御用始め
2025年 01月 06日
きょうから出勤という人も多いのだろうな。
現役時代の御用始めのことが懐かしい。
国鉄本社のときは、9階大会議室で幹部たちが総裁の挨拶を聞いたはずだが、そのことははっきりしない。
職員局に戻って来る途中の廊下にはスルメを炙る匂いが充満している。
酒は地方から届いた一升瓶を大きなヤカンにどぶどぶと注ぎ入れて電熱器で御燗する。
茶碗酒である。
暮れの挨拶にはほとんどの地方局がやってきて、なにかお土産を置いて行くところも少なくなかった。
大分の「西の関」とか山口の「五橋」など当時東京の僕たちの口には入らない酒、ふぐ刺しを持参する門鉄局の人もいた。
千葉は殻つき落花生が定番で、みんなはいい音をさせて割っていた。
華やかな着物姿の女性職員たちが、いつもと別人のようだった。
6人相部屋の課長室で幹部が局長の挨拶のあと乾杯して、すぐに自分の部屋に戻ってみんなと乾杯。
国鉄再建の名のもと、毎年合理化交渉・スト対策などで寧日はないから、束の間の安らかなひと時だった。
小一時間もわいわいやっていると、本社内の関係個所や隣接するビルにいる東京三管理局の連中、なかには地方局からも早々挨拶にやってくる。
国労動労鉄労全施労などの組合事務所に挨拶に行ったり、来られたりする。
幹部たちは運輸省や大蔵省、公労委の関係各部署にも挨拶に行く。
一般職員は暮れの内からメンツを組んで麻雀に出る者が多い。
それと知らずに「俺も入れてよ」といったら気まずそうに断られた。
御用始めから二三日は、公私の挨拶のやりとりや賀詞交歓会などで仕事には手がつかない。
僕は、暮れに行ったばかりの所へまた行くような挨拶の応酬(相手が不在だと名刺をおいてくるだけ)がほとほと嫌になって、衝動的に4日から休みをとって家族と長野に二泊三日の旅行をしたことがある。
長野管理局の幹部に後輩がいて、子供たちをスキー場に連れていってくれて、そり遊びを楽しんだり、懐かしい権堂のアーケード街で中華そばを食べたりもした。
もちろん、善光寺詣りもして、僕が幼い頃に住んだ近辺を歩いたりした。

鉄道会館のときは、まず各テナントをまわって挨拶をしたあと、東京駅の正面に移って皇居の年賀に集まる人たちをお迎えして、ホッカイロと東京駅名店街のパンフレットを配って、「おめでとうございます。お帰りは東京駅名店街にどうぞ、温かいラーメンなどを用意しておまちしています。」
帰る人たちには、「トイレもあります」と声をからした。
飲食店の店長たちが秋の旅行会で盛り上がって決めた、杵と臼を用意した餅つきも楽しく実行された。
千葉支社の正月は、ねんねん盛大になり、最後は100チームで選手が500人、応援団が千人以上となった駅伝大会が忘れられない。
僕も京葉企画という子会社の人たちのチームに入れてもらって、毎年アンカーで3キロ走って、かなりの人数を追い抜いた。
5人のチームがみんな同じコースを走って、そのタイムが測定されるから、現場にいくとお互いのタイムの話で「勝った、負けた!」と、すぐに打ち解けるのだった。

みんなみんな、夢のなかの出来事のよう、思い出すと懐かしくて胸がしめつけられるよう、なのに、思い出すたびに、天然色の色がうすくなり、細部がぼやけていく。
ゆうべ、散歩のとちゅうで、園芸高校の金網フエンス越しに、水仙を撮っていたら、うしろから「ありがとう」という声がした。
振り返ると道を挟んだ家の二階の窓から、おじさんが笑顔でこっちを向いている。
「じいちゃんが、放ったんだわ、ソレ、だんだん増えてきてね」という。
そういえば、なんだか雑草の一部のように咲いている。

