逝きし人たちを思いつつ 「塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性」(藤本和子)

きのうは藤本和子「塩を食う女たち 聞書・北米の黒人女性」を、序章「生きのびることの意味―はじめに」「接続点」「八百六十九のいのちのはじまり」だけ読んで、雨の中を歩きに出た。

思いのほか、気温が低く、手袋をしていて良かった、今日は見慣れた町を歩く気分じゃない、なにか刺激がないと歩きつづけられないと思った。
折よく来た用賀行きのバスに飛び乗ってひとごこち。
用賀は病院や砧公園の途中なので、珍しくもない町だが、歩いたことのない方向をめざす。

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「五郎様の森」は、前に来たことがあるのだが、ずいぶん木が少なくなったような気がする。
カブトムシの飼育小屋が二つもあって、管理者の詰め所がある。

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その先、見たことのない大きな建物に近づいてみると、「ニトリ」だ。
中に入ってみる。
広い店内に、家具だけでなく、台所用品、文具、寝具、電化用品など多様な商品が並んでいて、それを少しだけ気を入れてみて歩く。
窓下の結露の水たまりをすいとるスポンジみたいなのが、特価で売られていたが、それを毎日使って、水気を絞って、洗って干してという作業を思ってやめにした。
今はテイッシュで拭きとってポイでごまかしているのだ。

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家族連れ、カップルが多い。
いろんな椅子に坐ってはしゃぐ子供たち、仲良く品定めをする若いカップル、新しい椅子やテーブルを物色した若き日のことが懐かしい。
家具はみんな処分してしまったけれど、思い出は生き生きと残っている。

けさ、資源ごみを捨てに外に出たら、前の部屋の夫婦が、粗大ごみにベッドのマットレスや木枠を山のように出している。
旦那さんはアメリカ人、あまり口をきかない人だが、エレベーターで一緒になったので、「子供さんが大きくなって(不要になった)?」というと「そうそう」と笑う。
「下のお嬢さんはいくつですか」「21です」、ここに引っ越して来たあと生れたという。
「ああ、もうそんなになったのですね、まったく早いなあ」こんどは日本人の奥さんが、目を丸くしてうなづいた。
娘さんが家を出るのかどうか、訊ねなかったなあ。

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用賀駅近くのOKストアには車の長い行列ができていた。
駅構内のカフェやファストフードの店を、あらためて検分したが、どこにも入らずにバスで帰って、「塩を食う女たち」の「死のかたわらに」を読んだ。
尊敬されている葬儀屋の女性経営者と、彼女が弔った遺体の話。

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1982年の出版、「曇る眼鏡を拭きながら」のくぼたのぞみと斎藤真理子が、すっかりこの本(と藤本和子)に惚れこんだ翻訳者仲間たちで、本書の復刊を画した「塩を食う女の会」を組織したことや、藤本の凄さを読んで、すぐに図書館に予約したら、すぐに届いたのだ。

アフリカからの離散、奴隷、虐待、蔑視、貧困、、黒人の北アメリカにおける歴史的体験=「この狂気」を彼らはどうやって生きのびたのか、その力はどこからやってきたのか。

作家であり、運動家でもあるトニ・ケイト・バンバーラの言葉を冒頭に書く。
わたしたちがこの狂気を生きのびることができたわけは、わたしたちにはアメリカ社会の主流的な欲求とは異なるべつの何かがあったからだと思う。アメリカの病ともいうべき物質主義と鬱病に、わたしたちはまだ一度も屈服したことはない。物はいくら所有したって足りない。貧困のどん底にあるような黒人たちのくらしの心を占めたのは物への欲求ではなく、何かべつのことだった。多くの黒人にとって、それは名付けようもないもの。指さして示して、ほら、これだ、ということができないもの。人びとはそれを宗教的偏見だとか、フードゥーとかヴードゥーだとかいろいろにいうわけだけど、とにかく、わたしたちにはある種べつの知性を理解する能力がある。
 ただし体験を言語化する言葉が見つからないことはしばしばあるのだけれども。
ユージン・ジノヴィージーは一つの「客観的な階級としての奴隷は、アメリカの文化全体を途方もなく豊かにすると同時に、一つの独立した黒人民族文化を創る基礎を築いた」という前提で、奴隷時代の文化をさまざまな面から検討している。
もっとも苛酷な状況の中で、黒人は圧迫する目的で押しつけられたことがらに、自らの解釈を行うことによって絶えず逆転していたことが、生きのびる一つの力になっていた。
たとえば、白人たちが奴隷制を正当化するためのイデオロギーとして、階級的葛藤と人種的葛藤を一気に整合させる家長統治による家族制を思いついたのに対して、奴隷たちは、屈従を保証する手段と見なされていた信仰をばねにして、彼ら自身の権利と、人間としての価値を発現させることによって、奴隷制の本質を拒否したのだ。

女であること、黒人の女であることは、どういうことなのか。
女たちはそれぞれにふさわしいやりかたで、その存在の根について考えている。
藤本は、それを知りたいと思った。
彼女たちが自らの体験を語るのに、耳を澄ますることによって、知ることも学ぶこともできるだろう。
個的な体験を、めんめんと過去に遡る生の軌跡や、魂から魂へ残された血のような英知の遺産に結びつけて、それとの関係において捉えることもできる人びとだろう、、(略)そのような彼女らの語り声は、わたしたちの背の向こうで、いつか声を与えよと待っている日本の女たちの生を掘り起こし、彼女らの名を回復しようとする私たち自身に力を貸してくれるかもしれない。
僕はますます、亡母や亡妻とその母たちに代って読むような気持にもなった。

Commented by stefanlily at 2024-02-26 17:50
こんにちは、
フォークナー作品で垣間見る感じでは「この南部の没落した家では、おそらく給料も碌に貰ってない、出て行っても良いが僅かに残った忠誠心と『この人らは煮炊きも出来ねえだからね…』で何となく残ってる」という印象ですね。
ディルシーはフォークナーの婆やさんがモデルのようです。
信仰、そう、ディルシーが教会に行く場面がありました。
牧師の話を聞いて「始まりと終わりを見ただ」と。
Commented by saheizi-inokori at 2024-02-27 09:18
> stefanlilyさん、ディルシー?知りません、フオ―クナーも未読かなあ。
よほど印象に残る作品のようですね。

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by saheizi-inokori | 2024-02-26 12:10 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(2)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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