”幽玄”を体現する文字とは?石川九楊『「二重言語国家・日本」の歴史』(青灯社)(1)
2006年 04月 02日
すべてをまとめて伝えることは俺には無理だから、何回かに分けてその一部を伝えてみたい。芸術新潮の2月号が「ひらがなの謎を解く」という筆者の特集をしているので併せて見ていく。
書のスタイルが大きく変化するときは、時代の無意識(歴史を動かす源泉である自覚されない意識)が大変貌を遂げている時代だ
その考え方を藤原俊成(1114~1204)の書「日野切」について講義するところから紹介してみよう。
中国の一部とでも云うべき「倭」の時代が、663年の白村江の敗戦を境に「和」の時代、すなわち日本の独立に転換していく。その中で漢字に対する仮名が創られていく。女手といわれるひらがなとカタカナ。女手は漢を男と見立てたときの女ということであって女性も使うが男性も使うし創り手も女性というわけではない(もっとも文字が女性に解放され女性が文化創造に参画しえたということは日本の一大特質なのだが)。
その女手のひとつの到達点が小野道風、藤原佐理、藤原行成の三蹟の時代、900年から1000年だ。「流れる」「中間の」「傾きの」「耽美の」美学。中国の美学が政治の美学で「垂直」と「天」、陰陽両極端の美学に対し「反・非・脱中国」の日本の美学である。とはいえ常にそれは漢の裏側に張り付く”ニ併”構造としての和の完成。「和漢朗詠集」に見られる歌合がその姿だ。その時代精神を思慕したのが西行だ。
そのような古典上代様をさらに進めたものが俊成の書だ(右上の写真を参照)。後期上代様の頂点、見ての通りいかにも”悪筆”といいたくなるような書。これが「千載和歌集」、すなわち「幽玄」の美を表すのだと筆者は説く。
「や」の字(1行目・5つ目)の第1筆の回転部は、上代様なら筆を回しながら書線の幅を綺麗に漸減漸増させて書いていきます。その最もカーヴすべき部分でギャッと力を入れ、ピッと返してしまう。尖るわけですが、これはたんに形が尖るだけでなく、グッと紙の奥、向こう側に力が加わったということでもある。つまり向こう側を知り、そのことによって自分の姿をも認識し、そして次に進もうとする書がここにあるナゼ、これが幽玄か?
流れるように時間と空間が溶け合った姿で進んでいくのではなく、時間を一度止めて、空間に向かってグッと突き込んでいく。対象をそこで知って、今度はまた時間で流れていく。時間と空間が分離していくような姿で進みはじめたその姿が、おそらく幽玄ということだろうと思います
古典上代様と後期上代様の違いとは摂関期の道長の精神と院政期の白河法皇や、後白河法王の精神のかたちの違いである。
古典上代様の意識とは「匿名性」の意識であった。これに対し後期上代様の意識は「実名性」の意識だ。個性とか自意識ともいえる。
ところがこうした俊成による自己確立の流れはその後の日本のスタンダードにはならなかった。この後に登場するのは後鳥羽上皇の”反動”ともいえる古典回帰だ。さらに俊成の子、定家の「近代秀歌」である。
以降、日本の書は中世の「流儀書道」という長く退屈な時代につながっていく。
このような流れは偶然によるものではなく背後に十字軍による中東とヨーロッパの出会い、モンゴルによるユーロシア大陸制覇の影響なのだ。
南宋からの亡命者などが直接的に、中国内部の動きが間接的に日本の鎖国的状況を揺り動かして大陸世界とつながる動きを起こす。
日本語は漢語に依存しているから、漢語抜きに日本語はありえない。漢語が大きく動くと、その影響は直接に及んでくる。宋の文化が新しい漢語と共に入り込んで来て、民衆レベルに鎌倉仏教として伝えられることで今のわれわれに直結する歴史が始まる。俊成の革命の挫折が今の時代の始まりでもある。
初めまして けんけん と言います。 よく知られている古典の中から、和歌(短歌や俳句)などを紹介し、独自の解説をしています。 また、千年以上も前に生きた人たちと現代に生きる私たちとの感覚の違いなども、深く考察してみたいと思ってブログ作りました。ぜひごらんくださいね。... more
石川の本、もう中身を忘れているのですよ。面白かったこと興奮したことは覚えているけれど、あのあと書の展示会などで「アァ、石川がこれについて何か言っていたなあ」とは思うが何を言っていたかが思い出せない。