同じ人たち
2024年 04月 17日
靴下や下着のほかに冬のズボンを三本洗った。
エアコンの掃除をしなきゃしなきゃと思いながらも、朝のルーテインが終わるともうやる気が失せる。
よく寝たのに、寝すぎたからか、だるくてルーテインでさえ、しんどく感じる。
いつまでこういうことが続けられるか、などと考えるようになるとアキマヘンナ。
ひとつひとつはどうということのない家事のいろいろを、意識することもなくこなしていたのに、あれをやってこれをやって、と考えると、とても面倒に感じられる。
足腰の存在を意識せざるを得ないのも、よろしくないようだ。
ウォルフガングアマデウスモツアルト(なんかすごい名前だね)の弦楽四重奏曲を聴きながら、「近江煮小豆餅」を食う。
入れ歯にくっつかないように、こわごわと噛む。
近江の寺や古い町を歩いてみたい、湖の畔の寂しい村の細い道も歩きたいなあと思う。
さっきまで曇っていた空から明るい陽射しがそそがれて、ようやく元気をとりもどす。
こんどはフランツシューベルト、こっちの名前の方がすっきりしているけれど、今聴いているのは、ちょっと気難しげだ。
ずっと聴いていると、気難しさのむこうに、やさしさもあった。
2017年の韓国日報社賞を受賞したこの作品の描く韓国社会は、同じく新自由主義の道を歩く(竹中平蔵に言わせれば不徹底に)日本の先輩のようなところがある。
道を歩いていたら道路が急に陥没して、シンクホールに落ちたユンナは幸いにして手足が折れただけで済んだと思ったら、心も折れたらしくパニック障害になった。
姑のチェ・エソンは、友だちの間では「菩薩」という仇名で通っていたが、生まれてこの方経験したことのない怒りの焔が燃え上がって自分でも驚く。
自治体や、上水道管を破裂させたらしい工事業者などに電話して、怒りをぶつけた。
多くは電話をちゃんと受けてくれないどころか、詳しい話を聞こうとすると、謝罪もせずによそのせいばかりにする。
占いの先生に、ユンナが元気をとりもどすために、どうしたらいいかと訊くと、五方色が入った小袋を作ってそこに小豆と一緒に入れろとお札を書いてくれた。
それをもって病院に行くと、ユンナが久しぶりに笑って、結婚前に実の母から、誕生日に電話が来て、なんでもいいから小豆の入ったものを食べると、邪鬼がよりつかないからと、、幾度も念を押されたけれど、仕事がおそくなったので「ビビビック(小豆アイスの銘柄)」を食べたという。
「買ってこようか?」「ええ、食べたいです」
のろいエレベーターのなかで、じりじりと足の指を動かしていたのに、地下の売店には、そのアイスはなかった。
近所のスーパーを何カ所かまわってようやくビビビックを見つけたときは、嬉しくてレジ袋をぶんぶん振り回した。
チェ・エソンの次男で、ユンナの夫・イ・ファニは、詩人で大學をまわって講義をしていたユンナが働けなくなったので、夜勤手当のつくCT担当にしてもらう。
入院したユンナがいない部屋で、彼女の詩集を読むと、自分には難解で、こういうわかりにくい人と結婚したことが怖くなった。
とくしゅな撮影機械が開発されてユンナの入り組んだ内面を撮影することができたら、ファニは、一生けんめい勉強して、ユンナの、傷つき、壊れてしまった部分を突き止めようとするだろうに、そんなことを考えているうちにソファで寝てしまう。
夜明けに目が覚めると、ユンナからメールが来ていて、「退院したらあの店に行きたい。あれ食べたい。トマトモツ煮」とある。
ふたたび眠ったファニは、無意識で、ユンナの髪に触れるために指を動かしていた。
病院で悪戯して撮った、二人の骸骨が並んでいるX写真の額が指に触った。
ペ・ユンナが、入院中にもらったお見舞いのなかに、チャンジェ先輩からの、ユンナが好きなクレイアニメの主人公であるトカゲが入っていた。
お礼の電話をしてみると、歩けるなら、すぐ会いに来いという。
大学の研究室に行くと、文芸創作科が統廃合されてしまったことを知らされる。
学生たちが座り込みをしているが、大学は壁みたいなもの、壁に向かってものをいってるみたいだという。
