黙って偲ぶ
2024年 05月 22日
きのうは、毎年恒例のB君を偲ぶ会があった。
去年、風呂からあがると電話で、「今どこにいますか」、その日が偲ぶ会の日であることをうっかりして一週間後だと思い込んでいた。
したがって、僕は二年ぶりの出席、幹事のM君も早め、一週間前に確認のメールをくれた(早すぎるきらいはあったが)。
集合場所は水道橋駅、僕は神保町からぶらぶら歩いていく。

懐かしい店が健在だと、嬉しい。

日本大学だらけのなかを三崎神社に参る。

神社の前は「水炊き」「炭焼き」「もつ焼き」、食欲をそそる店が並ぶ。
神様は一年中、涎をたらしているのかも。

会うやいなや、「去年はすみませんでした」と頭をさげる。

お寺は本郷、壱岐坂をちょっと入ったところ、ブースのなかでお墓の映像が現れるのに向かって線香をあげてお参りする。
僕が一番、誰かが仏さまに近い順で、といってみんなが笑う。
親しい順という意味です、と弁解したけれど時すでに遅しだ。

32年前に39歳で亡くなったB君。
腎臓が悪かったのに、貨物会社をつくるための準備と云うより戦いのなかで、いくら休めといっても、にっこり笑って、だいじょうぶです、とがんばりとおした。
JR貨物ができて、経営企画部門の課長をしていて亡くなったのだ。
パワハラをした覚えはないけれど、あの、先が見えない、徹夜に近いような熱い日々が彼の命を縮めたことは否定できまい。
彼の死後、府中にあった実家と墓参りに行くようになって、コロナ禍の二年を除いて毎年続けているのだが、さいしょは御母堂が僕に会いたくないと言われた由、今は四国にいらっしゃるはずだが、去年あたりから年賀状があて先不明でもどってくるようになったとS君、御健在なら97歳とか。
T君が、彼が亡くなったときに、同期生が哀悼の文を業界紙に書いたのをコピーして持って来てくれた。
字がきれいで、整理整頓が完璧で、僕はコンピューター、笑顔を絶やさないコンピューターといっしょに仕事をしているようなものだった。
運輸省に説明に行く時もいつも彼と行く。
議論の途中で数字や資料が必要になると、さっと取りだしてくれた。
僕が寝ないで考えたことを、早朝殴り書きすると、それをさっと清書してくれたから、僕はそのペーパーを武器にその一日を戦ったのだ。
事務能力が高いだけではない、働く人たちが路頭に迷うことがないような貨物会社をつくることについての全き同志だったのだ。
まいとしの会で、今年はいつにまして彼を偲ぶ気持ちが強かった。
それはみんなと、道々、いくつになった、もうすぐ80ですよ、などと年のことを話していたせいもあるかもしれない。
39歳、いかにも早すぎた。

口を開けば、当時の闘いの回顧になり、それは他愛のない話に興じているみんなの耳触りにもなる、またあの話かよ、と。
これはもう黙ろうと、席を移って、反対側のすみにいる男の前にいって、共通の知人の消息などを話していたら、どういうはずみかで、彼の方から、僕が全社会議で葛西氏と猛烈な議論をしたことに驚いたという。
あの頃、葛西さんに逆らうことなんか考えられない本社の空気だったからと。
なんだかB君もそばに降りてきたような感じがした。
かなり聞し召して、8人みんなで集合写真を撮って、再会を約し、僕は一人でふらふらと神保町まで歩いて帰った。
去年、風呂からあがると電話で、「今どこにいますか」、その日が偲ぶ会の日であることをうっかりして一週間後だと思い込んでいた。
したがって、僕は二年ぶりの出席、幹事のM君も早め、一週間前に確認のメールをくれた(早すぎるきらいはあったが)。
集合場所は水道橋駅、僕は神保町からぶらぶら歩いていく。

