お気楽な日本人
2024年 04月 26日
「急いでも廊下を飛ぶな」、静岡の学校の張り紙だという。
走ることを飛ぶとは、僕の育った長野でも言った。
駆けっこのことを「飛びっくら」と。
文字に描いたら標準語とは違いがないけれど、独特の言い回しが北信の人に見られる。
今でも、テレビで長野の人がしゃべっていると、それですぐわかる。
お国訛りは通行手形とはよくいったものだ。
けさはエアコンの掃除をしようと、取説を読みだしたら、月一度はやれという、「手動水・洗浄クリーン」という機能があることに気づいてまずそれをやる。
二時間もかかるので、フイルターなどの掃除はまたの日に送る。
ルンバの調子がいまいちなので、10時になるのを待って、サービスセンターに電話して、あれこれ、とどのつまりが一式交換してもらうことになる。
いつものことながら、とても丁寧にいろいろ教えてもらった。
ついで銀行から届いた、代理人カードの機能をどうたらこうたらで、意味が分からないので電話する。
いんぎん無礼、決まった手順でわかりきったことを聞かれるのにいらいらする。
代理人カードなんて発行してもらった覚えがないのに、銀行では発行したというので、機能停止の手続きをした。
たいしたことではなくても、ルンバと銀行とあわせて一時間以上も電話で、ルンバをひっくり返してみたり、銀行カードを引っ張り出したりして、なんだか疲れた。
藤本和子・「砂漠の教室」」である。
彼女は、「アウシュビッツ展」に行く。
膨大な展示の結びの言葉として「戦争は悪である。おそろしいものである。われわれはこの展示会が、われわれの平和への願いを再確認するものであることを祈る」という趣旨がしるされていた。
そんな一般的な正しさの発言のために、あれだけの資料をわざわざポーランドから運んでくる必要があるのだろうか?
戦争のおそろしさだったら、ベトナムの写真やTVニュースでまいにちのように見せられていた。
死者の数の膨大さ、死の無惨さ、蛍光灯に照らされ、山と積まれた歯ブラシ(遺品)から、わたしたちはもうなにも学べはしない。歯ブラシにその持主について語らせる力を与えてやらないかぎり。歯ブラシが殺人を犯したのではないのだ。歯ブラシには諒解ずみの表現力はない。無惨な死そのものに諒解ずみの表現力が、わたしたちを衝き動かす力があるといえるほど、わたしたちの手はきれいではない。アジアを蹂躙したわたしたちの手は。「アウシュビッツ展」があらわしていたものは、みごとに日本と朝鮮の関係に重なっていた。
あの展示会のおそろしさは、死者の遺品をいじくりまわしても、死者に正当な顔を与えることなど思いもよらなかったその思想にある。死者のアイデンティティについては、どこでひろってきたのか知らないが、無窮の空のごとく変わらない、不正確な理解ですませている。「長年ヨーロッパで偏見の対象となって憎まれていたユダヤ人が、、、」(あのアイヒマンだって、ユダヤ人を個人的に嫌ったり憎んだりしたことはない、仕事をしただけだといったではないか!)これが、これだけが、犠牲者に与えられた顔である。その彼らは、二元的な視点の中で弱者の役割を演じるようにキャスティングされて、その役に閉じこもることしか許されていない。(略)
犠牲者不在(そう、結局彼らはべつの誰かだってよかったのだから)のこのような啓蒙の試みは、ただひたすらわたしたちの身勝手な同情心をかきたてるだけで、わたしたちはふたたびみごとに無傷だ。
侵略者としてしか海を越えたことのないわたしたちは、「強制連行の記録」や関東大震災の残虐については書きもし読みもするが、電車の中で朝鮮語の教科書を開いている森崎さんに「なぜ朝鮮語の勉強をするのか、中国語の方がよくないか」と平気で云ったりするのだ。
朝鮮人を犠牲者の役割に閉じ込めておくことで、わたしたちの断罪はすんだとでもいうように。
ユダヤ主義の文化は「ユダヤ・キリスト教の」と一括してしまうことのけっしてできない異質の構造をもち、ユダヤ人はヨーロッパ史における異族であることに気がつくと、わたしはその彼らの正当なる異族性を知ることが、やがてわたしが朝鮮に感じていたわたしたちの不能な、息づまるだめさ(太文字は僕)を開くことにつながってくれるのではないかと、ひそかに思ったのだ。そうして、藤本は、反ユダヤ主義がなくなれば、ユダヤ人もなくなると書いたサルトルに言及したあとで、朝鮮人というと「朝鮮人問題」のことだと考えて平然としている日本人についてこういうのだ。
他者とのまじわりといえば同化しか思い浮かばない貧しさを、どこかで打ち破りたいのだ。天皇を頂点としうるところの同族意識をひそませつつ在ることのできるわたしたちは、その延長として、没民族的な万国普遍のイデオロギーもらくらくと手にすることができる。いつまでたっても、わたしたちは他者にその正当なる顔を認めることを潔しとせず、わたしたちの具象の、抽象の両世界を、他者の見えない顏の上に塗りつけ重ねていることになる。ずいぶんあちこちしたけれど、これが藤本がヘブライ語を学ぼうとした理由のようだ。
半世紀も前の文章だから、今のように海外留学が珍しくもない時代の日本人にそのまま通用するのかどうか。
僕は、日本人の素質という意味ではあまり変わっていないように思われるのだ。
ひたすらアメリカを喜ばせることが、最重要な目的になって、スピーチ原稿をアメリカ人に見てもらったという岸田総理。
そして狙った通り、アメリカ人が喜んだことを手柄として、本人も周りも、野党すら歓迎した、そのことにもアメリカの(中国の)正当な顔をみようとしない素質が現れているのではないか。
本人は外交やってるつもりでしょうが実態はボスに媚びるための"恭順の意"表明売国訪問と言う他ありません。
— 藤井聡 (@SF_SatoshiFujii) April 24, 2024
『「米大統領スピーチライター」によってその骨子が作り上げられた岸田演説。それは「アメリカが日本を搾取することを日本側が確約する」という巨大な禍根となった』https://t.co/NLBIV1I6C0
そりゃあ アメリカは喝采ですねー
小型犬では長寿ですよね。
お向かいさんのプードル、先日二十歳の誕生日を迎えたのですが、昨夜旅立ちました。
朝お別れに行ってきました。
私のシフォンが大好きだと言ってので、丁度昨日焼いたばかり。
昨日持って行けば良かった。
サンチはまだまだ元気でね♪
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しかし、アメリカ製のスピーチを読んで拍手喝采を浴びて得意満面って、この国も諸々下降するばかり。
私たちに残された時間は少ないから良しとして、小さな人たちのことを考えてしまいます。
二十歳!あやかりたいです。
さつきラジオで、能登の復旧が遅々として進まないと言ってました。
国会で水が足りないと言われて、お店にはあると岸田が答弁したことを嘆いていました(能登出身の人)。
なのに彼は連休中はまた外遊するそうですね。亡国の宰相!
太文字のところ 心に直球できました!
いま この時、本日の記事を拝読させて頂き感謝いたします
本日、ある方のところで須賀敦子さんの名を目にし八ツとしました
よりよく生きようとする人の風景 そこに神もいて 再読したいと思います