金持ちになった流刑者
2024年 12月 08日
昼飯を食ったサンチがよく寝ているようなので、温かいうちにと散歩に出た。
いつもは満員のカフエががらがらなので、つい誘われるようにして入ってしまう。
一時間と思ったのに、本が面白くて二時間近くになってしまう。
帰宅すると、玄関でサンチが悲し気に啼いている。
よしよし、となぜてやると尻尾を振って喜ぶ。
暖かいリビングのソファで、いっしょに休んでやると、また鼾をかいて寝てしまう。
16歳8月、がんばれよ。
1707年にできたグレートブリテンでは、犯罪者を植民地に追放して厄介払いをした。
とうしょはアメリカ合衆国だったが、独立後それは歓迎されなくなった。
西アフリカは風土病のおそれもあり苛酷にすぎた。
そこで選ばれたのがキャプテン・クックが探査されていたオーストラリアだった。
1788年1月26日(オーストラリア建国記念日)に11隻からなる受刑者を詰め込んだ船団が、シドニー・コーヴに基地を設け「ニューサウスウエールズ」と名づけた。
(ひとつ頂戴して玄関においたら、いい香り)
(おとといは僕の腹の上で寝る)
それをネコババしたのが、シンクレア船長、イギリスの法律では受刑者はいかなる財産も所有できず、誰かを告訴することも法廷で証言する権利もなかったのだ。
しかし、オーストラリア現地の法務官・コリンズ判事は、陪審員全員が軍人で構成される法廷を開き、イギリス本国法を適用せず、夫婦は勝訴し15ポンドを得た。
これがオーストラリアで判決が下された初めての民事訴訟だった。
ニューサウスウエールズ流刑地は当初、受刑者と監視人(大半は軍人)から成っていて、1820年代まで「自由入植者」はほとんどいなかった。
監視人たちは受刑者を強制労働させて、金儲けをしようとしたが、それはうまくいかなったのは、北アメリカのジェームズタウン植民地でヴァージニア会社がうまくいかなったのと同様で、受刑者には熱心に働くインセンティブがなかったからだ。
先住民は広大な土地に散らばっていて、その人口密度は彼らの搾取によって経済活動を始めるのには不足していた。
そういう事情が、ラテンアメリカの場合と異なって、最終的に本国イギリスよりもさらに包括的な諸制度を生み出す。
読み書きのできないヘンリー・ケーブルは、1798年までに「勇み駒(ランピング・ホース)」という名のホテルを所有し、店も一軒持ち、船を購入しアザラシの毛皮の取引に乗り出す。
1809年には、少なくとも九か所、約1・9平方キロメートルの農場を所有し、たくさんの店舗と住宅をシドニーに持っていた。
オーストラリア・シドニーと北アメリカ・ヴァージニア州ジェームズタウンのケースはよく似ていた。
どちらも、ラテンアメリカや東南アジアやアフリカのような収奪的な植民地制度の構築が不可能だった。
先住民を搾取するにも人口密度が低すぎ、金や銀といった貴金属がたやすく手に入るわけでもなく、奴隷制プランテーションが経済的に成り立つだけの土壌や作物もなかった。
ヴァージニア会社も、ニューサウスウエールズを運営していた軍人や自由植民者も、圧力に負けて徐々に包括的な経済制度を築いていったのだ。
それが、イングランドにおける清教徒革命や名誉革命、さらにフランス革命を経ずして、産業革命を広げて豊かな国となれた遠因なのだ。
いつもは満員のカフエががらがらなので、つい誘われるようにして入ってしまう。
一時間と思ったのに、本が面白くて二時間近くになってしまう。
帰宅すると、玄関でサンチが悲し気に啼いている。
よしよし、となぜてやると尻尾を振って喜ぶ。
暖かいリビングのソファで、いっしょに休んでやると、また鼾をかいて寝てしまう。
16歳8月、がんばれよ。
1707年にできたグレートブリテンでは、犯罪者を植民地に追放して厄介払いをした。
とうしょはアメリカ合衆国だったが、独立後それは歓迎されなくなった。
西アフリカは風土病のおそれもあり苛酷にすぎた。
そこで選ばれたのがキャプテン・クックが探査されていたオーストラリアだった。
1788年1月26日(オーストラリア建国記念日)に11隻からなる受刑者を詰め込んだ船団が、シドニー・コーヴに基地を設け「ニューサウスウエールズ」と名づけた。
その中の一隻に、ヘンリー・ケーブル、スザンナ・ケーブルという夫婦の受刑者とその息子も乗っていた。
スザンナは盗みで有罪とされ、当初は死刑を宣告され、後に減刑されてアメリカ合衆国へ14年の流刑に減刑されたが、合衆国の独立で実行できなくなり、オーストラリアに送られることになったのだ。
そうこうするうちにスザンナはイングランドの拘置所でおなじく受刑者のヘンリーと出会い、恋に落ちて幼い息子も出来ていた。
