学芸大学駅周辺はなぜクールなのか
2024年 10月 29日
カミさんがサンチを見ているからといってくれたので、とりあえず外に出た。
しばらく歩いて、やってきたバスに乗る。
この前見つけて、休もうとしたら、すみません火曜日はカフエは休みなんです、と断られた三谷の店にいってみる。
がっかり、月曜日はシャッターもしまってカフエ以外も休み。
駒沢通り沿いで、いつも目にしている大きな店の二階にあがったら、ボロボロのソファなどが置いてあって、若い子たちがくつろいでいる。
メニューをみたら、アサイボールなどとセットで1300円みたいなものばかり、二時間制でドリンクフリー、コーヒーの単品はなさそうなので、注文せずに外に出る。
学芸大学駅のまわりをぶらぶら歩く。
海外の何かで、東京の(日本の?)「クールな街」のトップにランク付けされたとかでテレビに紹介されることが増えた。
そのせいか、いぜんは見られなかった外国人のカップルなどの姿があちこちにみられる。
どこがクール?
ランドマークのような建物もなく、遊戯施設もなく、煌びやかなフアッション店もない、細い小路があちこちにある、再開発がなされなかった、昔ながらのふつうの東京の町なのだが、そういうところがいいのかもしれない。
これといって、東京代表みたいなものはないけれど、逆にたいていのものはある。
古い小さな建物を改装してこじゃれた店にしたり、僕が今履いている靴は、ここの靴屋で専門技術で僕専用のソウルを作ってくれた。
高いけれど、この靴を履いて脊椎管狭窄症、変形性膝関節症の痛みを克服して、こうやって歩けるようになったのだ。
昼はひっそり沈んでいるけれど、夜になるといろんな個性豊かな小さな飲食店が姿を現す。
その名のように、ここには1964年まで東京学芸大学があった。
それだからか、けっこう充実した本屋があり、古本屋も頑張っていて、音楽喫茶もある。凝ったオーディオ製品の店も。
コスタというチェ―ンのカフエを初体験。
「魔女とキリスト教―ヨーロッパ学再考」(上山安敏)を読み始める。
小アジア、地中海世界の母性宗教がヨーロッパ人の土着の神々と習合し、今我々が想像する以上に人々の心をとらえた。
このような自然と魔術と女性が一体となった観念は、キリスト教にとって恐るべき敵だった。
パウロは、エフェソスのアルテミス寺院の太母神信仰=ディアナ信仰の売春、大酒、不倫などの堕落した道徳観と戦った。
アルテミス神は、子供も含めた供犠を要求し、聖地コリントのアクロポリスの丘にある寺院には、千人以上の寺院売春婦がいて、コリントへの旅は売春の旅という評判があった(伊勢神宮でも内宮と外宮の間に遊郭があった)。
パウロは、巡礼者がお守りや土産に買う銀でつくったアルテミス像を、偶像としてその生産や販売を非難した。
さらに、アジア州一帯の金融取引の中心でもあったアルテミス寺院の聖職者が7~8パーセントの利子で貸し付けていた。
イエスもこれを非難した。
黙示録のヨハネはパウロと対立し、処女神アルテミス信仰を引き継ぎ、マリア信仰の教会をたてる。
ヨハネの死後、エフェソスでは、金銀細工や寺院や神の模型を巡礼者に売るようになり、アジア的な神秘宗教を受け容れる。
魔女、キュベレ神、ディオニソスの秘儀、アッティス像、、多くの写真が挿入されて、想像力をかきたてる。
(立ち読み、石破がなぜ「新党さきがけ」に加わらなかったのを調べる)
帰宅して夕刊(東京)を見ると、佐伯啓思が「ハーンが愛した日本文化 失いつつある面影求めて」という文章が目に入る。
先ごろ亡くなった松岡正剛が、日本文化を捉えるキーワードとして大事にしていたのが「面影」と言う言葉、いまはなきものの記憶をよび覚まして昔のイメージを喚起する、過ぎ去ってすでに「ない」ものが。いま「ある」もののなかに浮かび上がってくる、というような現実感覚が日本文化の重要な特質だ、というような意味合いだ。
ラフカディオ・ハーンが松江滞在の頃に書いた「知られぬ日本の面影」という大著がある。
それは、日本人がその素朴な信仰心を失い西洋化や合理化に突き進むことを恐れつつも、予感して描かれた。
佐伯は、ハーンの死後120年、日本がますます「面影」を失いつつあり、「地方を守る」という政治家の言葉もむなしく響く、と嘆き
学大前の街が「クール」なのは、面影があちこちに感じられるからだろうか。
それならば、ずっとこのまま、「再開発」などがなされないことを望もう。
しばらく歩いて、やってきたバスに乗る。
この前見つけて、休もうとしたら、すみません火曜日はカフエは休みなんです、と断られた三谷の店にいってみる。
がっかり、月曜日はシャッターもしまってカフエ以外も休み。
駒沢通り沿いで、いつも目にしている大きな店の二階にあがったら、ボロボロのソファなどが置いてあって、若い子たちがくつろいでいる。
メニューをみたら、アサイボールなどとセットで1300円みたいなものばかり、二時間制でドリンクフリー、コーヒーの単品はなさそうなので、注文せずに外に出る。
学芸大学駅のまわりをぶらぶら歩く。
海外の何かで、東京の(日本の?)「クールな街」のトップにランク付けされたとかでテレビに紹介されることが増えた。
そのせいか、いぜんは見られなかった外国人のカップルなどの姿があちこちにみられる。
どこがクール?
