一歩前進

再審がはじまった袴田さんのお姉さんはえらい人だ。
背筋をしゃんとして弟の無実を訴える、明るささえ感じさせるその声や姿からは90歳とはとうていおもえない。

支援者や弁護士までも恨みたくなったというほど、絶望のどん底に落とされながらも、ひたすら弟の無実を訴える活動を続けてきた。
巌さんは48年もの死刑と対峙しつづけた拘禁に精神を壊されてしまって、2003年に保坂展人が面会したときに「袴田巌はもういない。全能の神である自分が吸収した」「東京拘置所はなくなった。(東京国家調査所の所長である自分が)死刑執行はできないようにした」と語ったという(東京)。
東京高裁に証拠の捏造といわれたことで、検察のメンツにかかわるといわんばかりの検察のねちっこい対応に嫌悪感を覚える。
もう勝負あったのではないか。
潔くシャッポを脱いで姉弟に謝るべきではないか。

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(アトリエの外壁に飾られた先生の作品)

散歩のとちゅう、カミさんの通うアトリエの展覧会に寄った。
動乱の世界にあって、こうして小さな平和なアトリエに集って絵を描くことを楽しめる人たちの幸せを感じた。
若い夫婦が先生で、その夫のほうが愛想よく案内してくれたのに、もう少しこっちも愛想よくすればよかった。
別に機嫌が悪かったのではないが、適当に話をする気持ちが起きなかったのだ。
誰かが引いて来た乳母車のなかに猫が容れられて、ずっとにゃあにゃあ鳴きつづけていた。

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コメダコーヒーで本を読んだあと、駒沢公園に行ってみると、ラーメンフエスが開催中。
臨時にもうけられた席で、若者たちがおりしも昇り始めた十三夜の月を背景にいろんなラーメンをすすっていた。

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長谷川宏「格闘する理性」のなかの、「反近代はいかにして可能か―ニーチェをよむ」を読了。
近代を嫌悪し拒否して反近代に生きたニーチェは、古典ギリシャ以来、ヨーロッパは延々と衰弱と低迷を強いられてきたという歴史観を持つ。
それについての長谷川の批判。
原初に混沌としたエネルギーの奔騰があり、しかるのち、エネルギーがおさえこまれて停滞と衰弱の時代がながくつづくという歴史のみかたは、切り口のあざやかさはあるにしても、けっしてゆたかなものとはいえない。それは、歴史の森にわけいり、そこにうごめく人間や事件に目をこらし、時代の栄光と悲惨にこもごも心かよわせるような歴史観ではない。高みから歴史をみおろし、抽象的な図式でもって歴史を裁断しようとするものである。歴史に生きる人びとの息づかいはニーチェの耳にとどいていなかったにちがいない。歴史を論ずる過程で、ニーチェはむしろ歴史からとおざかっていた。
長谷川のこういう謙虚にして、確かな視点を僕は忘れてはならない。

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完全なニヒリストを任じたニーチェは、そのくせにエリートや強者に価値をおく。
この優勝劣敗の思想を、長谷川は「近代思想のいささか奇妙な亜流」、ここではニーチェは反近代の徒ではなく、近代の一面を偽悪的に誇張しているのだと。
飛躍するが、僕の見た、同僚を自家に招いてワグナーを聞かせ、権謀術数の重要性を説いた葛西敬之は、こういうニーチェの使徒ではなかったか。

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反近代者ニーチェは、キリスト教の同情の道徳も民主主義や社会主義などの社会的関係性の模索に、専ら弱者の怨恨や偽善者の虚勢を見る。
ニーチェにあっての「すくい」は藝術しかなかった、それほどにニーチェのニヒリズムの根は深かったのだ。

ニーチェについての論文が難解ホークスから救い出してくれたので、冒頭の「格闘する理性―ヘーゲル『精神現象学』をよむ」に戻る。
長谷川の文体に慣れたせいか、こんどは楽天というほどではないが、そんなにつっかえずに読めた。
若きヘーゲルが、極限まで切り開くあらあらしい論理を駆使して、自然、人間、社会、文化の種々相を古代から近代にわたって包括的な視野のもとにおさめるような大きなスケールの思索を展開した『精神現象学』。
それは、
さまざまな悲劇がさまざまな時と所でさまざまな主題をめぐって上演される舞台のつらなりのごときもの
となった。
すなわち、対立するものが命がけで闘い、ぎりぎりの地点まで闘いをおしすすめる、そして双方が解体され、対立そのものが消滅する、そのあとにはじめてあらたな世界とあらたな対立の可能性がうまれる。
そのつらなりが歴史だ。

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イエス・キリストについて
神の子の誕生は奇跡でもなんでもない。それは人間精神の歴史的な発展の必然の産物なのだ。人間精神の発展が神の子をよびだし、生身の人間のうちに神をみた。
とヘーゲルは確信する。
半知半解までもいかない、十分の一知百分の一解、それでもゼロではなくなったのだ。

Commented by stanislowski at 2023-10-30 15:53
なんという長い年月なのでしょう。袴田事件はよく分からないまま生きてきました。私が引っ掛かりを覚えるのは冤罪と言うことです。本文から外れますが、そもそもの始まり、私にコメントを寄せてくれた佐平次さんとのつながりは”国鉄”だと思います。叔父はライフワークのように「松川事件」を話していました。それに関する地元紙の切り抜きは取ってあります。時代が進み風化しつつあるのが気懸りです。
その叔父世代の国鉄職員地元有志はワグナーなと知らない庶民。ただひたすら「あの時の出来事を」口伝えていました。わたしもかなりそれに影響されています。あの〇山事件も日本の民主化の芽生えを違う方向にしむけたと言われていますしね。
国鉄解体し日本国を壊した(と、私は思っている)あの長寿だった首相、誰のためにどういう目的のために?それに向かって働いていた人々は今頃ほくそ笑んでいるのでしょうか。
Commented by saheizi-inokori at 2023-10-30 17:26
> stanislowskiさん、私はあの国労の役員たちとの日々をひたすら懐かしく思います。今あの頃の彼らより年上になって、なんと愛すべき可愛い連中だったかと、亡き連中に会いたくてたまらないのです。
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by saheizi-inokori | 2023-10-28 13:29 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(2)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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