統合して、メデイアコンテンツ何とか、やたら未来、未来と云っちゃコンテンツ産業ってやつに金を注ぎこんでいるけれど、その金は全部、コミッションを着服する詐欺師みたいな連中のところにいくんだからね。
エアコンの掃除をしなきゃしなきゃと思いながらも、朝のルーテインが終わるともうやる気が失せる。
よく寝たのに、寝すぎたからか、だるくてルーテインでさえ、しんどく感じる。
いつまでこういうことが続けられるか、などと考えるようになるとアキマヘンナ。
ひとつひとつはどうということのない家事のいろいろを、意識することもなくこなしていたのに、あれをやってこれをやって、と考えると、とても面倒に感じられる。
足腰の存在を意識せざるを得ないのも、よろしくないようだ。
ウォルフガングアマデウスモツアルト(なんかすごい名前だね)の弦楽四重奏曲を聴きながら、「近江煮小豆餅」を食う。
入れ歯にくっつかないように、こわごわと噛む。
近江の寺や古い町を歩いてみたい、湖の畔の寂しい村の細い道も歩きたいなあと思う。
さっきまで曇っていた空から明るい陽射しがそそがれて、ようやく元気をとりもどす。
こんどはフランツシューベルト、こっちの名前の方がすっきりしているけれど、今聴いているのは、ちょっと気難しげだ。
ずっと聴いていると、気難しさのむこうに、やさしさもあった。
2017年の韓国日報社賞を受賞したこの作品の描く韓国社会は、同じく新自由主義の道を歩く(竹中平蔵に言わせれば不徹底に)日本の先輩のようなところがある。
道を歩いていたら道路が急に陥没して、シンクホールに落ちたユンナは幸いにして手足が折れただけで済んだと思ったら、心も折れたらしくパニック障害になった。
姑のチェ・エソンは、友だちの間では「菩薩」という仇名で通っていたが、生まれてこの方経験したことのない怒りの焔が燃え上がって自分でも驚く。
自治体や、上水道管を破裂させたらしい工事業者などに電話して、怒りをぶつけた。
多くは電話をちゃんと受けてくれないどころか、詳しい話を聞こうとすると、謝罪もせずによそのせいばかりにする。
占いの先生に、ユンナが元気をとりもどすために、どうしたらいいかと訊くと、五方色が入った小袋を作ってそこに小豆と一緒に入れろとお札を書いてくれた。
それをもって病院に行くと、ユンナが久しぶりに笑って、結婚前に実の母から、誕生日に電話が来て、なんでもいいから小豆の入ったものを食べると、邪鬼がよりつかないからと、、幾度も念を押されたけれど、仕事がおそくなったので「ビビビック(小豆アイスの銘柄)」を食べたという。
「買ってこようか?」「ええ、食べたいです」
のろいエレベーターのなかで、じりじりと足の指を動かしていたのに、地下の売店には、そのアイスはなかった。
近所のスーパーを何カ所かまわってようやくビビビックを見つけたときは、嬉しくてレジ袋をぶんぶん振り回した。
ユンナ、笑いなさい。怖がらないで、これを遠くまで投げるんだよ。運動会のくす玉割りで、一生けんめい玉を投げる子どもたちみたいに、戦うのよ。けがをせずに。穴に落ちずに。
エソンはかつて自分が、どんなに娘がほしかったかを思い出した。二人のお嬢さんのことを考えていると、娘とさして違わないという気がする。子どもが四人だ、四人。菩薩じゃなく、修羅になってでも守ってやりたい子どもが四人いる。そんな子どもたちを守るために、あずきしか持っていないなんて。あずきぐらいしかないなんて。
チェ・エソンの次男で、ユンナの夫・イ・ファニは、詩人で大學をまわって講義をしていたユンナが働けなくなったので、夜勤手当のつくCT担当にしてもらう。
入院したユンナがいない部屋で、彼女の詩集を読むと、自分には難解で、こういうわかりにくい人と結婚したことが怖くなった。
とくしゅな撮影機械が開発されてユンナの入り組んだ内面を撮影することができたら、ファニは、一生けんめい勉強して、ユンナの、傷つき、壊れてしまった部分を突き止めようとするだろうに、そんなことを考えているうちにソファで寝てしまう。
夜明けに目が覚めると、ユンナからメールが来ていて、「退院したらあの店に行きたい。あれ食べたい。トマトモツ煮」とある。
ふたたび眠ったファニは、無意識で、ユンナの髪に触れるために指を動かしていた。
