虹を見た
2023年 08月 24日
きのうの散歩の途中で、晴れているのに雨がザっと来た。
見上げると傘のように頭の上だけに鼠色の雲があった。
そこを抜けると、おお!虹を見たのはいつ以来だろう。
お~い、虹だぞ~!
みんなに知らせたくなった。
かどの家で植木に水をやっている(知らない)マダムがいたので、「虹ですよ、ほら!」と指さして教えてあげると、腰を伸ばして「あらほんと!ありがとうございます」。
かどを過ぎるともう虹は消えて、カミさんにはスマホで見せてやった。
甲子園で慶応高校が有利に戦っている頃、福沢諭吉が慶應義塾を作った話を読んでいた。
慶応四年(1868、明治元年)、諭吉は幕府の出仕命令を拒否して、芝の新銭座に塾の普請をした。
外は戦争騒ぎで物情穏やかならざる最中だった。
官軍も幕府側も、来る者は拒まなかった。
諭吉は明治新政府の招きにも応じなかった。
攘夷といつことが何よりも嫌いだったし、復古的な政府に期待しなかった。
東京奠都後に、イギリスの皇子が江戸城に入城するときに、不浄の外国人だからと二重橋で禊の御祓いをしたことを聞いて「笑いどころではない泣きたく思いました」と書いている。
五か条の御誓文(慶応四年三月十四日)成立の過程の話も興味深い。
新政府が薩長の覇権ではないことを明らかにすること、そうすることで態度を決めかねる諸侯へ参加を促すとともに、政府の信用を得て財政の基礎を固める必要もあった。
財政の任に当たった越前の三岡八郎(由利公正)が、最も熱心だった。
正月七日夜、慶喜の官位を剥奪、有栖川宮に東征総督を命じられたときに、「御親征の名分を天下にご布告あるべく、且つ又、会計の基礎御決定ありたし」とのことで、参与大久保、広沢、後藤、福岡、岩下と三岡は岩倉公の出席を乞うて大いに評議した。
その席で会計基金三百万両を用意することに一決したのに対して、三岡が「天下の方針」を決めるべきことを述べ、その席では誰も確固たる意見のないまま、また明日となる。
三岡は「岩倉公にお迫り申したが、万一吾に方針を命じられたらどうする」と考えて、帰宅して石筆(鉛筆)で、鼻紙にメモしたのが、五か条にまとまった。
三岡が福井で謹慎中に、坂本龍馬の訪問を受け、財政策について答えたほかに、各藩分立の不利を説き、天下の大方針を定め一挙して盛業を成就するように望みたいと話したものが、その後一日も念頭を離れなかったから、新しい国や政府の中心となるべき課題を、一貫して構想し続けていたのだ。
その五か条を福岡藤次に見せると「大いに賞賛したので、清書を彼に頼み」、自分は忙しかったので、東久世郷が御所に行くのに託し岩倉公に献じることにした。
東久世郷はもともと、東征軍を起こす際に、「幕府を討つと言うことについて、後で異論が出ないように、諸侯が誓約することが必要」という意見だった。
それでは三岡八郎の原案とはどんなものだったか。
その過程も書いてあって面白いが、長くなるから省略する。
歴史で習った最終文言と較べてみるといいです。
(ゴンズイ)
(エゴノキ)
見上げると傘のように頭の上だけに鼠色の雲があった。
そこを抜けると、おお!虹を見たのはいつ以来だろう。
お~い、虹だぞ~!