ランドマークのような建物もなく、遊戯施設もなく、煌びやかなフアッション店もない、細い小路があちこちにある、再開発がなされなかった、昔ながらのふつうの東京の町なのだが、そういうところがいいのかもしれない。
これといって、東京代表みたいなものはないけれど、逆にたいていのものはある。
古い小さな建物を改装してこじゃれた店にしたり、僕が今履いている靴は、ここの靴屋で専門技術で僕専用のソウルを作ってくれた。
高いけれど、この靴を履いて脊椎管狭窄症、変形性膝関節症の痛みを克服して、こうやって歩けるようになったのだ。
昼はひっそり沈んでいるけれど、夜になるといろんな個性豊かな小さな飲食店が姿を現す。
その名のように、ここには1964年まで東京学芸大学があった。
それだからか、けっこう充実した本屋があり、古本屋も頑張っていて、音楽喫茶もある。凝ったオーディオ製品の店も。
大学門前町の俤がそこはかとなく、感じられる。
それにしても、大学はどこにあったのだろう。
それにしても、大学はどこにあったのだろう。
コスタというチェ―ンのカフエを初体験。
「魔女とキリスト教―ヨーロッパ学再考」(上山安敏)を読み始める。
魔女裁判において、とくに女性がターゲットにされ、サディズム的風景が繰り広げられたのはなぜなのか。
この疑問は今日のフェミニズムとも運動とも重なる問題である。
グローバルな視野から見て、キリスト教ほど女性解放や人権の擁護に牽引車的役割を果した宗教はないだろう。ところが信仰のフィーバーが高まった時期に女性への攻撃が激化するのである。
この矛盾をどう解くのか。
小アジア、地中海世界の母性宗教がヨーロッパ人の土着の神々と習合し、今我々が想像する以上に人々の心をとらえた。
このような自然と魔術と女性が一体となった観念は、キリスト教にとって恐るべき敵だった。
パウロは、エフェソスのアルテミス寺院の太母神信仰=ディアナ信仰の売春、大酒、不倫などの堕落した道徳観と戦った。
アルテミス神は、子供も含めた供犠を要求し、聖地コリントのアクロポリスの丘にある寺院には、千人以上の寺院売春婦がいて、コリントへの旅は売春の旅という評判があった(伊勢神宮でも内宮と外宮の間に遊郭があった)。
パウロは、巡礼者がお守りや土産に買う銀でつくったアルテミス像を、偶像としてその生産や販売を非難した。
さらに、アジア州一帯の金融取引の中心でもあったアルテミス寺院の聖職者が7~8パーセントの利子で貸し付けていた。
イエスもこれを非難した。
黙示録のヨハネはパウロと対立し、処女神アルテミス信仰を引き継ぎ、マリア信仰の教会をたてる。
ヨハネの死後、エフェソスでは、金銀細工や寺院や神の模型を巡礼者に売るようになり、アジア的な神秘宗教を受け容れる。
魔女、キュベレ神、ディオニソスの秘儀、アッティス像、、多くの写真が挿入されて、想像力をかきたてる。
帰宅して夕刊(東京)を見ると、佐伯啓思が「ハーンが愛した日本文化 失いつつある面影求めて」という文章が目に入る。
先ごろ亡くなった松岡正剛が、日本文化を捉えるキーワードとして大事にしていたのが「面影」と言う言葉、いまはなきものの記憶をよび覚まして昔のイメージを喚起する、過ぎ去ってすでに「ない」ものが。いま「ある」もののなかに浮かび上がってくる、というような現実感覚が日本文化の重要な特質だ、というような意味合いだ。
ラフカディオ・ハーンが松江滞在の頃に書いた「知られぬ日本の面影」という大著がある。
それは、日本人がその素朴な信仰心を失い西洋化や合理化に突き進むことを恐れつつも、予感して描かれた。
佐伯は、ハーンの死後120年、日本がますます「面影」を失いつつあり、「地方を守る」という政治家の言葉もむなしく響く、と嘆き
だが、それでもわれわれは、「面影」をたえず探し続けるのであろう。と結んでいる。
学大前の街が「クール」なのは、面影があちこちに感じられるからだろうか。
それならば、ずっとこのまま、「再開発」などがなされないことを望もう。
Commented
by
kadakura at 2024-10-29 15:03
再開発されずにそのままの街。
いいですね(=゚ω゚)ノ ホッとします。
東京の街のあちこちに、お店が閉まっちゃってる
ゴーストタウンみたいなところがあるそうですが。
代官山とかオリンピック選手村とか汐留とか。
実感はおありですか?