病院で悪戯して撮った、二人の骸骨が並んでいるX写真の額が指に触った。
ペ・ユンナが、入院中にもらったお見舞いのなかに、チャンジェ先輩からの、ユンナが好きなクレイアニメの主人公であるトカゲが入っていた。
お礼の電話をしてみると、歩けるなら、すぐ会いに来いという。
大学の研究室に行くと、文芸創作科が統廃合されてしまったことを知らされる。
学生たちが座り込みをしているが、大学は壁みたいなもの、壁に向かってものをいってるみたいだという。
統合して、メデイアコンテンツ何とか、やたら未来、未来と云っちゃコンテンツ産業ってやつに金を注ぎこんでいるけれど、その金は全部、コミッションを着服する詐欺師みたいな連中のところにいくんだからね。
二人で集会をしているのを見に行く。
いろんな議論をしているなかで、一人のユンナが、いい詩だけれど辛いイメージの詩を書くことで覚えていた学生が「もう負けてますよ」と発言したかと思ったら、図書館の前でカッターを取りだして手首を切った。
ユンナは、ここでパニックを起こしてはいけないと自分に言い聞かせて、学生たちをかき分けて近づき、手首をスカーフで縛った。
他の人たちが来て必要なことをやり始めたのでユンナは下がって、座り込んで、膝と膝の間に頭を入れて呼吸を整えた。
ギュイクの目に光がともった。
「受信の光」と心の中で呼んでいた、しょっちゅう学生たちの目に見える光だった。
「チェ・エソン」「イ・ファニ」「ぺ・ユンナ」、それぞれ別の短篇になっているのを、遡って読み直して、一つの記事にした。
いろんな議論をしているなかで、一人のユンナが、いい詩だけれど辛いイメージの詩を書くことで覚えていた学生が「もう負けてますよ」と発言したかと思ったら、図書館の前でカッターを取りだして手首を切った。
ユンナは、ここでパニックを起こしてはいけないと自分に言い聞かせて、学生たちをかき分けて近づき、手首をスカーフで縛った。
他の人たちが来て必要なことをやり始めたのでユンナは下がって、座り込んで、膝と膝の間に頭を入れて呼吸を整えた。
同じ人たちだ。立ちあがったユンナは、救急車に乗せられる学生(ギュイク)に近づいていき「あなたは違うよ。必要な人だよ」という。
そんな短いフレーズが突然思い浮かび、そして初めて合点がいった。同じ人たちのしわざなのだ。土台の大切さも気にしない人たちが大学を統廃合している。見える土台も見えない土台も区別せず取り壊す人たち。足元で砂が崩れていても気にしない人たち。そして、茫然と口を開けて穴を眺めている者の背中を後ろから押す人たち、、、同じ人たちだ、と言ってやりたかった。言ってやらなくちゃと思った。(略)
必要なんだよ。ああいう人たちが増えれば増えるほど、それとは違う人が必要になるんだよ。ラッパ手が必要なの。眼をそらさない人が必要なの。目をそらさないこと。そのためにここを選んだんでしょ。
ギュイクの目に光がともった。
「受信の光」と心の中で呼んでいた、しょっちゅう学生たちの目に見える光だった。
「チェ・エソン」「イ・ファニ」「ぺ・ユンナ」、それぞれ別の短篇になっているのを、遡って読み直して、一つの記事にした。
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by
ikuohasegawa at 2024-04-18 08:53
そうだ、エアコンの掃除をしなくっちゃ。
思い出しました、ありがとうございます。
思い出しました、ありがとうございます。
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by
saheizi-inokori at 2024-04-18 09:52
> ikuohasegawaさん、やりだせばどうってことはないのに、、なかなか腰があがりません。
by saheizi-inokori
| 2024-04-17 13:46
| 今週の1冊、又は2・3冊
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Comments(2)