていくことも求められると思います。
> k_hankichiさん、福田と坪内は意見が合わないことが多かったけれど、保持とは横丁の蕎麦屋を守ること、という言葉では一致したとか。
by saheizi-inokori
| 2025-01-27 12:27
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(10)