陰謀論者の妄想鴨しれませんが、金融崩壊が
起きて、商業施設なんかもガタガタになったら
街の小さなお店が盛り返すような気がします。
願望含む、です。
いい靴屋さんがあるんですね。
裏山鹿デス。
靴は合わないのを履くと100Mも歩けません(;'∀')
腰がアレレって感じで、ピタッと止まってしまう。
自分に合った靴はだいじにだいじに履いています(*''ω''*)
いいですね(=゚ω゚)ノ ホッとします。
東京の街のあちこちに、お店が閉まっちゃってる
ゴーストタウンみたいなところがあるそうですが。
代官山とかオリンピック選手村とか汐留とか。
実感はおありですか?
陰謀論者の妄想鴨しれませんが、金融崩壊が
起きて、商業施設なんかもガタガタになったら
街の小さなお店が盛り返すような気がします。
願望含む、です。
いい靴屋さんがあるんですね。
裏山鹿デス。
靴は合わないのを履くと100Mも歩けません(;'∀')
腰がアレレって感じで、ピタッと止まってしまう。
自分に合った靴はだいじにだいじに履いています(*''ω''*)
2
Commented
by
saheizi-inokori at 2024-10-29 15:44
> kadakuraさん、挙げられた所に最近行ったことはないので分かりませんが、大きなショッピングセンターが出来たりすると、街がシャッター街になるということは有りがちのように思います。
とくに地方で。
偶然見つけた靴屋、ありがたいです。
とくに地方で。
偶然見つけた靴屋、ありがたいです。
Commented
by
tsunojirushi at 2024-10-29 15:47
いわゆる「エモい」という魅力なのですかね…。
木鶏堂で手に入れられた本の引用が興味深いです。宗教はパワーゲームなのか…と考えさせられます。
木鶏堂で手に入れられた本の引用が興味深いです。宗教はパワーゲームなのか…と考えさせられます。
Commented
by
Solar18 at 2024-10-29 17:31
面影って、そもそもどういう意味なのでしょう。わからなくなりました。
Commented
by
saheizi-inokori at 2024-10-29 21:47
> tsunojirushiさん、エモイ、イマイチ意味がピンときません。
若い世代と言葉が違うのは寂しいことです。
宗教のヘゲモニー争いは、表向き一神教が勝つのですが、ドッコイ、多神教も根強く生き残るのですね。
若い世代と言葉が違うのは寂しいことです。
宗教のヘゲモニー争いは、表向き一神教が勝つのですが、ドッコイ、多神教も根強く生き残るのですね。
Commented
by
saheizi-inokori at 2024-10-29 21:55
> Solar18さん、ハーンはglimseと書いたのを面影と訳したのですが、今逆に「面影」を英語に訳そうとすると、なかなか適当な言葉が見つからないと佐伯が書いています。
日本文化の底流をなすキーワードたる所以でしょうか。
日本文化の底流をなすキーワードたる所以でしょうか。
Commented
by
k_hankichi at 2024-10-29 22:35
「これといって、東京代表みたいなものはないけれど、逆にたいていのものはある」・・・こういうことが街には必要なのですね。ニューファミリー(これも死語かな?)向けに作られた綺麗すぎる新興街区が詰まらない理由がここにあるのですね。
Commented
at 2024-10-30 10:32
x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented
by
saheizi-inokori at 2024-10-30 10:53
> k_hankichiさん、みんなが生き残っていることの良さ、とでもいいましょうか。
Commented
by
saheizi-inokori at 2024-10-30 10:55
by saheizi-inokori
| 2024-10-29 13:12
| こんなところがあったよ
|
Trackback
|
Comments(10)