それでもう一枚撮って振り返ると、手をあわせて感謝の合図、なにか好いことをしたような気になった。
放る、ってどうしたのだろう、種?それとも、そのまんま?
そんなことを考えながら歩いた。
現役時代の御用始めのことが懐かしい。
国鉄本社のときは、9階大会議室で幹部たちが総裁の挨拶を聞いたはずだが、そのことははっきりしない。
職員局に戻って来る途中の廊下にはスルメを炙る匂いが充満している。
酒は地方から届いた一升瓶を大きなヤカンにどぶどぶと注ぎ入れて電熱器で御燗する。
茶碗酒である。
暮れの挨拶にはほとんどの地方局がやってきて、なにかお土産を置いて行くところも少なくなかった。
大分の「西の関」とか山口の「五橋」など当時東京の僕たちの口には入らない酒、ふぐ刺しを持参する門鉄局の人もいた。
千葉は殻つき落花生が定番で、みんなはいい音をさせて割っていた。
華やかな着物姿の女性職員たちが、いつもと別人のようだった。
6人相部屋の課長室で幹部が局長の挨拶のあと乾杯して、すぐに自分の部屋に戻ってみんなと乾杯。
国鉄再建の名のもと、毎年合理化交渉・スト対策などで寧日はないから、束の間の安らかなひと時だった。
小一時間もわいわいやっていると、本社内の関係個所や隣接するビルにいる東京三管理局の連中、なかには地方局からも早々挨拶にやってくる。
国労動労鉄労全施労などの組合事務所に挨拶に行ったり、来られたりする。
幹部たちは運輸省や大蔵省、公労委の関係各部署にも挨拶に行く。
一般職員は暮れの内からメンツを組んで麻雀に出る者が多い。
それと知らずに「俺も入れてよ」といったら気まずそうに断られた。
御用始めから二三日は、公私の挨拶のやりとりや賀詞交歓会などで仕事には手がつかない。
僕は、暮れに行ったばかりの所へまた行くような挨拶の応酬(相手が不在だと名刺をおいてくるだけ)がほとほと嫌になって、衝動的に4日から休みをとって家族と長野に二泊三日の旅行をしたことがある。
長野管理局の幹部に後輩がいて、子供たちをスキー場に連れていってくれて、そり遊びを楽しんだり、懐かしい権堂のアーケード街で中華そばを食べたりもした。
もちろん、善光寺詣りもして、僕が幼い頃に住んだ近辺を歩いたりした。

鉄道会館のときは、まず各テナントをまわって挨拶をしたあと、東京駅の正面に移って皇居の年賀に集まる人たちをお迎えして、ホッカイロと東京駅名店街のパンフレットを配って、「おめでとうございます。お帰りは東京駅名店街にどうぞ、温かいラーメンなどを用意しておまちしています。」
帰る人たちには、「トイレもあります」と声をからした。
飲食店の店長たちが秋の旅行会で盛り上がって決めた、杵と臼を用意した餅つきも楽しく実行された。
千葉支社の正月は、ねんねん盛大になり、最後は100チームで選手が500人、応援団が千人以上となった駅伝大会が忘れられない。
僕も京葉企画という子会社の人たちのチームに入れてもらって、毎年アンカーで3キロ走って、かなりの人数を追い抜いた。
5人のチームがみんな同じコースを走って、そのタイムが測定されるから、現場にいくとお互いのタイムの話で「勝った、負けた!」と、すぐに打ち解けるのだった。

みんなみんな、夢のなかの出来事のよう、思い出すと懐かしくて胸がしめつけられるよう、なのに、思い出すたびに、天然色の色がうすくなり、細部がぼやけていく。
ゆうべ、散歩のとちゅうで、園芸高校の金網フエンス越しに、水仙を撮っていたら、うしろから「ありがとう」という声がした。
振り返ると道を挟んだ家の二階の窓から、おじさんが笑顔でこっちを向いている。
「じいちゃんが、放ったんだわ、ソレ、だんだん増えてきてね」という。
そういえば、なんだか雑草の一部のように咲いている。

それでもう一枚撮って振り返ると、手をあわせて感謝の合図、なにか好いことをしたような気になった。
放る、ってどうしたのだろう、種?それとも、そのまんま?
そんなことを考えながら歩いた。
わぁ〜水仙が咲いてるわ
香りがしそう🎵
香りがしそう🎵
4
> rinrin1345さん、いつも水仙に最初に反応してくれるのが貴女、いつコメント来るかなと思いながら(何度か)載せました^^。

「西の関」は私の故郷、大分県国東町(旭日地区)の萱嶋酒造が今も蔵元で活躍中の地酒にて、国東半島内の居酒屋にて(焼酎ではない)「日本酒」と頼めば、間違いなく、この銘柄の旧二級酒のお燗が供されるかと思います。
酒に不可欠の米も水もそんなに美味しいものとも思わず、瀬戸内海(豊後水道)の温暖な気候と半島沿岸の“白砂青松”、そして(柔道場の)青畳表の“七島藺”(シットウイ)の生産が唯一誇れるものと思ってました由。
酒に不可欠の米も水もそんなに美味しいものとも思わず、瀬戸内海(豊後水道)の温暖な気候と半島沿岸の“白砂青松”、そして(柔道場の)青畳表の“七島藺”(シットウイ)の生産が唯一誇れるものと思ってました由。

ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
> たまさん、いかにも堂々たる、これぞ由緒正しき日本酒、そんな感じがする西の関、また飲みたいなあ。
御用始め、という響きも良いものですね。
> hibiscus2025さん、はい、御用納め、四方拝、懐かしい言葉です。

ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
by saheizi-inokori
| 2025-01-06 12:48
| よしなしごと
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