みんなに知らせたくなった。
かどの家で植木に水をやっている(知らない)マダムがいたので、「虹ですよ、ほら!」と指さして教えてあげると、腰を伸ばして「あらほんと!ありがとうございます」。
かどを過ぎるともう虹は消えて、カミさんにはスマホで見せてやった。
甲子園で慶応高校が有利に戦っている頃、福沢諭吉が慶應義塾を作った話を読んでいた。
慶応四年(1868、明治元年)、諭吉は幕府の出仕命令を拒否して、芝の新銭座に塾の普請をした。
外は戦争騒ぎで物情穏やかならざる最中だった。
さてその普請の一段になった所で、江戸市中大騒動の最中、却って都合が宜しい。八百八町只の一軒でも普請をする家はない。ソレどころではない、荷物をからげて田舎に引っ越すというような者ばかり、手廻しの宜い家では竈の銅壺まで外して仕舞って、自分は土べっついを拵えて飯を炊いて居る者もある。此の最中に私が普請を始めた処が、大工や左官の喜びと云うものは一方ならぬ。安いにも安いにも何でも飯が食われさえすれば宜い、米の代さえあれば働くと云う訳で、安い手間料で人手は幾らでもあるから、普請は颯颯(さっさ)と出来る。その建物も新たに拵えるのではない。奥平屋敷の古長屋を買って来て、凡そ百五十坪も普請したが、入費はわずか四百両ばかりで一切仕上げました。(福翁自伝)福沢がアメリカ出張のとき政府から貰った金であらん限りの原書を買ってきて教材にした。
官軍も幕府側も、来る者は拒まなかった。
諭吉は明治新政府の招きにも応じなかった。
攘夷といつことが何よりも嫌いだったし、復古的な政府に期待しなかった。
東京奠都後に、イギリスの皇子が江戸城に入城するときに、不浄の外国人だからと二重橋で禊の御祓いをしたことを聞いて「笑いどころではない泣きたく思いました」と書いている。
五か条の御誓文(慶応四年三月十四日)成立の過程の話も興味深い。
新政府が薩長の覇権ではないことを明らかにすること、そうすることで態度を決めかねる諸侯へ参加を促すとともに、政府の信用を得て財政の基礎を固める必要もあった。
財政の任に当たった越前の三岡八郎(由利公正)が、最も熱心だった。
正月七日夜、慶喜の官位を剥奪、有栖川宮に東征総督を命じられたときに、「御親征の名分を天下にご布告あるべく、且つ又、会計の基礎御決定ありたし」とのことで、参与大久保、広沢、後藤、福岡、岩下と三岡は岩倉公の出席を乞うて大いに評議した。
その席で会計基金三百万両を用意することに一決したのに対して、三岡が「天下の方針」を決めるべきことを述べ、その席では誰も確固たる意見のないまま、また明日となる。
三岡は「岩倉公にお迫り申したが、万一吾に方針を命じられたらどうする」と考えて、帰宅して石筆(鉛筆)で、鼻紙にメモしたのが、五か条にまとまった。
三岡が福井で謹慎中に、坂本龍馬の訪問を受け、財政策について答えたほかに、各藩分立の不利を説き、天下の大方針を定め一挙して盛業を成就するように望みたいと話したものが、その後一日も念頭を離れなかったから、新しい国や政府の中心となるべき課題を、一貫して構想し続けていたのだ。
その五か条を福岡藤次に見せると「大いに賞賛したので、清書を彼に頼み」、自分は忙しかったので、東久世郷が御所に行くのに託し岩倉公に献じることにした。
東久世郷はもともと、東征軍を起こす際に、「幕府を討つと言うことについて、後で異論が出ないように、諸侯が誓約することが必要」という意見だった。
それでは三岡八郎の原案とはどんなものだったか。
議事の体大意これに人々の加筆修正が入って、僕たちが学校で習ったあの五か条の誓文になる。
一、庶民志を遂げ人心をして倦まざらしむるを要す
一、士民心を一にして盛んに経綸を行うを要す
一、智識を世界に求め広く皇基を振起すべし
一、貢士期限を以て賢才に譲るべし
一、万機公論に決し私に論ずるなかれ
その過程も書いてあって面白いが、長くなるから省略する。
歴史で習った最終文言と較べてみるといいです。
薩長は自分たちが牽制されていると取って冷淡だし、平等思想などに公卿たちは反感を持つ、岩倉、大久保、広沢たちはあまり重要視しない。
そのなかにあって、木戸隼一郎だけが、長州人なるにも関わらず、三岡や福岡の意見をよく聞き、國本を定めることの意義の重大さを自覚し、上部の人々に説いて理解を求めた。
天皇も含めての「盟約」というのが不穏だというなら、神前に「誓う」ということにしてはどうか、と調停案を出したのも木戸孝允だ。
そのなかにあって、木戸隼一郎だけが、長州人なるにも関わらず、三岡や福岡の意見をよく聞き、國本を定めることの意義の重大さを自覚し、上部の人々に説いて理解を求めた。
天皇も含めての「盟約」というのが不穏だというなら、神前に「誓う」ということにしてはどうか、と調停案を出したのも木戸孝允だ。
天皇が百官公卿諸侯を率いて紫宸殿に出御、国是五章を誓い、三条実美を始めとして、文武百官が順次奉答書に署名した。
そのとき署名できなかった者も、日を追って参内し、凡そ八百名が署名した。
たしかに、というより「当時としては」というより「今は絶滅した」と言いたくなる。
そのとき署名できなかった者も、日を追って参内し、凡そ八百名が署名した。
後の普通選挙の時も、先年の終戦時にも五カ条の誓文は神聖な御幣の如く担ぎ出された。百年経ってもまだ新しく見えたのは、起草者が同じように開明的で、また当時としては珍しく公正な人材が揃って居たからである。と大佛は書く。
たしかに、というより「当時としては」というより「今は絶滅した」と言いたくなる。
by saheizi-inokori
| 2023-08-24 13:20
| 今週の1冊、又は2・3冊
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