ふたりの皇子
2023年 11月 13日
きのうはブログを書きながらNHKFMでシューベルトの「死と乙女」を聴いた。
学生時代に寮の備品にあったレコードで、ずいぶん聴いた曲、ひさしぶりにじっくり、だけど背中で聴いた、ラジオがうしろにあるのだ。
しみじみ美しい曲だと思った。
午後はCDでハリーベラフオンテのベスト盤を聞きながら本を読んだ。
会津坂下に赴任して、転勤旅費がでたので、贅沢を許すつもりになって、うまれて初めて”クラシックじゃない”レコードを買ったのがベラフオンテの日本リサイクルの録音盤だった。
リサイタルの中継は近所の家のテレビで見せてもらったのだ。
ラジオを二台つないでステレオにして聞いた記憶があるけれど、どうやったのか、もう覚えていない。
シューベルトに感心して、ハリーベラフオンテを楽しんで、つぎは韓国で買ってきたジャズのスタンダードを集めた二枚組のCDでサッチモやヘレンメリルなどを聞いて夕方を迎えた。
きのうは聞かなかったが、バロックも、シャンソンも、日本の歌も好き、せんじつは五輪真弓を聞いてほろっとしたりもする。
雑食なのだ、なんでも極めることがなく中途半端なのかもしれない。
でも、何をきいてもつまらないってよりも幸せだと思う。
「釋注萬葉集」、挽歌、百四十一と百四十二は、中大兄の意をうけた蘇我赤兄にはめられた有間皇子が、謀反の罪でとらえらて中大兄のいる紀伊の湯に行く途中で詠んだ歌。
三つの失政とは、大きな倉を建てて民財を集めたり、巨大な水路を造って公の蓄えを浪費し、舟で石を運んで丘を造ったりすること、維新が大阪万博やカジノのために無駄遣いをしているようなものか。
先帝孝徳の唯一の皇子であったから、皇太子・中大兄にとっては目障りな存在だった。
無事安全を祈るために、松の枝を結ぶ、もし願いがかなって無事帰れたら、これを見ることがあるだろう、と。
その願いがかなうことはないだろうと、知りつつ歌ったのだ。
有間はすぐに帰される、その途中で中大兄の追っ手によって絞殺される。
謀反の疑いをかけられたもう一人の皇子、大津皇子の刑死によって、大津の姉・大伯皇女は伊勢神宮斎宮の任を解かれて明日香の都に帰ってくる。
大津皇子が、加護を祈願すべく、禁じられている伊勢神宮にやってきたとき、姉は
あのときも強い不安と悲しみにかられるまま、送ったのに、、とうとう不安は現実になって、弟は骸となってしまった。
そして、大津皇子の屍が二上山頂の墓陵に移されると
最初の「人にある我や」を伊藤はこう解く。
二上山と大津皇子、そして「うつそみ」と「死せる者」となれば、折口信夫の「死者の書」であり、當麻寺である。
ここで暫く寄り道をして、「死者の書」を再読しよう。
学生時代に寮の備品にあったレコードで、ずいぶん聴いた曲、ひさしぶりにじっくり、だけど背中で聴いた、ラジオがうしろにあるのだ。
しみじみ美しい曲だと思った。
午後はCDでハリーベラフオンテのベスト盤を聞きながら本を読んだ。
会津坂下に赴任して、転勤旅費がでたので、贅沢を許すつもりになって、うまれて初めて”クラシックじゃない”レコードを買ったのがベラフオンテの日本リサイクルの録音盤だった。
リサイタルの中継は近所の家のテレビで見せてもらったのだ。
ラジオを二台つないでステレオにして聞いた記憶があるけれど、どうやったのか、もう覚えていない。
シューベルトに感心して、ハリーベラフオンテを楽しんで、つぎは韓国で買ってきたジャズのスタンダードを集めた二枚組のCDでサッチモやヘレンメリルなどを聞いて夕方を迎えた。
きのうは聞かなかったが、バロックも、シャンソンも、日本の歌も好き、せんじつは五輪真弓を聞いてほろっとしたりもする。
雑食なのだ、なんでも極めることがなく中途半端なのかもしれない。
でも、何をきいてもつまらないってよりも幸せだと思う。
「釋注萬葉集」、挽歌、百四十一と百四十二は、中大兄の意をうけた蘇我赤兄にはめられた有間皇子が、謀反の罪でとらえらて中大兄のいる紀伊の湯に行く途中で詠んだ歌。
岩代の 浜松が枝を 引き結び ま幸(さき)くあらば また帰り見む赤兄は、十九歳の有間皇子に天皇の失政を三つ上げて、兵をあげて皇位を自らのものとすべくそそのかしたのだ。
家なれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
三つの失政とは、大きな倉を建てて民財を集めたり、巨大な水路を造って公の蓄えを浪費し、舟で石を運んで丘を造ったりすること、維新が大阪万博やカジノのために無駄遣いをしているようなものか。
先帝孝徳の唯一の皇子であったから、皇太子・中大兄にとっては目障りな存在だった。
無事安全を祈るために、松の枝を結ぶ、もし願いがかなって無事帰れたら、これを見ることがあるだろう、と。
その願いがかなうことはないだろうと、知りつつ歌ったのだ。
有間はすぐに帰される、その途中で中大兄の追っ手によって絞殺される。
謀反の疑いをかけられたもう一人の皇子、大津皇子の刑死によって、大津の姉・大伯皇女は伊勢神宮斎宮の任を解かれて明日香の都に帰ってくる。
大津皇子が、加護を祈願すべく、禁じられている伊勢神宮にやってきたとき、姉は
