戦跡・東京駅
2024年 03月 20日
国鉄に入ったときに、まさか東京駅の商店街を開発経営することになるなんて夢にも思わなかった。
国鉄が民営分割化されてJRになるなども。
思いもしない体験を、それも社会人生活の最後になって、たっぷり味合うことができて、とても楽しかった。
国労動労などとのキッタハッタや貨物会社作りで、くたくたになったのは、それはそれで、意味のあったことだと思うけれど、それだけで一生を終えずに、まったく新しい仕事に全力投球できたのは天の恵みでもあった。

きのうは、その東京駅のときの仲間との飲み会があった、会場は東京駅の僕たちが関わった場所にある居酒屋で、彼らに会うのも、東京駅に行くのも久しぶりだ。

少し早めに家をでて、敢えて大手町から歩いて、東京駅に向かった。
国鉄本社が丸の内にあった頃から、ランチを探したり、クリニックに行ったり、我が家の裏庭のように歩いた町が、大きな立派なビルが立ち並んで、なんだか、お呼びでないような街になってしまったのは気のせいか。
ビルディングやそこに隣接する商店街が立派になるにつれ、国民の間の所得格差が広がり、経団連に集う経営者や政治家の貪欲はいやまし、品性が下落して、無能と不祥事が珍しくなくなったのではないか。

僕たちが、全力投球して開発した黒塀横丁はその名だけは残っていたが、店は南国酒家を除いて、すべて変わっていた。
JR東海に譲り渡したキャラクターショップゾーンは、店の数をグンと増やして、折からの春休みもあって大賑わいだ。
僕たちは、ここを「キャラキャラッパ」と名づけたのだった。
「ラーメン激戦区」も僕たちが開発して大当たり、大丸百貨店(ここも店子だった)の人が見に来て、「負けたね」といった。
それもJR東日本本社と東海との話し合いで、東海に無償譲渡になった。

開発のときの若い社員の活躍などを思いだしながら、ひと渡り歩いてみた。
いくら賑やかでも僕には、それが幻で、その陰にリアルに見えるのは「戦いすんで日が暮れて」人けも絶え果てた寂しい戦場、斃れし戦友のポケットで「時計ばかりがこちこちと」ではなく、斃れし僕は時計も持たない老人なのだ。

まいにち、朝な夕なに訪れては、売れ行きを尋ねては、冗談をいい、愚痴を聞いた店長たちはいまいずこ、無事ご健勝でいてくれるのだろうか。

四街道、龍ヶ崎、日進、、それぞれ遠方から来てくれたのは、幹事をしてくれた現役女性のほかは、6人いずれも退役将校たちだ。

二時半、ビールで乾杯、そのあとは比内地鶏の焼き鳥を肴に高清水の燗を飲み放題。
近況報告から、あの人はこの人は、と仲間たちの消息を尋ね合う。
JR本社によって、関連会社の統合再編が強力に行われて、若者たちの意欲がそがれて、何人もの人が退職していったという、僕が恐れていたことが起きている。

とうじの「戦い」を振り返っての思い出話が止まらない。
今思うと僕の失敗だった、というセリフがなんども出る。
今頃謝っても遅いのだけれど。
自分の間違いをこうやって率直に言うのは、近頃の裏金議員とは大違いだと笑ってくれたのが救いだ。

店の前で集合写真を撮って、おたがいに握手して、また会おうね、それぞれの方向に散っていく。

今朝は軽い二日酔い、これも久しぶりだ。
家事やストレッチをしたら、治ったようだ。
国鉄が民営分割化されてJRになるなども。
思いもしない体験を、それも社会人生活の最後になって、たっぷり味合うことができて、とても楽しかった。
国労動労などとのキッタハッタや貨物会社作りで、くたくたになったのは、それはそれで、意味のあったことだと思うけれど、それだけで一生を終えずに、まったく新しい仕事に全力投球できたのは天の恵みでもあった。

きのうは、その東京駅のときの仲間との飲み会があった、会場は東京駅の僕たちが関わった場所にある居酒屋で、彼らに会うのも、東京駅に行くのも久しぶりだ。

少し早めに家をでて、敢えて大手町から歩いて、東京駅に向かった。
国鉄本社が丸の内にあった頃から、ランチを探したり、クリニックに行ったり、我が家の裏庭のように歩いた町が、大きな立派なビルが立ち並んで、なんだか、お呼びでないような街になってしまったのは気のせいか。
ビルディングやそこに隣接する商店街が立派になるにつれ、国民の間の所得格差が広がり、経団連に集う経営者や政治家の貪欲はいやまし、品性が下落して、無能と不祥事が珍しくなくなったのではないか。