スザンナがひとりだけオーストラリアに送られるという悲劇の噂が、カドガン夫人という慈善家の耳に入る。
彼女は運動を組織し、夫婦は息子とともにオーストラリアに送られることになり、20ポンドの募金を集めて必要な生活用品を買ってやり、それはボタニー湾に着いたときにヘンリー夫妻に渡されることになっていた。
スザンナは盗みで有罪とされ、当初は死刑を宣告され、後に減刑されてアメリカ合衆国へ14年の流刑に減刑されたが、合衆国の独立で実行できなくなり、オーストラリアに送られることになったのだ。
そうこうするうちにスザンナはイングランドの拘置所でおなじく受刑者のヘンリーと出会い、恋に落ちて幼い息子も出来ていた。
スザンナがひとりだけオーストラリアに送られるという悲劇の噂が、カドガン夫人という慈善家の耳に入る。
彼女は運動を組織し、夫婦は息子とともにオーストラリアに送られることになり、20ポンドの募金を集めて必要な生活用品を買ってやり、それはボタニー湾に着いたときにヘンリー夫妻に渡されることになっていた。
それをネコババしたのが、シンクレア船長、イギリスの法律では受刑者はいかなる財産も所有できず、誰かを告訴することも法廷で証言する権利もなかったのだ。
しかし、オーストラリア現地の法務官・コリンズ判事は、陪審員全員が軍人で構成される法廷を開き、イギリス本国法を適用せず、夫婦は勝訴し15ポンドを得た。
これがオーストラリアで判決が下された初めての民事訴訟だった。
ニューサウスウエールズ流刑地は当初、受刑者と監視人(大半は軍人)から成っていて、1820年代まで「自由入植者」はほとんどいなかった。
監視人たちは受刑者を強制労働させて、金儲けをしようとしたが、それはうまくいかなったのは、北アメリカのジェームズタウン植民地でヴァージニア会社がうまくいかなったのと同様で、受刑者には熱心に働くインセンティブがなかったからだ。
先住民は広大な土地に散らばっていて、その人口密度は彼らの搾取によって経済活動を始めるのには不足していた。
そういう事情が、ラテンアメリカの場合と異なって、最終的に本国イギリスよりもさらに包括的な諸制度を生み出す。
読み書きのできないヘンリー・ケーブルは、1798年までに「勇み駒(ランピング・ホース)」という名のホテルを所有し、店も一軒持ち、船を購入しアザラシの毛皮の取引に乗り出す。
1809年には、少なくとも九か所、約1・9平方キロメートルの農場を所有し、たくさんの店舗と住宅をシドニーに持っていた。
オーストラリア・シドニーと北アメリカ・ヴァージニア州ジェームズタウンのケースはよく似ていた。
どちらも、ラテンアメリカや東南アジアやアフリカのような収奪的な植民地制度の構築が不可能だった。
先住民を搾取するにも人口密度が低すぎ、金や銀といった貴金属がたやすく手に入るわけでもなく、奴隷制プランテーションが経済的に成り立つだけの土壌や作物もなかった。
ヴァージニア会社も、ニューサウスウエールズを運営していた軍人や自由植民者も、圧力に負けて徐々に包括的な経済制度を築いていったのだ。
それが、イングランドにおける清教徒革命や名誉革命、さらにフランス革命を経ずして、産業革命を広げて豊かな国となれた遠因なのだ。
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ikuohasegawa at 2024-12-08 16:41
がんばれよ。
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saheizi-inokori at 2024-12-08 18:00
> ikuohasegawaさん、ありがとう。この二三日、甘えが多くなりました。
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unjaku at 2024-12-09 13:01
後ろ姿の素敵なおじさまは,もしかしてsaheijiさん?
気になってます。
気になってます。
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saheizi-inokori at 2024-12-09 14:31
> unjakuさん、いいえ、残念ながら店のマスター、ずつと若いのです。
by saheizi-inokori
| 2024-12-08 11:01
| 今週の1冊、又は2・3冊
|
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