懐かしい店が健在だと、嬉しい。

日本大学だらけのなかを三崎神社に参る。

神社の前は「水炊き」「炭焼き」「もつ焼き」、食欲をそそる店が並ぶ。
神様は一年中、涎をたらしているのかも。

会うやいなや、「去年はすみませんでした」と頭をさげる。

お寺は本郷、壱岐坂をちょっと入ったところ、ブースのなかでお墓の映像が現れるのに向かって線香をあげてお参りする。
僕が一番、誰かが仏さまに近い順で、といってみんなが笑う。
親しい順という意味です、と弁解したけれど時すでに遅しだ。

32年前に39歳で亡くなったB君。
腎臓が悪かったのに、貨物会社をつくるための準備と云うより戦いのなかで、いくら休めといっても、にっこり笑って、だいじょうぶです、とがんばりとおした。
JR貨物ができて、経営企画部門の課長をしていて亡くなったのだ。
パワハラをした覚えはないけれど、あの、先が見えない、徹夜に近いような熱い日々が彼の命を縮めたことは否定できまい。
彼の死後、府中にあった実家と墓参りに行くようになって、コロナ禍の二年を除いて毎年続けているのだが、さいしょは御母堂が僕に会いたくないと言われた由、今は四国にいらっしゃるはずだが、去年あたりから年賀状があて先不明でもどってくるようになったとS君、御健在なら97歳とか。
T君が、彼が亡くなったときに、同期生が哀悼の文を業界紙に書いたのをコピーして持って来てくれた。
B君は、同期の事務系の中で入社当時から一番冷静で、ある意味で大人だった。そして、純な心の持ち主だった。また、なによりも人の心の痛みが分かる人だった。君が、人を批判したり、愚痴を言ったりしたことは一度もなかった。ほんとに、そういう人だった。
字がきれいで、整理整頓が完璧で、僕はコンピューター、笑顔を絶やさないコンピューターといっしょに仕事をしているようなものだった。
運輸省に説明に行く時もいつも彼と行く。
議論の途中で数字や資料が必要になると、さっと取りだしてくれた。
僕が寝ないで考えたことを、早朝殴り書きすると、それをさっと清書してくれたから、僕はそのペーパーを武器にその一日を戦ったのだ。
事務能力が高いだけではない、働く人たちが路頭に迷うことがないような貨物会社をつくることについての全き同志だったのだ。
まいとしの会で、今年はいつにまして彼を偲ぶ気持ちが強かった。
それはみんなと、道々、いくつになった、もうすぐ80ですよ、などと年のことを話していたせいもあるかもしれない。
39歳、いかにも早すぎた。

口を開けば、当時の闘いの回顧になり、それは他愛のない話に興じているみんなの耳触りにもなる、またあの話かよ、と。
これはもう黙ろうと、席を移って、反対側のすみにいる男の前にいって、共通の知人の消息などを話していたら、どういうはずみかで、彼の方から、僕が全社会議で葛西氏と猛烈な議論をしたことに驚いたという。
あの頃、葛西さんに逆らうことなんか考えられない本社の空気だったからと。
なんだかB君もそばに降りてきたような感じがした。
かなり聞し召して、8人みんなで集合写真を撮って、再会を約し、僕は一人でふらふらと神保町まで歩いて帰った。
「仏さまに近い順」それぞれ何が近い順なのか想像したのかもと笑ったら次からは辛い出来事。
あの頃はJRだけでなく同じような犠牲者が多かったのだと思います。
あの頃から労働者を人間ではなく人間の形をした働き手と見る世の中になっていったのでしょうね。
私の知り合いも40歳くらいで犠牲になりました、子どもはまだ小学校入学前。
あの頃はJRだけでなく同じような犠牲者が多かったのだと思います。
あの頃から労働者を人間ではなく人間の形をした働き手と見る世の中になっていったのでしょうね。
私の知り合いも40歳くらいで犠牲になりました、子どもはまだ小学校入学前。
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ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
> 鍵コメさん、それは大変でしたね。でも治って復帰できてよかったです。B君も早く休めばよかったのですが、状況と彼の責任感が仇となりました。私も肝臓の数値が悪くなりましたが、みんなと飲み続けていました。
by saheizi-inokori
| 2024-05-22 11:50
| よしなしごと
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