「言葉」の力

あれは小学五年生のときだった。
秋休み(農繁期)の前に全校生徒が集められて、だらけがちになるので、計画的に生活せよと訓示があった。
目立ちたがり屋の僕は勢いよく手をあげて「じゃあ、ここでみんなで計画を決めたらいいと思います」と言ってのけたのだ。
すかさず六年の誰かが「ひと様々だから、みんなで決めることは出来ないです」という、ギャフンだったね、僕は。



ギャフンとも言わずにごちょごちょいう、こいつ。
金持ちのバカ息子が、親の七光りで餓鬼大将になったかのような顔をしている(経歴を知るわけではないが)。
そして、そのまま誰にもチェックされずに大人の社会でもバカ面さらして、アホなことをいいつづけ、またそれをチェックしない県民も自公党員もいたらしい。
しかし、こいつの考え方は統一教会や日本会議の家族観と通じるから、しっかりチェックしなければなるまい。

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きのうは皮膚科、先週採血した結果は特に異常なし、アレルギー検査では、ハウスダスト、ヤケヒョウダニ、スギ、ゴキブリ、ガ、エビ、カニに軽い反応が見られるが、何を食っちゃいけないとかいうこともなし。
発疹がだいぶ収まったので内服のプレドニンを半量にして一週間続け、またおいで。

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早々に薬ももらえて、天気も良いのに、カミさんが留守なのでさっさと帰ってやらないとサンチが可哀そう。
診察費と薬代(一週間分)で400円を切ったので、先週と同じカフエを奢ることにした。
雨の先週とは、途中の道の雰囲気がまるで違う。
店のなかも、ローレライがいなくて、その代わりに陽気なニンフが二人いた。
少し迷ったが、昨日と続けてカレー、ヴィーガンのトマトカレーにする、身体が欲しているのだ。

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セットの食後のコーヒーを飲みながら、「ムラブリ」を読んだ。

タイの北部に散在するムラブリ(森の人、という意味の民族名)の言葉を、彼らと暮らしながら研究する言語学者の、愉快にして驚きと洞察に満ちた報告だ。

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生物学者のユクスキュルが「環世界」という言葉に託したように、世界は人類の見えるものだけで成り立ってはいない。さまざまな動物や、昆虫、植物や微生物がそれぞれの感じる世界が、異なりながらも同時に存在する。ぼくもその数ある世界のひとつに生きている。
人が世界を感じるとき、言葉に大きく影響を受けていることはロシア語の実験(略)からわかる。ぼくは日本語話者だから、世界を見るときには、どうしても日本語に縛られる。その縛られた世界のなかで、たとえばムラブリ語は変だ、などというのは不公平だろう。日本語もムラブリ語も、ひとつの世界の見方として平等であり、優劣はない。世界は言語の数だけ存在する。それを認めて初めて、ムラブリの見る世界への旅がはじまる。
伊藤はムラブリの見る世界と接続するために、ムラブリ語の示す感性を「真に受ける」、「その言語で考える」を一歩進めて「その言語で感じる」(実際例が解りやすいのだが、ここでは省略する)。

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(理髪や美容の店が多い。僕が写りこんでる)

バベル的言語観、それは神が怒って人間の言葉をバラバラにした、という、言葉がバラバラなのは困る、という言語観。
対して、コーランは「君たちがお互いをよく理解するために民族をバラバラにした」という言語観だ。
伊藤はコーラン的言語観に共感するのだ。
ムラブリ語の響きに惹かれて、「理解したい」から、「違う」から、近づきたいと思ったのだ。

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木田元「反哲学入門」に
(『存在と時間』の後のハイデガーは)<存在>というものは、現存在(人間)がああ了解したりこう了解したり、現存在に左右することのできるようなものではなく、むしろ存在自体の方から現存在に、ああ現れてきたりこう現れてきたりするもので、現存在はそれを受け容れるしかないと考えるようになり、それを<存在の生起>と呼ぶようになりました。彼の考えでは、その<存在の生起>は<言葉>のなかで起るものであり、だからこそ<人間>より<言葉>の方が先だと言うのです。
と、難解なことが触れられているけれど、ここで言う<言葉>の優先と、伊藤のいう<世界観を造る言葉>とは、どこかで重なるようにも思う。

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来たときのもう一つ裏側(目黒川からみて)の道をバス停まで歩いた。
縄文人の住居の復元があって、汚れたガラス窓から、縄文の人たちがみえた。
彼らは、どういう言葉で世界を見ていたのだろうか。

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家に帰ると、目も耳も不自由なのに、気配を感じたらしいサンチが玄関まで迎えに出てくる。
サンチの言葉・世界に「迎える」というのは、ないのかもしれないが。
そのあと、ずっと僕にくっついて離れない。
早く帰ってよかった。
言葉はなくても、お互いに通じる感情だ。
Commented by tsunojirushi at 2023-10-12 12:07
たくさんの有象無象のうち「ごく一部分」を言葉で表そうと「試みた」に過ぎない、と改めて思わされました。その小さな間口に縛られるのは愚かですよね。
Commented by saheizi-inokori at 2023-10-12 12:49
> tsunojirushiさん、なるほど!
試み、そうかも知れないですね。
でもやり直しのきかない試みかも知れないなあ。
Commented by りんご at 2023-10-12 17:43 x
興味が尽きない記事です
  
 =ここでいう<言葉>の優先と伊藤のいう<世界観を造る言葉>とは、
 どこかで重なるようにも思う= サンチとの無音完結の世界も美しいです
 
西洋の考え方では輝きはきらきら装飾、それを三島は金閣寺で、日本の美を音楽で
いうと完全な静止、完全な無音と表現している。そう欧州日本をバックグラウンド
とする庄司紗矢香が言ってて、この音楽家の今後の冒険を楽しく想像しました。
Commented by saheizi-inokori at 2023-10-12 18:15
> りんごさん、ニーチェは芸術に最高の価値をおいたのではなかったかな。
Commented by kogechatora at 2023-10-12 20:14
統一教会と縁が切れたら、自民党ももう少しマトモになると思ったら…何も変わりませんねぇ…
もともと自民党の価値観が統一教会と同じだっただけのことですね。
今日の解散請求で統一教会と縁を切ったというけど、本当に縁を切ったのか、それとも統一教会問題と縁を切って過去は過去と開き直るのか…

サンチくん…ペットと人間の関係…人と猫は親子、人と犬はボスと子分、どっちにしても触れ合いの関係。
明治大正以前、朝から晩まで親子ベッタリなんて大名か貴族や大商人など大金持ちだけの特権階級だけで、庶民の母ちゃんは子供放り出して田んぼ仕事や畑仕事、店番。
今はペットとじいちゃんがたっぷり触れ合えるだけでも良い時代です。
Commented by saheizi-inokori at 2023-10-12 21:55
> kogechatoraさん、日本会議など、こういう心性の人たちが自民党に集まっているともいえましょうか。
私も母子家庭でしたから、暗くなるまで弟と外で遊んでいました。
残業で遅く帰る母が虐待だなんて露にも思わなかったですよ。当たり前のコンコンチキ!
Commented by pallet-sorairo at 2023-11-11 20:43
『ムラブリ』とても面白く読み終えました。
ご紹介ありがとうございました(^^。
Commented by saheizi-inokori at 2023-11-11 21:51
> pallet-sorairoさん、私は弟のブログで知った本です。
面白かったですね。
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by saheizi-inokori | 2023-10-12 11:27 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(8)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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