”やさしい”男の先駆け 庄司薫「赤頭巾ちゃん 気をつけて」(中央公論社) |
大学紛争で東大入試が中止になったとき、日比谷高校3年生・庄司薫の、あたかもブログを読むような、わずか二日間の物語だ。

学業優秀、性格もよく、”女中”(お手伝いというのを嫌がる気のいいお姉さん)もいるイイトコのお坊ちゃん、スポーツもテニスやら何でもできる。当時にしては凄いことだったが軽免許もあって車も運転する。ガリベンではないが毎朝7時には起きて文学やら左翼系の情報もしっかり学んでいる。ピアノもかなりうまい。作中で「中村紘子のような先生につきたい」と主人公に言わせているのがご愛嬌だ(後で著者は結婚しちゃうんだもの)。要するに非の打ち所のないいい男。高校の芸術派の連中に揶揄される。東大法学部を出て大蔵省にいって順調にえらくなるんだろう!俗物め、と。俺だって目の前にいたら嫌な奴と思うな(僻みもあるけど)。
本人もそういう自分にあきたらない。きちんと自分の意思をはっきり言わないから付き合いやすいやさしい男と思われているだけで、本当は要領も悪いし冷たいところもあるし・・思われている自分と実際はずいぶん違うのに・・。生爪はがして行った病院の女医さんが白衣の下が裸なのをみて襲いたくなる衝動を必死に抑え込む。抑え込む自分にもうんざりする。親切な友人が”男”にしてやろうとランチキパーテイに誘うがみんな裸になっても彼だけはそうしない。
東大に進んだ二人の兄貴。ぼくの好きな下の兄貴を見ながら、
たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える、限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないかといったことを漠然と感じたり考えたりしている。
東大入試がなくなったのをきっかけに大学に行くのをやめて自分で何処までやれるか、生きてみようと決意する。
普通に約束された”エリートコース”を進むのは気が進まない。さりとて三派系全学連のような生き方も無責任で知的ではないようだ(同情的興味もあり必ず街頭カンパには応じているのだが)。ここのところは当時は極めて重要な問題で薫もしっかり批判をしている。この小説のテーマといってもいいくらい。
兄貴の仲間たちが面白がって書きっこをしている中で「馬鹿馬鹿しさのまっただ中で犬死にしないための方法序説」というのがベストセラーになっている。その中に、何かの問題にぶつかったら、とにかくまずそれから逃げてみること。特に重大そうな問題であればあるほど、逃げまくれ。逃げ切れたら結局どうでもよかった問題だ。どうしても逃げきれない問題があったら、それが自分の問題だ、というのがあった。
薫の今の生き方はまさにそうなのかも知れない。本当に重要な問題以外は適当に対応・やり過ごして生きていく。だが・・。
逃げて逃げて逃げまくって、確かに馬鹿ばかしさのまっただ中で明らかな犬死になんかはしないとしても、それで結局ぼくはどうなるというのだろう。たとえばその結果、多くのどうでもいい問題から逃げきり、そしてほんとうに重大な問題だけを見つけたとしても、その時にはもうそれを解決する力も時間もなかったということになったら、一体どうなるというのだろう。(略)そもそもこのぼくに,そんなどうでもいいことから逃げて逃げて逃げまくるといった或る意味で最も強く難しい生き方をする資格があるのだろうか。(略)ぼくは何を我慢して頑張っているのだろう?この昭和元禄阿波踊りの時代に、このそうだ、この「狂気の時代」に。
薫はなぜ自分が阿波踊りの仲間に気楽に加わらないのかと自問する。
激しくどす黒い抑えきれぬ力をもって、ほんの身じろぎ一つしただけで、もうぼくをめちゃくちゃにひきずりまわそうとされているような気持ちに襲われる。
危うく自暴自棄になるところをメルヘンのような美しい挿話が現出して彼は救われる。もういちど自分の生き方を取り戻すのだ。知性とやさしさ。人間としての誠実さ。資格があるかどうかより人間としての義務があるということか。
俺よりちょっと若い薫クン、既視感もある。ずいぶん、違うモンだな、とも思う。痛感するのは彼は生きていく・食っていくことの恐怖とは無縁なんだ、そこが俺なんかと大違い。
もっとも、著者がこれを書いたのは32,3歳の頃だ。高校生にしては老成したとすら感じさせる落ち着いた物言いはそのせいもあるだろう。
今読んでいる、本田由紀「多元化する”能力”と日本社会」という本は面白い。
日本がポスト近代社会になって、従来の能力のある人による支配・統治の社会、学歴のような客観的・標準的な手続きで能力があるとみなされる仕組み(メリトクラシー)が”人間力”とでも言うような、より人間存在全体に関わるようなものさし(学歴はいわば予選段階)で”出世”が決まるようになってきた(そういう競争に加われなかった大勢の大衆は、その場その場の欲求に突き動かされた”個性的”生き方をしている)。
そういう”人間力”のようなものは本人が生れ落ちた家庭環境、特に母親との関係によって左右されるのではないかという。
さらに”豊かな社会”になって、目標達成による満足が薄れる。目標達成に向けての無気力・倦怠感がみられ”ガリベン”も少なくなる、という。かつてのような激烈な競争はなくなったかもしれない(そういう社会を歓迎するような言説が多いけれど、本田はそういう事態がつまるところ個人の尊厳を脅かし、不平等な社会になっていくと危惧しているのだが)。
そんな社会で真面目に生きていく人に”やさしさ”というのはひとつの大事な価値なのかもしれない。”やさしさ”それ自体が。
”やさしさ”大流行の昨今だ。
ポスト近代社会を予感した悩みとやさしさ。庄司薫クンは時代の先端を行っていたのかも知れない。第61回芥川賞は優れた選考をしたのです。

わたしにとって饒舌な文体の原体験はこの『赤頭巾ちゃん気をつけて』。20年以上ぶりに手に取ってみた。 見出したのは曰く言い難い懐かしさ。『赤頭巾ちゃん気をつけて』には作者の青春とともにあの時代の息吹が密封保存されていた。 作品の舞台となっている1960年代末には小学生ですらなかったわたしが当時の空気を記憶しているとは思えないから、この懐かしい感じが脳内で合成処理されたものであることは間違いないのだけれど(テレビや漫画?)、この懐かしさには実感が伴っている。 この時期の日本は高度成長期に最中...... more


「赤頭巾ちゃん気をつけて」。Webで読めるので再読中なのですが、おもしろいです。はた目には優等生の薫くん。自分が他人の目にどう映るかを気にし過ぎる、自意識過剰という気はしますが、他人の思惑が手に取るように分かってしまうからこそ…... more

取り寄せないと、ないようです。
でも、やはり気にかかっている方は多いようで、普段私のブログを読んではおられない方からもコメントをいただきました。。
私も読んで、30年後の赤頭巾ちゃんを体験せねば。。
TBさせていただきました。
ちゃんとお小遣いでハードカバーの本を買ってです(笑)
当時のおいらにとってはとても新鮮な本でした。すっごく♪
当時の小説のことや、情景を懐かしく思い出しました。
