ねたみについてのキルケゴールの見解

夜来の雨が残っていたけれど、天気予報を信じて洗濯、終わるころに晴れてきた。
子供の頃は冷蔵庫なんかないから、すこし臭くなったものも捨てることなく食べた。
そのときのマジナイが「気象台」だった、当たらないってこと。
大学の友人が三鷹の天文台に勤めたと聞いて、そのマジナイを思いだしたのだ。
天文台は気象台じゃないのにね。

ねたみについてのキルケゴールの見解_e0016828_12382697.jpg

長谷川宏「格闘する理性」の最後の一篇「単独者の内面と外界―キルケゴール『死にいたる病』」を読んだ。
『死にいたる病』は時代の権威と権力にむかって正面からたたかいをいどんだ書物であり、そういう意味で政治的とさえ名づけることができるものであった。
単独者は、社会状況のただなかで、状況とのはりつめた対立関係のもとにおのれの孤独を生きる。単独者に徹することを、キルケゴールが英雄主義(ヒロイズム)とよんだのも無理はない。非単独者が跳梁跋扈し、むらがって有形無形の権力構造をなすなかで、支配秩序にあらがって単独者でありつづけることは、英雄的な努力というに値することだった。
自己の内面の核心をなすものを苦悩とし、それを宗教意識の拠点とし、転回の場とし、審判者とする。
くるしみに生き、くるしみをもとめ、くるしみに殉ずる苦悩の宗教者・キルケゴールは、苦悩のなかに歓喜や恍惚、さらには救済を求めることをせず、ひたすら苦悩のなかで苦悩に目覚めていることを自らに課した。
彼にとって、苦悩とは孤独な人間の実存の条件そのものであり、苦悩をくるしむことが単独者としての生のあかしにほかならなかった。
苦悩の極限が絶望であり、死にいたる病を病む絶望者とは、苦悩の極致にうごめくもののことだ。

ねたみについてのキルケゴールの見解_e0016828_12392420.jpg

どんな幸福、どんな喜び、どんな愉楽にあっても、その内奥にあるのは不安であり絶望であり苦悩である。
人間精神は死にいたる病をまぬかれることはできない。絶望していない精神は、まぬかれたとおもいこんでいるにすぎない。絶望におかされているのに絶望を感受しないこと、それはいっそうふかい絶望ではないのか。
無限(神)は絶望なしにはけっして獲得できない。

苦悩や不安や絶望をみすえ、そのなかに人間的な意味をみいだし、そこからあたらしい生活を模索するのではなく、苦悩や不安に蓋をして、つかのまの安定や逸楽に目をうばわれ、たがいに身をよせてなぐさめあっている。
人びとは自己をうしなうようにしてたがいにむすびついている。あるいは、むすびつくことによって自己をうしなっている。
そういう時代に、自分も取り込まれて生きているとキルケゴールは自覚していた。
ひとりの個として絶望を生きること、そこに単独者の思想性があった。
個の内面に徹底して執着する主体を後世の哲学史家は実存の先駆とみなしたが、長谷川はむしろ「倫理的精神ないし倫理的自己」とよびたいという。
東大哲学科在学中に大学闘争に参加したあと「けじめをつけるため」に自己退学して、その後在野の学者としてヘーゲルを講じ、多数の著作をあらわしてきた長谷川の自己規定のようにも読める。

ねたみについてのキルケゴールの見解_e0016828_12402255.jpg

死にいたる、というその死は肉体的なものではない、精神の死だ。
絶望のどんづまりにおいて、生や共同観念(死後の祀りなど)がひからびて、死とえらぶところがなく、つまりは、死が恐怖や不幸をよびおこす特別の事象とみなされなくなる、生の全体が死の側にとりこまれる。
絶望が精神的になればなるほど、絶望者は悪魔的な知恵をもって絶望を閉鎖状態にとじこめておこうとし、それゆえ、外界を中性化し、外界をできるかぎり無意味でどうでもいいものにしようと気づかうのである。、、悪魔的な絶望は、絶望して自分自身であろうとする絶望の最高段階をなす。、、それは存在への憎悪のなかで自分自身であろうとし、悲惨さのなかで自分自身であろうとする。、、悪魔的な絶望者は、みずからの苦悶によって全存在に抗議するために、苦悶のなかで自分自身であろうとするのである(キルケゴール)。

そして、悪魔的な絶望者のみ、真の他者にであい、真に対他的な関係をつくりあげることができる。
キルケゴールにあって、その真の他者とは神だ。
勝利の展望などはじめから望みえない勝敗をこえた、社会的にも宗教的にも、悲惨をひきうけ、絶望のなかで苦悩の現実にふかくはいりこんでいく、単独者のたたかい、そんなたたかいのなかで、主体的な意思が発動すれば、それが信仰である。
絶望のなかに信仰があり、信仰のなかに絶望がある。それがキルケゴールにおける信仰の本質だった。
なかなか難しい、わからなくて絶望する、死にはいたらないけれど。
でも、負け惜しみじゃないけれど、とても面白かったのだ。
名前を聞きながらも、本を手に取ることもなかったヘーゲル、ニーチェ、キルケゴール、かれらの関心がどういうところにあったのかが、朧気ちゅうの朧気に見えた。
僕には悩み、苦悩がないなあ、能天気なあほなのか、とそのことを悩んでいた学生時代を思い出した。

おまけにキルケゴールが詩心にとんでいた証として長谷川が引いた言葉。
おどろきは幸福な自己喪失であり、ねたみは不幸な自己主張である。

Commented by たま at 2023-10-29 22:38 x
 サンマの添えは、大分県名産の「カボス」でしょうか。
 我が家にも段ボール一杯のカボスが故郷から届き、数個を台所の流し台脇に並べておいたら少し黄色くなり、たまたま訪れていた孫娘が「温州ミカン」と間違えて皮をむき始めたものです。『このミカン、なんだか皮がむきにくい・・・』とこぼしつつ。
Commented by saheizi-inokori at 2023-10-30 08:37
> たまさん、これはスダチです。
カボスもいいですね、そんなにもらったなんて羨ましいですよ。
Commented by rinrin1345 at 2023-10-30 09:12
サンマ、と大根、今年どちらも細くってね。でも食べたいのでどちらも買って、大根には早く太れ、とオーラを送ってます
Commented by saheizi-inokori at 2023-10-30 10:21
> rinrin1345さん、その昔の味には及びもつきませんが、けっこういけます。大根おろしも嬉しいです。
川場温泉に行ったときに、近くの農家がとれすぎた大根を「好きなだけもっていけ」というので、みんなでリュックに詰め込んで帰ったことがウソみたいな高根の花になりました。
名前
URL
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by saheizi-inokori | 2023-10-29 12:44 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(4)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31