百五 我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に 我が立ち濡れしと、送ったのだ。
百六 ふたり行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ
あのときも強い不安と悲しみにかられるまま、送ったのに、、とうとう不安は現実になって、弟は骸となってしまった。
百六十三 神風の 伊勢の国にも あらましを 何しか来けむ 君もあらなくにあのときの不安や悲しみが、怒りに変ってくる。
百六十四 見まく欲り 我がする君も あらなくに 何しか来けむ 馬疲るるに
そして、大津皇子の屍が二上山頂の墓陵に移されると
百六十五 うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟背と我(あ)れ見むと詠む。
百六十六 磯の上に 生ふる馬酔木を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに
最初の「人にある我や」を伊藤はこう解く。
この句における「我れ」は、「人」に対する「我れ」を一人称的に押し出した単一な「我れ」ではない。「我れ」を「にある」で指定していることが示すように、これは「我れ」がうつそみ、つまり現実の世の人であることを三人称的な発想でとらえた、きわめて認識的な「我れ」である。このように、生身の「我れ」を「うつそみ」の人と凝視した人はこれまで誰もいなかった。少なくとも言語表現としては日本人の最初の経験である。大伯皇女の「うつそみの人にある我れ」のこの画期的な認識は、大津皇子の死という異常な体験を通して内から燃えあがってきた極光ともいうべきもので、それだけ底が深い。伊藤はこれらの六首の歌によって、大津も大伯も、永遠に生きつづけることになったと、言語の力、文学の底力に戦慄を覚えると書き、
人は、秋十月下旬か十一月初旬、明日香東方の岡寺と大原をつなぐ山懐に佇んで、二上山の落日を見るがよい。そして、当面二首の歌を静かに吟むがよい。涙が頬をとめどなく伝わる時、二上山は沈む夕日にくっきり押し出されながら、大津と大伯の霊魂を載せたまま、ぐんぐんと近づいてくるにちがいない。と結ぶ。
二上山と大津皇子、そして「うつそみ」と「死せる者」となれば、折口信夫の「死者の書」であり、當麻寺である。
ここで暫く寄り道をして、「死者の書」を再読しよう。
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maya653 at 2023-11-13 16:03
私も雑食ですが、演歌だけはダメです。非国民て言われそう?(笑)
2
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寿限無
at 2023-11-13 16:23
x
百六十五 うつそみの 人にある我や 明日よりは 二上山を 弟背と我(あ)れ見む
そうなんですよ。「人にある我や」は、認識的な「我れ」なのです。
でも、最近の岩波文庫などの『万葉集』では、
「うつそみの人なる我や……」となっているのですよ。
いかがでしょうか?
そうなんですよ。「人にある我や」は、認識的な「我れ」なのです。
でも、最近の岩波文庫などの『万葉集』では、
「うつそみの人なる我や……」となっているのですよ。
いかがでしょうか?
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saheizi-inokori at 2023-11-13 18:34
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saheizi-inokori at 2023-11-13 18:39
> 寿限無さん、よく分かりませんが、軽くなるような気がします。
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koro49 at 2023-11-13 20:13
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saheizi-inokori at 2023-11-13 21:28
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ikuohasegawa at 2023-11-14 09:14
「死者の書」
楽しみです。
楽しみです。
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saheizi-inokori at 2023-11-14 11:14
> ikuohasegawaさん、以前読んだときはピンとこなかつたのですが、萬葉集の世界からやってくるとぐつと見慣れた景色になります。
by saheizi-inokori
| 2023-11-13 13:32
| 今週の1冊、又は2・3冊
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