僕たちが、全力投球して開発した黒塀横丁はその名だけは残っていたが、店は南国酒家を除いて、すべて変わっていた。
JR東海に譲り渡したキャラクターショップゾーンは、店の数をグンと増やして、折からの春休みもあって大賑わいだ。
僕たちは、ここを「キャラキャラッパ」と名づけたのだった。
「ラーメン激戦区」も僕たちが開発して大当たり、大丸百貨店(ここも店子だった)の人が見に来て、「負けたね」といった。
それもJR東日本本社と東海との話し合いで、東海に無償譲渡になった。

開発のときの若い社員の活躍などを思いだしながら、ひと渡り歩いてみた。
いくら賑やかでも僕には、それが幻で、その陰にリアルに見えるのは「戦いすんで日が暮れて」人けも絶え果てた寂しい戦場、斃れし戦友のポケットで「時計ばかりがこちこちと」ではなく、斃れし僕は時計も持たない老人なのだ。

まいにち、朝な夕なに訪れては、売れ行きを尋ねては、冗談をいい、愚痴を聞いた店長たちはいまいずこ、無事ご健勝でいてくれるのだろうか。

四街道、龍ヶ崎、日進、、それぞれ遠方から来てくれたのは、幹事をしてくれた現役女性のほかは、6人いずれも退役将校たちだ。

二時半、ビールで乾杯、そのあとは比内地鶏の焼き鳥を肴に高清水の燗を飲み放題。
近況報告から、あの人はこの人は、と仲間たちの消息を尋ね合う。
JR本社によって、関連会社の統合再編が強力に行われて、若者たちの意欲がそがれて、何人もの人が退職していったという、僕が恐れていたことが起きている。

とうじの「戦い」を振り返っての思い出話が止まらない。
今思うと僕の失敗だった、というセリフがなんども出る。
今頃謝っても遅いのだけれど。
自分の間違いをこうやって率直に言うのは、近頃の裏金議員とは大違いだと笑ってくれたのが救いだ。

店の前で集合写真を撮って、おたがいに握手して、また会おうね、それぞれの方向に散っていく。

今朝は軽い二日酔い、これも久しぶりだ。
家事やストレッチをしたら、治ったようだ。

ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
> 鍵コメさん、かつて国鉄は最大で六十万人の職員がいました。
私が入った1965年には47万人!日本人のかなりが国鉄に親戚がいたのですね。
私が入った1965年には47万人!日本人のかなりが国鉄に親戚がいたのですね。
2

ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。

東京駅はデパートのよう。
地方から出て来たご老人が新宿駅の所在を尋ね、
駅員が苦り切って「ここがそうですよ!」と言ったという逸話がありますが、
東京駅でも起こり得る事態ですね。
「みはし」は上野が本店で、当代柳朝が贔屓にしています。
地方から出て来たご老人が新宿駅の所在を尋ね、
駅員が苦り切って「ここがそうですよ!」と言ったという逸話がありますが、
東京駅でも起こり得る事態ですね。
「みはし」は上野が本店で、当代柳朝が贔屓にしています。
> 福さん、当時、コンシュルジュや社員が館内を歩いて道案内を日常的にやりました。
ここが何階かがわからないのですね。
みはしはさいしょあまり良くない場所に出てもらいましたが、今は一等地で繁盛していました。
ここが何階かがわからないのですね。
みはしはさいしょあまり良くない場所に出てもらいましたが、今は一等地で繁盛していました。
この記事は私にとって宝物です。
> japaneyさん、過ぎたお言葉、痛み入ります。
こんばんは、
先日柳川市(外様大名である立花のお殿様の「御花」、川下り、北原白秋記念館などの観光地)に行く工程でJRと西鉄バスを乗り継ぎました。
鉄子ではないけど、乗ったらテンション上がりますね。
黒川温泉>柳川市>湯布院、で昔ながらの雰囲気を残しています。
観光地にコンビニ等があるのが湯布院。便利ですが、雰囲気壊しかけてますね。
野球スラング、少し加筆しました(笑)
先日柳川市(外様大名である立花のお殿様の「御花」、川下り、北原白秋記念館などの観光地)に行く工程でJRと西鉄バスを乗り継ぎました。
鉄子ではないけど、乗ったらテンション上がりますね。
黒川温泉>柳川市>湯布院、で昔ながらの雰囲気を残しています。
観光地にコンビニ等があるのが湯布院。便利ですが、雰囲気壊しかけてますね。
野球スラング、少し加筆しました(笑)
丸の内ですか大手町ですか、三沢厚彦さんの熊がいるのですね。
会いに行きたくなります。
会いに行きたくなります。
> ikuohasegawaさん、あ、これがそうなんですね。以前なかつたので写真を撮りました。丸の内、昔国鉄本社、東鉄局があつたあたりです。
by saheizi-inokori
| 2024-03-20 11:59
| よしなしごと
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