「酔いざめ日記」木山捷平



朝も夕方も風があるときだけ、夏の終わりを感じる。
じりじりと照りつける朝日は、この曲のようにさわやかとは言いかねるなあ。

酔いどれ日記というのは、ブログの題名には多いようだが、酔いざめ日記というのは、あまりないのではないか。
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木山捷平という作家の名は、井伏鱒二がらみ、阿佐ヶ谷あたりの文士たちの将棋会などで知っていたが、その書いたものを読むのは始めてだ。

昭和7年(27歳)から64歳で亡くなる直前の昭和43年までの日記、その昭和22年までを読んだ。

題名の通り、まあよく呑むこと吞むこと、妻の着物から指輪まで質屋に入れて、驚くほどたびたびある文士仲間の集いの会費の捻出にも借金をしているのに、仲間が来て、こちらから訪ねて、場所を変えて、朝まで呑んで、それでもまだ吞む。
(昭和七年)三月二日、木、曇。
三月になったのに今日は相当寒い日和である。朝食を一時頃していたら今野が来た。「海豹」にのった『出石』をほめてくれる。連れ立って塩月君訪問。同君『出石』を巻中第一とほめてくれるうれしい。弄花二年あまり。夕方かえる。朝の郵便で太宰から六銭の手紙届いた。『出石』の批評がのっていて随分手きびしくやっつけてある。――彼は小生をまだ子供のように思っているらしい。しかし批評の態度はうれしい。夜、高円寺に出て竹下により、五銭の借金を十銭返した。五十銭の茶を買ってかえる。女房は今夜もひきつづき毛糸のモモヒキを編んでいた。
花を弄する、とはなんのことかと思ったら、花札のことだった。
二年あまり、とは花札の遊びの単位なのだろうか。
五銭の借金を十銭かえした、というのが、どういうことだろうか、また借りる時のための預け銭か。

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この日記の少し前二月二十一日の記述には、夕刊で小林多喜二の虐殺の報道があったことが記される。
「捕縛された当時大格闘を演じ殴り合った点が彼の死を早めたものとみられる」「心臓マヒ」が死因とされ、遺族や友人が、死因を確かめようと解剖を希望するが、帝大、慶大、慈大のいずれも拒絶する。
自宅の通夜を、警察は不当な集会と認め、集まった人を検束され、花束を抱えて弔問にきた中条百合子も門前で検束された。

四月十日の記述のなかに、
青樹基嗣君よりのハガキあり。犬吠埼の犬吠館より。詩の発表を乞い、私は弱かったのです。これで全部をさよならと申すのでございます。びっくりしたが、仕方なくそのままにしてしまった。(「朝日新聞」十一日朝刊に自殺の記事が出ていた)一日中気持がよくなかった。灸6×50―300。
とある。
電話も簡単にはかけられない時代。
濃密な体臭(そういえば風呂だって毎日入るわけじゃない)を嗅ぎ合って、お互いの苦しみを舐めあって、創作をしていたのだ。

訪ねて来た友人と、隣の家のラジオで松山中学の野球の試合を聞き、明石対中京の二十五回の試合のことも書いている。
花札、麻雀、なんといっても将棋はのべつ幕無し、日がな一日やっている。
2・26事件、5・15事件も起こる。

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芥川賞の候補になり落選する。
芥川賞初の女性、中里恒子「乗合馬車」が当選した日に、
何となくさびしさ身にしむ日。家を午後四時出でて井の頭公園の鯉でも見たき心あり。電車に乗りて吉祥寺に降りる。田畑君訪問。田畑松子夫人の家はじめてなり。不在。亀井を訪問。この家も始めて。夕飯の馳走になり、将棋をさす。彼は弱し。十戦位さしたが、二度敗けた。午後九時頃辞去。
八月二十日、文藝春秋九月号で芥川賞の選評を読み、
選者たちは神様にでもなったつもりで書いている。(よく訪問し、芥川賞を取るためのアドバイスなどもくれていた)宇野浩二のタヌキまで悪口を書き居る。ひいきのひきたおし、という奴だ。腹がかきむしられるようだ。ともかく、いい作品を書かねばならんのだが、こんなに書かれてはめいるばかりだ。出るところへ出ると人間はたたかれるといったらいいのだろうか。
貧しくて、金のある連中を羨み、神経痛を病んで、作品が書けなくて、イライラが高じ、妻が気が利かないことにかっとなって暴力をふるう。
昼と夜が不規則に逆転し、突然何人もやってきて、一晩中酒を飲んで、そのまま泊っていく。
奥さんが無愛想になるのも当たり前なのに、出迎えがないと言って怒るのだ。
兄事する井伏鱒二や文學仲間との将棋をまじえた交友と生れたばかりの男の子が気持ちをなだめてくれ、同時に文章修行にもなったのだろう。

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1944年(昭和19年)に新境地を開拓すべく満州(現在の中国東北部)の新京(現在の長春)に農地開発公社の嘱託社員として赴任する。1945年(昭和20年)に現地召集を受け兵役に就く。太平洋戦争終戦後、長春で1年程度難民として生活を送り、とウィキピデイアにある。
その間の日記が焼失したので、妻や子供に書いたハガキや手紙から選び出したものが載る。

昭和二十二年九月二十五日 帰国して郷里の岡山で過ごしている頃の記述。
昨夜、蚕豆を一斗ばかり庭に乾してあった筵の中味を盗まれた。門口の築地塀にはり紙をなす。
――九月二十三日夜、当家ノ蚕豆一斗ヲ盗ンダ泥棒ニ告グ。オ前ハ至急コレヲ元ノ所ニ返シテオケ。然ラザレバオ前ハ今年中ニ頓死シテシマウゾ。オ前ガ返シタラ、スグ道通様ニ打ッタ釘ハ抜イテヤル。当家主人――張り紙は三十分位して妻が取り去った。(四、五日後の朝蚕豆は家の庭に戻って来ていた)
ようやく、井伏鱒二が愛した、飄逸な作風の作家という、僕が抱いていたイメージらしい記述に出遭うことができた。

Commented by stefanlily at 2023-09-01 00:36
読んだ覚えはあるけど、作品名が失念です…
近代日本文学史の本を幾つか読みました。小林多喜二の遺体を引き取りに行ったのは中野重治、妻で女優の原泉、千田是也だったかな…
高見順の「昭和文学盛衰史」が面白かったです。
誰か思い出せないけど、貧しくて、家出して丁稚奉 公とかしとた作家がいたかな…木山より前の世代の人だったかもしれません。
宇野浩二は斎藤茂吉?の脳病院のお世話になったんだっけ…広瀬(フルネーム忘れた…広瀬流浪の息子、カミュの「異邦人」論争の作家)の随筆(岩波文庫)にありました。
病院に芥川も同行してるんですよ…宇野は治ったけど、芥川は…
その逸話は純文学オールスターですよね。
Commented by saheizi-inokori at 2023-09-01 09:33
> stefanlilyさん、私も近代文学史の本はいろいろ読みました。
それ自体がとても面白い物語なのですね。
登場する作家や奥さんに感情移入をしたりして、けっこう感動しました。
丁稚奉公は田山花袋、だいぶ前ですね。
広瀬じゃなくて広津、広津和郎でしょうかね。
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by saheizi-inokori | 2023-08-31 12:31 | 今週の1冊、又は2・3冊 | Trackback | Comments(2)

ホン、よしなしごと、食べ物、散歩・・


by saheizi-inokori
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